Classical

ポーカーフェイス

午後から行った取引先との打ち合わせは、予想以上に長引いてしまった。
ようやく社に戻る途中、不意に隣りで押し殺したような溜息をつかれて、私は思わずその人を見上げた。
「室長、お疲れですか?」
「いや、大丈夫だ」
間髪入れずに答える横顔は、どう見ても疲れている。
だいたい、この人は働きすぎなのだ。
仕事に取り憑かれているとしか思えない。
「今日は、昼食は取られたんですか?」
「いや、食べていない」
「またですか?」
「ああ。だが、慣れている」
答える口調に何処か鬱陶しがられている雰囲気を感じて、それ以上は言えなくなる。
私は気づかれない程度に肩を竦めるだけにしておいた。

御堂孝典、三十二歳。
元MGNの企画開発部部長で、今は我が社の商品企画室室長という肩書きを持っている。
いったいどういう経緯があって、あの大会社からうちに移ってきたのかは分からない。
もちろん、うちも業界ではそれなりに大手とされているが、さすがにMGNには敵わなかった。
始めに彼の経歴を聞いたときは、信じられなかった。
三十二歳で、あのMGNの部長って、そんなバカな。
どれだけ裏で汚い手を使えば、そんなことが出来るのだろうかと。
けれど前の室長の不甲斐無さに辟易していた私達は、もう誰でもいいからとにかく変わってくれという心境だったのだ。
そしてこの数ヶ月、実際にこの人と一緒に働いてみて、それは大変な誤解であったことを思い知った。
この人は、本当に仕事が出来る人だ。
頭もいいし、決断力も行動力もある。
まさに人の上に立つべき人間だと、私達に思わせてくれた。

それだけではない。
このルックスで、しかもまだ独身だと言うじゃないか。
それを聞いては、女子社員一同黙っていられるはずがなかった。
初めて彼が出社してきたときには、皆一斉に色めき立ったものだ。
そして私は他部署の友人達から羨まれ、毎日のように『今日の御堂室長』に関して報告しなければならない羽目に陥っている。
ちなみに彼に恋人はいない、というのが私の予想だ。
いたとしても、うまくいっていないはず。
私がそう言うと、友人達は口を揃えて「それはお前の願望だろう」と笑うが、とんでもない。
はっきり言って、彼は私の好みではなかった。
確かに格好いいし、仕事は出来る。
経済力も申し分ないだろう。
けれど、何かが足りないのだ。
どうも決め手に欠ける。
何故そう感じるのか、私なりに考えてみた。
彼には、優しさが感じられない。
人間味とか温かみとか、そういう言葉とは無縁な印象だ。
常に効率と利益を優先するその態度は、しかし仕事においては当然の考え方だ。
責任者であるならば、尚更。
だから、そういうことが理由ではないのだと思う。
色々考えた末に私が辿り着いた答えは、彼には『中身が無い』というものだった。
とても隙の無い、完璧な人のように見えるけれど、実はその中心は空っぽなのではないかという気がしてならない。
きっと仕事を取ったら、何も残らない人なのだろう。
私はそういう人には興味が無いから、だから御堂室長にも魅力を感じないのだ。
そして私のような女性は、決して少なくないはず。
それでも彼はもてるだろうから、今までたくさんの女性に言い寄られてきたのだろうけれど、 実際に付き合ってみたら意外とつまらない人だった、というオチが多かったのではないだろうか。
失礼ながら私は、そう思っていた。
その時までは―――。

