Changin'
書類を届けに行った技術開発部を後にすると、克哉は腕時計を見た。
(これなら早めに終われそうだな)
時刻を確認して、僅かに頬が緩む。
今日は会社帰りに、御堂とジムに行く予定になっていた。
仕事も遣り甲斐があって楽しかったけれど、やはり御堂と二人きりで過ごす時間は少しでも多い方がいい。
ただでさえプロトファイバーの新バージョンを発売することになったおかげで、ここのところ仕事が立て込んでいたから尚更だ。
世間の流行はあっという間に変わっていく。
プロトファイバーも売り上げは安定しているものの、それがいつまでも続くとは限らない。
そこで新しいCMの製作と、グレープフルーツ味以外の味を発売するということが決まり、
1室のメンバーは様々な企画や打ち合わせに追われることになったのだ。
(今度も売れるといいなぁ……)
プロトファイバーは今や、克哉にとっても相当な思い入れのある商品だ。
それは恐らく、御堂にとっても同じはず。
だからこそ、少しでも長く売れ続けてほしかった。
―――売れるといいではなく、必ず売れる物にするのが我々の仕事だ。
考えていたら、そんな御堂の厳しい声が聞こえてきたような気がして、克哉は反射的に背筋を伸ばしていた。
「佐伯さん!」
不意に名前を呼ばれて足を止めると、後ろから白衣姿の男がやってくるところだった。
温厚そうな笑みを浮かべながら、足早に克哉の傍まで来る。
「川出さん」
その顔を見て、克哉も微笑んだ。
まだキクチの社員としてMGNに来ていた頃、彼には本当によくしてもらったと思う。
御堂が決して自分からは話そうとしなかったことを、川出は克哉に教えてくれた。
社内での御堂の立場や苦労、商品への情熱、そして克哉に対する評価。
あのとき川出が自分を信用して話してくれなければ、御堂への気持ちも今とは違うものになっていたかもしれない。
だから克哉は彼にとても感謝していた。
「お疲れ様です、川出さん。今日はこちらだったんですね」
「ええ。明日からはまた、しばらく向こうなんですけど」
同じ1室の所属ではあるものの、研究員の川出は研究所にいることも多い。
顔を合わせるのは久し振りのような気がした。
「どうですか? 少し」
そう言って川出は、ちょうど通りかかった休憩室を指差す。
克哉は瞬時に、今日の仕事の残り具合を頭の中で確認した。
多少の休憩を取るぐらいは許されるだろう。
「オレは大丈夫ですけど……そちらは大丈夫なんですか?」
「ええ、少しぐらいなら。それに、佐伯さんとはずっと話がしたかったんですよ」
それは克哉も同じだった。
克哉は川出の申し出を快く受け、二人で休憩室へと入っていった。
フリードリンクのコーヒーを手に、窓に向かって並んでいるカウンター椅子に腰掛ける。
綺麗に磨かれたガラスの向こう側では、傾きはじめた太陽が、眼下に広がるビル街を照らしていた。
「MGNには、もう慣れましたか?」
コーヒーを一口飲んだ後、川出が尋ねた。
「そうですね……。でも、まだまだ戸惑うことも多いです」
「そうなんですか?」
「ええ」
少し意外そうな顔をする川出に、克哉は苦笑する。
ここに来て二ヶ月以上経つが、それが正直なところだった。
MGNは大企業なうえに、外資系だ。
以前いたキクチとは仕事の内容も、遣り方も、社風も、何もかもが違う。
だから克哉はどんな雑事でも、出来るだけ進んで引き受けるようにしていた。
御堂の補佐的な仕事を請け負うことも多かったが、それでも克哉にしてみれば謙遜でもなんでもなく、
自分はまだ新入社員も同然だと思っている。
それを言うと御堂からはいつものごとく、『君は自分の実力を過小評価している』と呆れられてしまったのだが。
「……でも佐伯さんは、いつか必ずMGNに来ることになるだろうなと、私は思っていたんですよ」
続けられた川出の言葉に、克哉は目を丸くした。
「えっ、そうなんですか? それは、どうして……」
「だって本当に、御堂部長はあなたを買ってらっしゃいましたからねぇ」
唐突に御堂の名前を出されて、克哉はむせそうになる。
確か前にも、川出から同じ話を聞いたことがあった。
そのときは御堂本人が現れてしまったため、詳しく話を聞くことが出来なかったけれど、今なら聞けるかもしれない。
(でも……今更、そんなことを聞くのも変か)
御堂が自分をどう評価しているのか、今ではよく知っている。
改めて聞く必要も無いと思った克哉は、返事に困りながら、ただ曖昧に笑うしかなかった。
克哉がコーヒーを口に運ぶと、川出も申し合わせたように同じ動きをする。
暖かく、柔らかい苦味が、喉を通り過ぎていった。
「そういえば……佐伯さんが来てから、御堂部長が変わったような気がするんですよ」
