純愛ビギナー
午後六時。
帰り支度をしながら、克哉は満ち足りた気持ちでいっぱいだった。
これでプロトファイバーの件は、ほぼ解決したと言っていいだろう。
今朝のMGNでのミーティングでも、初めて御堂の口から8課に対する評価を貰うことが出来た。
全てが、うまくいきはじめたのだ。
そして御堂からは、もうひとつ大切なものを貰った。
彼の部屋を開けることの出来る、カードキー。
克哉は胸ポケットに収められているそれに、そっと触れた。
この薄く、硬い感触を、今日何度確かめたか分からない。
それでもこの週末に起きたことが、克哉には今でも信じられなかった。
自分がいつの間にか、御堂を好きになっていたこと。
拒絶されるのを覚悟しながら、それを打ち明けたこと。
そして、その想いを受け入れてもらえたこと。
自分の中に、あんなにも激しい欲望があったなんて知らなかった。
考えているうちについ、御堂の熱や吐息や声が思い出されてきて、克哉は慌てて胸のポケットから手を離した。
「……どうしたんだ、克哉?」
「えっ?!」
一人で真っ赤になっている克哉に、本多が声を掛ける。
克哉は頭の中に浮かんでいた淫らな記憶を、必死で振り払った。
「なっ、なんでもないよ。気にしないで」
「そうか? ……ところでさ、これから皆で飲みに行かないか?
ほら、プロトファイバーの方もなんとかなりそうだしよ。ちょっと早い祝賀会ってことで」
まだ結果が出たわけでもないのに、本多は自信満々なようだ。
やはり今日のミーティングでの出来事が、よほど嬉しかったのだろう。
その気持ちは、分かる。
「ちょっとじゃなくて、かなり早いよ」
クスクスと笑う克哉に、本多は少しだけ拗ねた表情を見せた。
「いいじゃねえか。善は急げって言うし。なっ、克哉。行くだろ?」
「うーん、そうだな……」
確かに、今日は一杯飲みたい気分ではある。
けれどそれよりももっと、克哉の心を占めているものがあった。
御堂孝典。
彼に会いたい。
今朝会ったばかりなのに、この週末片時も離れず傍にいたのに、それでもまだ御堂が足りない。
もっともっと、御堂が欲しかった。
(でも……)
冷静になって考えてみると、さすがに昨日の今日では迷惑かもしれないと思う。
土日、散々入り浸ったのだ。
あの忙しい御堂が、せっかくの休日を全て自分との時間に費やしてくれただけでも十分ではないか。
仕事で疲れて帰ってきたところに、また自分がやってきたら、御堂の気が休まらないだろう。
連日連夜押し掛けるなんて、鬱陶しがられてしまうだろうし……なにより、夢中すぎる自分がなんだか恥ずかしい。
それに部屋の鍵を貰えたからといって、変に厚かましくはなりたくなかった。
(あんまり調子に乗るなよ、オレ……)
そう心の中で自分を戒めていると、本多に肩を叩かれた。
「うわっ」
「おいおい、どうしたんだよ。行くんだろ?」
「あ、う、うん。行くよ」
「よっしゃ! そうこなくっちゃな!」
本多は張り切って、8課の他のメンバーに声を掛けに行く。
その様子を見ながら、克哉はつい小さな溜め息を漏らしていた。
飲み会はおおいに盛り上がった。
本多は祝賀会の前夜祭だと言っていたから、結果が出たらまた更に盛り上がることだろう。
8課がこれほど活気づいたことは、今までになかったと思う。
克哉も勿論楽しかったし、嬉しかった。
それでも飲み会の間中、気がつけば御堂のことを考えてしまう自分がいたのも事実だ。
幾度も、携帯電話を確認した。
昨日、ようやく教えあった互いの電話番号とメールアドレス。
けれど御堂からの連絡は無かった。
また週末が近づけば、連絡が入るかもしれない。
それまでは、我慢しよう。
克哉はそう自分に言い聞かせた。
店を出る頃には、既に終電も無くなっていた。
8課の皆と別れて、克哉はひとりタクシーに乗り込む。
運転手に行き先を告げ、シートに背中を預けると、また携帯電話を取り出して眺めた。
相変わらず、着信は無い。
克哉は無意識に、御堂の電話番号を表示させていた。
(御堂さん……)
指先が、発信ボタンの上を滑る。
これを押せば、御堂に繋がるのだ。
会えなくてもいい、声だけでも聞きたい。
けれど今の時間、御堂はもう眠っているかもしれない。
出来ることなら、今夜もその隣りで眠りたかった。
そう考えるだけで、克哉の胸はせつなく痛む。
さっき我慢しようと言い聞かせたばかりなのに、御堂のことが好きすぎて、このままではどうにかなりそうなぐらいだ。
克哉は携帯電話を握り締めたまま、大きな溜め息をついて項垂れた。
「……?」