「御堂さん……!」
後ろから誰かの呼ぶ声がして、御堂室長はぴたりと足を止めた。
その瞬間を、私は上手く説明することが出来ない。
とにかく、彼の気配が全く変わったのだ。
自分の意思で立ち止まったというよりも、動けなくなったから止まったという感じだった。
室長はゆっくりと後ろを振り返り、そして呟いた。
「か……佐伯、くん……」
その声が、微かに震えているように聞こえて、私は耳を疑った。
思わず横顔を見上げると、彼は目を見開き、頬を強張らせている。
この人がこんな顔をするなんて、いったいどうしてしまったのだろう。
私も室長に倣って、後ろを振り返る。
私より少し年下だろうか、スーツ姿の男性がこちらに向かって走ってくるところだった。
その人は私達の前で立ち止まると、僅かに息を弾ませながら、ぺこりと頭を下げた。
「すみません、たまたまそこで見掛けたものですから……」
そう言って、はにかむように笑う。
MGNで部下だった人だろうか。
それにしてはちょっと冴えないけれど、人の良さそうな顔をしている。
うん、こっちの方が私好みだ。
そういえば、元彼も年下だったっけ。
そんなくだらないことを考えているうちに、佐伯君と呼ばれた彼はスーツのポケットを探り始めた。
「あの、御堂さんに渡さなきゃいけないものがあって」
「渡すもの……?」
その人がポケットから取り出したのは、片方だけのカフリンクスだった。
彼はそれを大切そうに掌に乗せると、室長に向けて差し出した。
「これ……前にお会いしたとき、ホテルの部屋に忘れていかれたので、預かってました」
それを聞いて、私はつい御堂室長の顔を見上げてしまった。
片方だけのカフリンクス。
ホテルの部屋。
それでも、まだその時点では私の考えすぎだろうと思っていた。
けれど。
「どうぞ」
いつまでも受け取ろうとしない室長に、その人は更に手を差し出してそれを促す。
そして、ようやく室長が手を伸ばした。
もしかして、返してほしくないのだろうか。
そう疑いたくなるほどに時間を掛けて、御堂室長はカフリンクスを受け取ると、そのままそれをぎゅっと握り締める。
「……すみません、お邪魔をしてしまって。それじゃあ、御堂さん……」
俯き加減だったその人が、まっすぐに顔を上げた。
「さようなら」
にっこりと、人の良さそうな笑顔を見せながら、その人は言った。
でも何故か、私には彼が今にも泣きだしそうに見えた。
彼はすぐに私達に背中を向けて、歩き出した。
やがて後ろ姿が人込みに紛れてしまうと、私は知らず知らず緊張していたのか、大きく息を吐き出した。
いったい、なんだったのだろう。
「今の……」
MGNの方ですか?
そう続けようとした言葉を、私は飲み込んだ。
見上げた御堂室長もまた、彼と同じように今にも泣き出しそうに見えたからだ。
青い顔をして、悔しげに唇を噛み、さっき受け取ったカフリンクスをきつく握り締めている。
視線は、さっきの彼が消えた方向を真っ直ぐに見つめていた。
こんな室長は、初めて見た。
いつも冷静で、決して感情的にならない人だと思っていた。
それが、どうだろう。
今は溢れ出しそうになる感情を、必死で堪えているように見える。
この人にもこんな激しさがあったのかと、私は驚いていた。
「……追いかけてください」
私は無意識に、そう言っていた。
私の言葉に彼は我に返ったらしく、戸惑ったような顔で私を見ている。
「室長。今の人のこと、追いかけてください。差し出がましいようですが、追いかけないと絶対に後悔すると思います」
私は、確信していたのだ。
私の予想は外れていなかった。
彼に恋人はいない。
いたとしても、うまくいっていないはず。
なんの根拠も無かったけれど、今のただならぬ雰囲気は間違いないと思う。
これは、女の勘だ。
けれど御堂室長の答えは、私を苛つかせるものでしかなかった。
「……今は、勤務時間中だ」
ああ、もう!
まったく、今にも死にそうな顔してるくせに、何言っちゃってるんだろう。
それでも仕事のことを忘れないのは、この人らしいのかもしれないけれど。
「だったら、後でもいいですから! 仕事が終わったら、すぐに追いかけてください。絶対ですよ!」
どうして無関係な私がこんなにむきになっているのか分からなかったけれど、でも絶対にそうしなければ取り返しがつかなくなるような気がした。
だから私は相手が上司であることも忘れて、強い口調で言い放っていた。
「……分かった」
幸い室長は怒りだすこともなく、ようやく少しだけ表情を緩めて、そう答えてくれた。



翌朝。
出社してエレベーターに乗り込むと、その中に御堂室長の姿があった。
「……おはようございます」
「ああ。おはよう」
なんとなく気まずい思いで、挨拶を交わす。
普段、この人はもっと早く出勤しているから、エレベーターで一緒になるのは初めてだ。
昨日は、あの後どうなったのだろう。
「追いかけろ」なんてけしかけてしまった手前、気になったけれど、 さすがに他の人達がいる前で聞くことは出来ない。
けれど同乗していた人達が途中の階で降りて、その後は二人きりになった。
思い切って尋ねてしまおうか、と思ったときだった。
「……昨日は、ありがとう」
意外な言葉に驚いて、私は彼を見上げた。
御堂室長は真っ直ぐ前を向いたまま、視線だけをこちらに寄越し、そして―――笑った。
「あ、あの……」
そのとき私は初めて、今まで彼の笑顔を見たことがなかったのだと気がついた。
私が口を開いた瞬間、エレベーターのドアが開く。
足早に行ってしまう室長の後ろ姿を見ながら、私はほっと溜息をついていた。
きっと、うまくいったのだろう。
やはり、女の勘は正しかったのだ。
二人の間に何があったのかは知らないけれど、あんな御堂室長は見たくない。
初めて見た彼の笑顔に、私は心から安堵していた。

それにしても。
(……結構、イイ男じゃない)
さっきの御堂室長からは、『中身が無い』とは感じられなかった。
多分、私が感じていたあの人の空虚の正体は、昨日の彼だったのだろう。
私が御堂室長を見直したということを含め、今回の出来事は誰にも話すつもりはない。
ただ儚い望みを抱えている可哀想な友人達の為にも、彼のことはさっさと諦めたほうがいいとだけ、忠告しておくことにしようと思う。

- end -
2008.04.14



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