コーヒーをカウンターに置くと、川出が思い出したように言った。
「えっ、変わった……?」
克哉の鸚鵡返しに、川出が頷く。
「ええ。どこがと聞かれると上手く説明出来ないんですけど、丸くなったというか、
穏やかになったというか……あ、もちろん仕事に厳しいのは変わらないんですけど」
それはそうだろう。
どんなことがあろうと、あの御堂が仕事に対する姿勢を変えるはずがない。
克哉がそう思っている間にも、川出はどうにかして伝えられる言葉を探しているようだった。
「以前の御堂部長は、責任感が強すぎるのか、一人で抱え込んでしまわれることも割と多かったみたいで……。
しょっちゅうピリピリしてらしたから、我々もよく心配していたんです。
でも、最近はそういう御堂部長を見なくなったんですよね。
考えてみたらそれって、ちょうど佐伯さんが来た頃からで」
「ちょ、ちょっと待ってください」
克哉は慌てて遮った。
「御堂部長が変わったかどうかについては、よく分かりませんけど……。
でも、それとオレがMGNに来たこととは、多分関係ないと思うんです……」
「そんなことないですよ」
そう言って、川出はニコニコと嬉しそうに笑う。
「有能で、信頼出来る部下が出来たことで、精神的に楽になられたんだと思います。
だから佐伯さんが来てくださって、本当に良かったですよ」
「はぁ……」
しかし克哉にはまだ信じられなかった。
もしもそれが本当で、確かに自分の影響なのだとしたら、こんなに嬉しいことはない。
自分は御堂の影響を受けて、変わったと思っている。
御堂の力になりたい、御堂に相応しい人間になりたいという一心から、
今まで尻込みしていたようなことにも挑戦出来るようになった。
それはずっと自分に自信が持てなくて、なんでもやる前から諦めていた克哉にとって、
世界を変えるに等しい出来事だった。
何かを達成するたびに御堂から掛けられる『それが君本来の実力だ』という言葉は、
克哉に少しずつ自信を与えてくれている。
けれど、自分が御堂を変えたなど―――。
(そんなこと、あるんだろうか)
地位も、名誉も、実力も強さも、全てを兼ね備えている御堂に、自分が影響を与えたなど俄かには信じがたい。
けれど川出は本気でそう思っているらしく、今度ははっきりと言い切るのだった。
「本当に御堂部長は変わりましたよ。佐伯さんのこと、有能な部下としてだけじゃなく、
人間的に信頼してらっしゃるんだと思います。お二人が話しているところを見ると、分かるんですよ」
「えっ……いや、そんな、まさか……」
もう、どうしたらいいのか分からない。なんだか顔が熱くなってきたし、変な汗まで出てきた。
そのとき覚えのある香りが、しどろもどろになっている克哉の鼻腔をくすぐった。
「―――こんなところにいたのか」
「!!」
それはやはり、御堂のフレグランスの香りだった。
川出は慌てて椅子から降りると、御堂に頭を下げる。
「御堂部長。お疲れ様です」
「お、お疲れ様です」
それを見て、克哉も同じようにする。
御堂はああ、と短く返事をした後、至って事務的な口調で克哉に言った。
「佐伯くん。昨日渡した資料だが、修正が出た。これから出来るか?」
「あっ、はい。分かりました」
二人のやり取りを見て、川出が申し訳無さそうに口を挟む。
「あの、それじゃあ、私は失礼しますので……」
「あ……お疲れ様でした。お話出来て、嬉しかったです」
前回と同じパターンになってしまったな、と少し残念に思いながら、克哉は声を掛ける。
川出は微笑みながら小さく頭を下げると、休憩室を出ていった。
「……あの、修正はかなりありますか?」
なんとなく気まずい気持ちを抱えながら、克哉は御堂に尋ねる。
しかし御堂は何も答えず、ドリンクコーナーに向かって歩いていってしまった。
(……さっきの話、聞かれてたのかな)
プライドの高い御堂のことだ、もしも聞いていたなら不愉快な思いをさせてしまったに違いない。
克哉は心配になって、御堂の後を追った。
「あの……御堂部長?」
しかし恐る恐る声をかけた克哉を見もせずに、御堂は平然と言う。
「嘘だ」
「え?」
「修正が出たというのは、嘘だ」
御堂はカップにコーヒーを注ぐと、呆気に取られている克哉ににやりと笑ってみせる。
「私にも、少しつきあいたまえ」
そして二人は、再びカウンターへと戻っていった。
御堂は川出が座っていたのとは反対側の、克哉の隣りの席に腰掛けた。
克哉はさっきまでと同じ席に座り、もうぬるくなってしまったコーヒーを口に含む。
そのまましばらく無言でコーヒーを飲んでいると、御堂の方が先に切り出した。
「……君は、どう思った」