ふと違和感を覚えて、顔を上げる。
すると携帯のディスプレイで点滅している、発信中の文字が目に飛び込んできた。
「……うわっ!」
克哉は慌てて、電話を切る。
うっかり発信ボタンを押してしまったらしい。
「……お客さん、大丈夫ですか?」
「あっ、は、はい! すみません、大丈夫です」
一回ぐらいコールされてしまっただろうか。
眠っているところを、起こしてはしまわなかっただろうか。
心配になっていると、今度は逆に着信音が鳴り響いた。
「うわっ!」
またしても思わず出してしまった声に、運転手から訝しげな視線を向けられて、慌てて口を噤む。
電話は、御堂からだった。
克哉は急いで通話ボタンを押す。
「はっ、はい。もしもし」
『……克哉か?』
御堂の声。
耳元から聞こえるそれに、顔が一気に熱くなるのを感じた。
「す、すみません。今、オレ、間違って掛けてしまって」
ドキドキと高鳴り出す鼓動をなんとか抑えて、克哉は言い訳を口にする。
それを聞いた御堂は一瞬黙り込み、それから低い声で返してきた。
『……間違って?』
「は、はい。掛けるつもりなかったんですけど、いつの間にかボタンを押してしまっていたみたいで……」
『……』
「あの……」
気まずい沈黙が流れる。
やはりこんな時間に電話を鳴らしたりして、御堂を怒らせてしまったのだろう。
また失敗してしまった。
それに気づいた克哉の鼓動は静まり、身体の中で上昇した熱もすうっと引いていく。
悲しくなって俯いていると、しばらくしてようやく御堂の声が聞こえてきた。
『……今、どこにいる?』
「えっと……タクシーの中です。家に帰る途中です」
『……』
そして、再びの沈黙。
どうすればいいのだろう。
どうすれば分かってもらえるのだろう。
ただ御堂に会いたくて、御堂の声が聞きたくて、それだけだったのに、うまく伝えられないことがもどかしい。
今この場所にいるのが自分ひとりだったなら、伝えられるのだろうか。
いや、多分無理だ。
いつだって、自分の気持ちをうまく伝えられたことなどないのだから。
克哉は小さく息を吸い込み、何かを言おうとしては止めるのを繰り返していた。
『……君は、平気なのか?』
不意に受話器を通して聞こえてきた呟きに、克哉は顔を上げる。
「えっ? それは……」
どういう意味ですか、と続けようとした言葉は、御堂が電話を切ってしまったことで、そのまま飲み込まれてしまった。
放り出された克哉は、半ば呆然としながら考える。
―――君は、平気なのか。
平気じゃない。
ちっとも、平気なんかじゃなかった。
今だって耳の奥に残る御堂の声に、泣きたいような気持ちになっている。
でも、いいのだろうか。
自分の気持ちに、素直になっても。
御堂に、会いに行っても。
「……あのっ、すみません!」
克哉は思いきって身を乗り出すと、運転手に行き先の変更を頼んだ。
玄関のドアを開けてくれた御堂は、酷く不機嫌な様子だった。
無言のままリビングに入っていく御堂に、克哉もまた無言でついていく。
ガウン姿に、もしや眠っていたところを起こしてしまったのかとも思ったが、
ローテーブルには飲み途中と見られるワインとグラスが置いてあった。
御堂はソファに腰を下ろすと、グラスに残っていたワインを飲み干す。
克哉はその傍で、所在無さげに立ち尽くしていた。
「あの……オレ……」
やはり、来るべきではなかったのかもしれない。
きっと鬱陶しい奴だと思われてしまったのだろう。
明らかに怒っている御堂を前にして、せっかく会えたというのに、克哉の気持ちは落ち込んでいくばかりだった。
いたたまれない空気に俯いていると、とうとう御堂が沈黙を破った。
「……こんな時間まで、何をしていた?」
「あ、あの、8課で飲み会があって、それで……」
「それで……飲み会が終わって、そのまま家に帰ろうとしていたと?」
「……はい」
克哉の返事に、御堂がフンと鼻を鳴らす。
そこでようやく克哉は、もしや自分は大きな勘違いをしているのではないかということに思い至った。
まさか。
けれど。
これが自惚れでないことを祈りながら、克哉は御堂を見つめる。
またしても少しずつ速まっていく鼓動に、上擦る声で恐る恐る尋ねた。
「あの、御堂さん。もしかして、オレのこと……待っていてくれたんですか?」
「!!」
その瞬間、御堂の顔がほんの僅か赤くなったのを、克哉は見逃さなかった。
もう我慢出来ない。
思わず御堂に駆け寄り、身を乗り出して訴える。
「み、御堂さん! オレ、本当はあなたにすごく会いたくて! 声が聞きたくて!
