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「―――!」
後ろから軽く小突かれただけで、克哉はびくりと身体を弾ませる。
咄嗟に振り返った背後には、ファイルをたくさん抱えた同僚の女性社員が驚いた顔で立っていた。
「ご、ごめんなさい」
「いえっ、大丈夫です……」
互いに小さく頭を下げあってから、克哉は通り過ぎていく彼女の後ろ姿を横目で見送る。
何事も無かったことにほっと溜息を吐いて、目の前にあるキャビネットに向き直った。
すれ違いざまにちょっとぶつかっただけなのにあんな反応をされてしまっては、さぞかし驚いたことだろう。
彼女に対して申し訳ない気持ちになるが、それこそ自分でもどうしようもないのだ。
克哉は目当てのファイルを取り出しかけたまま、視線だけで自分の下肢をそっと見下ろした。
(大丈夫。気づかれるはずがない―――)
スラックスの上から見る限り、どこもおかしなところはない。
この下で自分がどんな格好をしているかなど、傍目には絶対に分からないはずだ。
それでも―――。
「……っ」
考えるだけで身体の奥が震えて、自分で自分をきつく抱き締めたい衝動に駆られる。
欲望に抗えずについ御堂の要求を受け入れてしまったけれど、出勤してからずっと克哉は落ち着かなかった。
椅子に座るにも、立ち上がるにも、歩くことにもびくびくしてしまう。
そんなはずがないのに、周囲の視線が自分の下半身に向けられているように感じてしまう。
腰周りが不自然に膨らんで見えてはいないか、身じろぎするたびにおかしな音がしてはいないか、怖くて怖くて堪らない。
しかも身体の中では既に、朝から堪え続けている生理的な欲求が確実に主張を始めていた。
今日はまだ何も口にしていない。
朝食も昼食も食べていないし、コーヒーやお茶も飲んでいなかった。
それはささやかな抵抗というよりも、単に何も口に入れる気にならなかっただけなのだが、
ずっと続いている緊張状態の中では空腹など感じる余裕もなかった。
ただ喉が酷く渇いていることだけは確かで、克哉はそれを紛らわせるように幾度も唇を舐めた。
(我慢……出来るかな……)
会議が始まる時刻まで、あと四十分ほど。
今日の会議は月例報告がメインだから、長くても一時間もすれば終わるだろう。
それまでなんとか耐えられればと思うが、下腹に感じる疼くような重みに、時折無意識に膝を擦り合わせてしまう。
こんなところでは股間を押さえるわけにもいかず、それならばいっそ会議の前に出してしまったほうがいいのではないかとさえ考えてから、
克哉は自分自身の愚かさに思わず苦笑した。
会議中だろうがその前後だろうが、漏らしてしまう恥ずかしさにも情けなさにも変わりはない。
それに、あの要求を受け入れたのは紛れも無く自分なのだ。
四六時中見張られているわけでもなし、御堂の目を盗んでトイレに行くことぐらいはしようと思えば幾らでも出来る。
けれどそれをしないのは、自分の中にも間違いなく醜く歪んだ欲望があるからだ。
御堂と秘密を共有したい。
御堂に自分の浅ましい姿を見てほしい。
御堂にだけ、知っていてもらいたい。
誰も知らない、狂気にも似た歪んだ欲を。
「……」
一瞬、克哉は恍惚とした表情で目を細める。
それから邪まな想いを振り切るように緩く首を振ると、静かにキャビネットの扉を閉めた。
執務室のドアをノックすると、すぐに返事が聞こえた。
「失礼します。言われていた資料をお持ちしました」
「ああ、そこに掛けて待っていてくれ」
御堂はパソコンから顔を上げずに答え、顎先だけでソファを示す。
克哉は言われるがままにソファへと向かい、そろそろと腰を下ろした。
テーブルの上に置いたファイルを広げ、目を通そうとするも緊張のせいかうまく頭に入ってこない。
今日は新しい企画のプレゼンをするわけでもないし、報告は主に御堂がするのだから克哉が緊張する必要もないのだが、
それでも自分の置かれている状況を考えると、これからの時間が恐ろしくて仕方が無かった。
「先日のものから変更は?」
突然頭の上から声が降ってきて、克哉はハッと我に返る。
「は、はい。ありません」
「そうか」
いつの間にかデスクを離れてきていた御堂は、克哉の正面に腰掛けると同じようにファイルを開いた。
御堂の態度は普段と少しも変わらない。
けれど御堂の声を聞き、その姿を目の前にしただけで克哉の身体は緊張を増してしまう。
―――平然としているけれど、この人は何もかもを知っているんだ。
今までに起きたことも、これから何が起きるのかも、今の自分も全て。
それを思うとまた更に腰の辺りが重くなったような気がして、克哉は下肢にぐっと力を込めた。
「……それで、このキャンペーンに関する報告は君からしてもらうということで構わないか?」
「……え? ……あ、は、はい! 構いません!」
「……」
どうやらまたぼんやりしていたらしい。