「え?」
「さっきの話だ」
やはり聞かれていたらしい。
いったいどの辺りから聞いていたのだろうか。
湯気の上るカップを口に運ぶ御堂の横顔は、いつも通り冷静で、その真意は図れない。
けれど、どうやら怒っているわけではなさそうだった。
毎日顔を合わせているうちに、それぐらいの判断は克哉にも出来るようになっていた。
「私は、変わったか?」
「ええと……」
そう言われても、なんと答えればいいのか分からない。
確かに出会った頃の御堂には、あまりいい印象は無い。
しかしいくらなんでも、誰にでもあんな態度を取っていたわけではないだろう。
克哉に対して見せた顔が特別だっただけで、何も無い相手にはあくまで『冷静で、合理的で、仕事に厳しい、有能な部長』としてのみ
映っていたはずだ。
仕事以外の面では明らかに変わったと言えるけれど、それは川出の話とは全く結びつかない部分でのことであり、
今はそういう話をしているわけではない。
克哉はしばらく考え込んでいたが、おずおずと話しだした。
「オレには、よく分かりませんけど……でも、もしそうだとしても、それがきっと本来の御堂さんなんだと思います」
御堂は仕事においてはとても優秀だが、感情面では少し不器用なところがある。
だから傍目にはとても冷たく、近寄りがたい存在に思われてしまうけれど、
本当は優しさや暖かさもちゃんと持ち合わせている人だ。
ただ、表し方が上手くないだけで。
克哉がそう言うと、御堂は一瞬妙な顔つきをした後、意地悪く唇を歪めながら克哉を横目で見た。
「……君も随分と言うようになったものだな」
「え?」
何かおかしなことを言っただろうか。
克哉は自分の言葉を思い返してみる。
そして、気づいた。
「……あっ」
いつも自分が言われていることを、そのまま御堂に言い返した形になっている。
克哉は本当にそう思っただけだったのだが、御堂にはそれがわざとと受け取られてしまったらしい。
克哉は慌てた。
「ち、違うんです! わざと言ったわけじゃなく、オレは、本当にそう思って」
「何を慌てている? 私は別に、怒ってはいないぞ」
「で、でも……」
言葉に詰まり、克哉は俯いてしまう。
そんな克哉を見て、御堂はやれやれとでも言いたげな笑みを浮かべた。
「まあ、たとえ君の言う通りだとしても、それはやはり君の影響なのだろう。
しかもどうやらそれは、良い影響だったようだな」
「御堂……さん……」
克哉はまだ心配そうに、それでもようやく顔を上げる。
自分に向けられている御堂の眼差しの優しさに、克哉は微かに顔を赤くした。
「……オレの方こそ、御堂さんには色々といい影響を受けさせてもらってます。
自分でも変わったなぁと思うんです。本当に感謝しています」
照れ臭さに視線を逸らしつつ、それでも一生懸命に話す克哉を、御堂は頬杖をついたまま愛しそうに見つめていた。
「……そうだな。確かに君は変わったと、私も思う」
「本当ですか?」
「ああ。たとえば、そう……」
不意に御堂が、克哉の方に体を傾ける。
その距離の近さに、克哉の胸がドキリと鳴った。
そして御堂は克哉の耳元に唇を寄せると、酷く甘い声で囁いた。
「……セックスのとき、素直になった」
「!!!」
克哉の耳から首筋までが、一瞬で赤く染まる。
「み、御堂さ……何を、言って……」
真っ赤な顔で口をぱくぱくさせている様子は、まったく鯉のようだと思いながら、
御堂は声を出して笑いそうになるのを必死に堪えていた。
口元を拳で隠しながら、肩を震わせている今の御堂を川出が見たら、
きっとますます「御堂部長は変わった」と思うことだろう。
克哉は涙目になって、御堂を睨みつけた。
「ひどいじゃないですか……からかうなんて……」
「からかったつもりはない。本当のことを言ったまでだが?」
「尚更、悪いです……」
克哉は恨めしそうだったが、御堂はやけに楽しそうだった。
そしてカップに残っていたコーヒーを飲み干すと、腕の時計を確認する。
「さて、そろそろ仕事に戻るとしよう。今日は早く終われそうか?」
「は、はい。大丈夫です」
「そうか。では、行くぞ」
もう御堂は仕事の顔に戻っていた。
くるりと踵を返す御堂の背中を、克哉は慌てて追う。
真っ直ぐで強い、御堂の背中。
それを愛しく思う気持ちは、きっとこれからも変わらないだろう。
変わっていけるのは、変わらないと信じられる何かが自分の中に生まれたから。
御堂への愛情という確かな存在こそが、自分を変えてくれるのだと、克哉は心から思った。
- end -
2007.10.10
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