でもあなたからは連絡がないし、毎日のように押し掛けたりしたら、あなたの迷惑になるんじゃないかと思って、それで……!」
克哉は堰を切ったように溢れ出した想いを、一息に御堂に告げる。
御堂は少し驚いたように目を丸くしていたが、その必死な様子にようやく表情を緩ませた。
「君は……」
呆れたように呟いた後、克哉の腕を掴み、強く引き寄せる。
うわ、と声を上げながら、克哉は勢いよく御堂の胸に倒れ込んだ。
そして、そのままきつく抱き締められる。
「……君が来ないとは、思っていなかった」
「え……?」
御堂の囁きに克哉は顔を上げようとするが、抱き締める力が強くて叶わない。
まだ戸惑っている克哉の髪に唇を寄せて、御堂は更に続ける。
「連絡などせずとも、当然今夜も君は来るものだと思っていた。それなのに君は、まったく……」
「御堂……さん……」
ほんの少し、腕が緩む。
克哉は顔を上げて、御堂を見つめた。
御堂は相変わらず怒ったような顔をしてはいたものの、それは「私にこんなことを言わせるな」とでも言いたげに見えた。
(そうか、この人も―――)
不器用なのだ。
どうしようもなく。
自分の感情を素直に表す方法を知らない。
寧ろこんな風に激しく感情を揺さぶられる相手に、初めて出会ってしまったのだろう。
そして克哉は口篭り、御堂は冷たくも見える態度を取ってしまう。
気持ちだけは十分すぎるほどあるのに、伝える術が足りない。
突然こんな関係になって戸惑っているのが自分だけではなかったのだと気づいた克哉は、
この目の前の人が堪らなく愛しくて、また可愛くさえ思えた。
しかし思わず頬を緩ませた克哉に、御堂は顔を顰める。
「……なんだ。何がおかしい」
「い、いえ。おかしいということじゃ……」
慌てて笑みを引っ込めるが、御堂はますますムッとして、
克哉に今まで待たされたことへの苛立ちをぶつけてきた。
「そもそも毎日来られては迷惑だと思うような相手に、部屋の鍵を渡したりするはずがないだろう。
君は仕事における洞察力には優れているが、こういったことに関しては全くの無能なんだな」
「む、無能って」
あんまりな言われように、克哉もすかさず反論する。
「そんな……それを言うなら、御堂さんだって一言連絡をくれたらいいじゃないですか。
そうしたら、オレだってもっと早く……」
「だったら君の方から連絡を寄越せば良かっただろう。私の声が聞きたかったんじゃないのか?」
「それは、そうですけど……。でも……」
そこでふと、克哉はあることを確かめたくなった。
今更こんなことを尋ねるのもどうかとは思ったが、やはり気になる。
それさえはっきりさせることが出来れば、これからはもう少しうまく自分の気持ちを伝えられるかもしれない。
だから克哉は、御堂を上目遣いに見ながら尋ねた。
「あの、オレ……御堂さんの恋人、だと思って……いいんですよね……?」
その質問に、御堂は一瞬呆けた後、ぷいと顔を背けて答える。
「……当たり前のことを聞くな。くだらない」
「御堂さん……」
普通の恋人達のような過程を辿らなかったせいか、少し不安だったのだ。
けれど御堂の答えに安心を得た克哉は、遠慮なく御堂にしがみついた。
首に腕を回し、御堂の髪に頬をすり寄せると、克哉の背中にも御堂の手が回る。
この方が、自分達には向いているのかもしれない。
言葉にするよりも抱き締めあう方が、ずっとうまく気持ちが伝わるような気がする。
互いの熱を感じて、それからやっと言葉が出てくるのだ。
「御堂さん。オレ……あなたのことが、大好きです」
「……それなら、私をもう待たせるな。私は待たされるのは嫌いだ」
「はい、分かりました。大丈夫です。オレは待つの、好きですから」
はにかみながら克哉が言い、視線が絡み合う。
その返事に満足したのか、御堂も微笑みを浮かべて応える。
「……では、ちょうどいいな」
そして二人は唇を重ねる。
少し遅い恋人達の夜が、今ようやく始まった。
- end -
2007.12.05
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