御堂に何か話しかけられていたことにさえ気づかなかった。
慌てたように答える克哉を見て御堂は軽く目を見張り、それから口元をにやりと歪めた。
「どうも心ここにあらずといったようだな。……まだ、大丈夫なのか?」
「……!!」
克哉は頭の芯までかっと熱くなるのを感じながら、思わず御堂から顔を背ける。
「……大丈夫……です……」
「そうか」
御堂がクッと喉の奥で笑った。
その視線が何処に向けられているのかまで分かって、灯った熱は体中に広がっていく。
何も大丈夫ではない。
一段と重くなっていく下肢にきつく足を閉じてやり過ごそうとするも、触れ合う膝が微かに震えるのを抑えきれない。
「ところで、ここの数値だが……」
しかしそれに気づいていたであろう御堂は、すぐに空気を戻して話を続ける。
克哉も必死で意識を集中させようとするが、御堂が動くたびに微かなフレグランスの香りが鼻先を掠めて心が揺らいでしまう。
鼓膜を震わせる御堂の声に頭の芯が熱くなっていく。
―――今ここで、漏らしてしまおうか。
そう思った瞬間、心臓がどくんと大きく音を立てた。
そして無様に失禁してしまう自分の姿が脳裏にフラッシュバックするのと同時に、御堂は腕時計を見てファイルを閉じた。
「では、そろそろ行くか」
「は……はい」
座ったときと同様、そろそろと克哉は立ち上がる。
もう、後戻りは出来ない。
資料を抱えて執務室を出ようとしたところで、不意に御堂が克哉の耳元で囁いた。
「……せいぜい頑張りたまえ」
「っ……」
思いがけず傍に感じた御堂の吐息と体温、そして低く甘い声に、克哉はそれだけで気が遠くなりそうだった。
各部署の報告が淡々と進んでいく中、克哉はもう何度目か分からないほどに時間を確認してばかりいた。
(どうしよう……)
会議が始まってからまだ二十分しか経っていない。
それにも関わらず、克哉は机の下で震える膝を擦り合わせながら懸命に尿意に耐えていた。
空調の利きすぎた会議室はひんやりとしていて、寒さを感じるほどだ。
今日は少し蒸し暑かったから、誰かがいつもよりも室温を低く設定したのかもしれない。
それはさっきまでまだ大丈夫だと思っていたはずの欲求を、急激に限界へと近づけるには充分過ぎるものだった。
「……で、こちらはテレビCMとキャンペーンの効果と思われます。資料の12にもございますように……」
二つ隣りにいるはずの報告者の声が遠くに聞こえる。
プロジェクターに映る円グラフを見つめるふりをしながらも、意識は身体の奥にある疼きにばかり集中してしまっていた。
机の上でペンを握る指先が白くなっていく。
時折大きな波が来るたびに二の腕の辺りまでもが震えて、克哉は拳を口元に当ててそれをやり過ごさなければならなかった。
「―――では、開発部第一室より報告をさせて頂きます」
「……!!」
突然、隣りにいた御堂が立ち上がったので克哉は思わずびくっとしてしまう。
実際は突然ではなかった。
ただ克哉が前の報告者が発表を終えたことに気づいていなかっただけで。
「まずは、現在メイン商品となっておりますビオレードに関してですが……」
御堂の声が会議室に響き始める。
さっき執務室を出る直前に聞いた声とは違って、硬く、なんの感情も込められていない声だ。
以前はこの声で名前を呼ばれるだけで怯えていた。
次は何をされるのか、何をさせられるのか、御堂が口を開くごとに身体は竦み、恐怖と羞恥に震えた。
けれど、今は違う。
御堂が自分の名を呼ぶとき、その声は酷く甘く、この身体と心を蕩かせる。
もしも今、御堂に名前を呼ばれたら駄目かもしれないとふと思った。
会議という場も弁えず、歪んだ欲望に身を委ねて何もかもを解放してしまうかもしれない。
身の内を苛む欲求を許してしまうかもしれない。
その瞬間を、きっと御堂は見逃さないだろう。
「……」
克哉は下肢に力を込め、太腿をぎゅっと閉じ合わせた。
もう他のことなど何も考えられないほどに、限界は近づいている。
でも、もうそれでもいいとさえ思い始めていた。
漏らしてしまえばいい。
これ以上、我慢する必要などない。
御堂に知ってもらえるのなら。
御堂にだけ、気づいてもらえるのなら。
スーツの下で起きようとしている、淫らで醜悪な事態を御堂が望んでいるのなら。
「……佐伯君」
「!!」
不意に呼ばれたその声に、克哉の意識が引き戻される。
顔を上げると自分を見下ろしている御堂と目が合って、克哉は今が会議中であることを改めて思い出した。
「はっ、はい!」
慌てて立ち上がると同時に、克哉は「あ」と小さく呻く。
その声は恐らく御堂の耳に届いていたことだろう。
そして克哉は、やや前屈みの姿勢になったまま固まってしまった。
「……佐伯君?」
訝しげな御堂の声も耳に入らない。
思わず股間を押さえそうになった手のひらはなんとか留めたものの、その奥では完全に力の抜けてしまったペニスから
溜まりきった小便がショロショロと流れ出していた。
(出て、る……!)
