Feroce


さっきから続いている薄い耳鳴りの向こうで、盛大な爆発音と女の悲鳴が聞こえた。
それから捲くし立てるように男と女が英語で何か喋り出したが、何を言っているのかはっきりとは聞き取れない。
カーチェイスでも始まるのだろうか。
けれど今のオレにとって、そんなのはどうでもいいことだった。
「……ッ」
館内全体を震わせるほどの大音量がシートに埋めた腰を突き上げてきて、オレはその衝撃に低く呻いた。
映画が始まってからどれぐらい経ったのだろう。
まだ一度もまともにスクリーンを見ていないから、ストーリーは全く分からない。
ここに座ってからずっと俯いたままでいるオレの目には、 膝の上できつく握り締めている拳がチカチカと明滅する青白い光に照らされているのだけが映っていた。
「……く…ッ……!」
押し寄せてくる衝動にきつく目を閉じると、不意に戦慄く膝を押さえつけていた拳の上にもうひとつの温もりが重なる。
「……出すときは知らせろ」
「……!」
耳元に近づいた唇から低く熱のこもった声で囁かれて、オレの身体はびくりと跳ねた。
同時に背筋が震え、擦り合わせていた太腿の内側が細かく痙攣を始める。
「……か、のりさ……オレ…ッ……」
周囲の視線が無いのをいいことに、オレは孝典さんの腕に冷たい汗で濡れた額を押し付けた。
あまり評判がいいとは言えない映画のせいか、館内は休日にも関わらず空席が目立っているようだ。
オレ達が座っている一番後ろの列には、他に誰もいなかった。
「もう……もう……」
そのまま額を擦りつけ、泣き声で呟く。
今朝起きてから、まだ一度もトイレに行かせてもらえていない。
身じろぎすると下肢からガサリと音がしたような気がして、オレは否が応にもズボンの奥に隠された自分の無様な姿を思い出させられた。

朝、目が覚めると孝典さんはちょうど着替えを済ませたところだった。
「……おはようございます」
「ああ、おはよう」
振り返り、笑顔で答えてくれた孝典さんにオレも微笑み返す。
半分ほど開けられたカーテンの向こうには、眩しい空が広がっているのが見えた。
今朝はだいぶ暖かいようだ。
そのときのオレはまだ、今日がいつもの休日と同じように過ぎていくのだとばかり思っていた。
「今日は、映画を見に行かないか?」
孝典さんはクローゼットの奥を一瞥してから、腕を組んでオレのほうに向き直る。
その誘いに、オレは少しばかり驚いた。
オレは映画を見るのが好きだったから何度か孝典さんを誘ったことがあったけれど、孝典さんのほうから誘ってくれるのは珍しかったからだ。
いや、初めてと言ってもいいかもしれない。
てっきり孝典さんは映画があまり好きではないのだとばかり思っていたオレは、なんだか嬉しくなってベッドの上で身を乗り出した。
「あ、いいですね。何か見たい映画があるんですか?」
「いや。特にはないが」
「はぁ……?」
孝典さんから誘ってくるぐらいだから余程見たいものでもあるのかと思えば、そういうわけでもないらしい。
その時点でもう違和感を覚えてはいたものの、この貴重なデートの誘いを無駄にしたくなくて、オレはそれに気づかないふりをした。
「で、でも、行けば何かやっていますよね。それじゃあ、オレも急いで準備します」
「ああ、そうだな。……それから」
「はい?」
跳ねるようにベッドを下りて、寝室から出て行こうとしていたオレはそこで立ち止まる。
視線が合うと、孝典さんはその端正な顔にニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「今日はトイレに行くのは禁止だ」
「えっ……」
ざっと血の気が引く。
また、だ。
また孝典さんはオレにあの羞恥を味わわせようとしている。
オレは自分の鼓動が急激に速くなるのを感じていた。
「で、でも……オレ……」
無意識に零れた声は、掠れて震えてしまう。
孝典さんは開けたままだったクローゼットの中に備え付けてある引き出しから何かを取り出すと、それをベッドの上に放り投げた。
白い、タオルのようなものがぽすっと軽い音を立てて毛布の上に落ちる。
「安心したまえ。今日はそれを着けていって構わない」
「……?」
オレはふらふらとベッドの傍まで戻ると、孝典さんが投げて寄越したものに手を伸ばしかけて―――慌てて、手を引いた。
「これ……!」
手に取るまでもなかった。
オレは信じられない気持ちで、窓辺に立っている孝典さんを見る。
「まさか……これを……?」
「ああ。そのほうが君もいいだろう」
「そんな……」
まるでそれが心からの優しさであるとでも言いたげな孝典さんの声音に、オレはしばし呆然とする。
それは、大人用の紙オムツだった。
まさか、これを着けて外出しろというのか?
そしてトイレではなく、この中に―――?
「孝典さん……!」
オレは悲鳴じみた声を上げながら、孝典さんに縋りついた。
「もう、やめてください……。こんなの……こんなの、オレは嫌です!」
「嫌? 何故?」
「当たり前じゃないですか! だって……」
どうして分かってくれないのかと泣き出しそうになりながら、ベッドの上にあるものをもう一度振り返る。
恥ずかしい。
みっともない。
情けない。
怖い。
堪らなくなって思わず目を逸らすと、孝典さんはオレの腰をぐいと抱き寄せた。
「……本当に嫌なのか?」
「……っ」
真正面から問われて、何故か一瞬言葉に詰まる。
嫌に決まっている。
オレはこんなこと望んでいない。
望んでいない、はずだ。
「嫌、です……」
半ばうわの空で答えると、孝典さんは短く溜息を吐いた。
「そうか……」
分かってくれたのだろうか。
しかしその呟きに、諦めてくれるのかと喜ぶのはまだ早かった。
孝典さんはオレの腰に回していた手をするりと滑らせ、背中から双丘を撫でながら予想外のことを言った。
「漏らしてしまったところを、人に見られたほうが興奮するからか? それとも下着が濡れる感触が癖になったのか」
「……!! ち、違います!! そうじゃなくて、オレは……!」
そんなわけがない。
絶対に違う。
この前のあれは不可抗力で……。
必死に否定するオレを見て、孝典さんは楽しそうに笑う。
「何が違うんだ? 私としては、あまり他人に見せたくはないんだが……」
そしてゆっくりとオレに顔を近づけると、羞恥に熱くなっている耳朶に唇で触れながら囁いた。
「言っただろう? 漏らすときの君の顔は、イくときとそっくりだと」
「……っ」
ぞくりと肌が粟立つ。
失禁したわけでもないのに、あの瞬間の感覚がまざまざと蘇ってきて身体が微かに震え出した。
痛みを伴うほどの我慢の果てに訪れる解放感。
最も人に見られたくない恥部を最愛の人の前で晒す羞恥。
無様で、悪趣味で、それでも向けられる視線の奥に昏く激しい欲望を感じてしまう。
求められている。
欲情されている。
どんな姿を見せても、こんなにもみっともない姿を見せても、孝典さんはオレを嫌いにならない。
あのときオレは、そんな風に感じなかっただろうか?
歪んだ快楽に溺れる悦びを覚えはしなかっただろうか?
その後に抱かれれば愛撫はいつも以上にオレを昂ぶらせ、まるで連続で射精したかのような快感をもたらしてくれたのではなかったか。
「……克哉」
揺らぎ始めた思考の中でおずおずと顔を上げれば、何処までも慈しむような瞳とぶつかる。
孝典さんは声を潜めて、けれど強い口調でオレに尋ねた。
「克哉……君は、誰のものだ?」
「……!」
オレはハッとした。
そうだ。
オレは孝典さんのものなのだ。
孝典さんはオレ以上にオレを知っている。
オレが何を望み、何を欲しがっているのかを知っている。
それなら―――。
「オレは……オレは……孝典さんの、ものです……」
まるで催眠術にでも掛けられたように零れ出たその言葉に、孝典さんは満足そうに笑う。
「孝典さん、オレ……」
孝典さんが、オレに望んでいる。
孝典さんの望みは、オレの望み。
ならば、何を迷うことがあるだろう。
恐怖の中に隠しようのない期待を滲ませながら、気づけばオレはその異常ともいえる要求を受け入れていた。