鼓動が激しくなり、呼吸が苦しくなる。
震えのせいで噛み合わない歯がカチカチと微かな音を立てていた。
―――漏らしている。
様子のおかしい克哉に、会議室に居並ぶ面々の視線は集中していたが、克哉の意識はただ小便を垂れ流し続けている自分の下肢にのみ向けられていた。
我慢しすぎたせいで始めは勢いの弱かったそれが、みるみるオムツの中に広がっていくのが分かる。
温もりが冷える隙もないほどに止まることを知らない。
(孝典、さん……っ)
恐る恐る視線を向けると、御堂は克哉をじっと見つめていた。
すぐ傍にあるその胸にすがりついてしまいたいのに、それが出来ないもどかしさが克哉を苛む。
そのとき御堂は誰にも気づかれないほど僅かに目を細め、確かに笑った。
「佐伯君、具合が悪そうだが大丈夫か?」
御堂がわざと周囲に聞こえるよう尋ねる。
「は、はい……大丈夫、です……」
痛むほどカラカラに乾いた喉から、必死で震える声を出して答えた。
(どうしよう……)
御堂は気がついている。
周囲の者達も眉を顰めて克哉を見ているが、何が起きているのかまでは分かっていないはずだ。
ようやく止まる気配を見せ始めた身体は確かに温度を下げているはずなのに、
それに反比例するかのように別の熱が生まれ始める。
こんなところで、みんなに見られながら失禁をして、そして自分は欲情しているのだ。
克哉の顔は青ざめていたが、理由を知っている御堂だけはそれを気にする様子もなく冷静に指示を出した。
「それでは、各店舗でのキャンペーンに関して報告をしてくれ」
「は、はい……」
まだ震えの止まっていない声で返事をしてから、克哉はごくりと唾を飲み込んだ。
ざわつきかけていた周囲が、元の静けさを取り戻していく。
報告をしなければ。
そして会議を終わらせて、そうしたらきっと……。
克哉は一度きつく目を閉じてから深く息を吸い込み、握り締めたままだった資料を改めて見つめた。
会議が終わって執務室に入るまで、二人は無言だった。
言われるまでもなく克哉は鍵を閉め、御堂はデスクの前に座る。
その前に立ち尽くしたまま、克哉は何も考えられずにいた。
御堂の視線が呆然としている克哉の全身を舐めるように滑り、そして腰の辺りで止まる。
「……傍目には、まったく分からないな」
からかうような口振りで言われ、克哉はただ目を伏せる。
「君はどうしたい?」
「オレ、は……」
ずっしりと重みを感じる下肢が気持ち悪い。
けれど、それよりももっと強い欲望が今にも溢れ出しそうになっている。
「……けて……」
「……?」
掠れた声は御堂に届かず、御堂は僅かに首を傾げる。
もう、我慢出来ない。
勤務中に何をというならば、それは御堂も同じだ。
要求を受け入れた自分のことも棚に上げてしまうほど、克哉は追い詰められていた。
「助け、て……孝典さん……」
このままでは本当に狂ってしまう。
形振り構わず涙目で呟くと、御堂がその頬に僅かな笑みを湛えながら立ち上がった。
そして克哉の傍に来て、指先で顎をすいと撫でる。
克哉は欲情に濡れた瞳を一瞬御堂に向けてから、すぐにきつく目を閉じた。
もう立っていられないとばかりに御堂の胸にもたれかかると、腰を抱き寄せられる。
ベルトに指先が掛かり、それが外される小さな金属音を聞きながら克哉は絶望的なまでの期待に身を震わせた。
早く、あなたが欲しい。
他に何も考えられない。
僅かに残されていた理性も躊躇いも全て手放し、克哉は御堂の愛撫に溺れていく。
それが、御堂が克哉に失禁を要求した最後の日になった。
- end -
2010.05.28
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