再び、大きな音が響く。
オレは孝典さんのシャツが皺になるのも構わず、ますます強く腕にしがみついた。
「……出そうか?」
「……」
こくこくと頷くと、孝典さんの手がオレの手から離れ股間に触れる。
「ぁ……」
思わず声が漏れてしまったことに気づいて、オレは慌てて唇を噛んだ。
孝典さんの指が緩やかにそこを這うのが、いつもより遠く感じられてもどかしい。
足を動かすたびにカサリと乾いた音が立つようで、それは映画の音に紛れて聞こえないはずなのに怖くて堪らなかった。
もう、痛みさえ感じない。
両足の震えはもはや止めようもなかった。
「……我慢するな」
「あっ……!」
不意に孝典さんの手が、オレの下腹を強く押した。
その瞬間、じわりと前が濡れる。
「あっ……あ……」
一度出始めてしまえば抵抗しても無駄なのに、それでもオレは緊張を解くことが出来ない。
始めは少しずつ、やがて勢いをつけながら、その暖かな液体は溢れていく。
湿り気はじわじわと前から後ろのほうへ、尻の辺りにまで広がっていった。
「ふ……」
孝典さんが耳元で笑った。
オレが今まさに漏らしているのが分かったのだろう。
股間に置かれた手のひらには、布越しでもその温度が伝わっているはずだ。
きつく閉じた目尻から涙が滲んで、オレは孝典さんにしがみついたまま失禁していた。
「あ……孝典、さん……っ……」
「……まだ、出るのか?」
オレは必死で頷く。
ずっと我慢し続けていたものはなかなか止まってはくれない。
こんなにも出してしまったらオムツをしていても溢れてしまうのではないかと、怖くて怖くて仕方が無かった。
けれど同時に、全身を支配する途方も無い解放感に溺れてもいた。
「は、ぁ……あ……」
全てを出し切ってしまう頃には、頭の中にぼんやりと靄がかかったようになっていた。
何も考えられず、文字通り空っぽになった身体には力が入らない。
ぐったりと弛緩しているオレの顔を、孝典さんが隣りからじっと見つめているのだけが分かる。
今のオレはどんな顔をしているのだろう。
やはり、イったときと同じ顔をしているのだろうか。
孝典さんのその視線に、冷え始めている下肢とは裏腹な熱が身体の奥底から湧いてくる。
「……行くぞ」
「あ……」
孝典さんに手を引かれ、オレはふらふらと立ちあがった。
結局、最後まで映画の内容は少しも分からなかった。

まだ上映中のトイレには誰もいなかった。
そのまま個室に押し込まれ、背中を壁に押し付けられる。
「あっ……」
ついしゃがみ込んでしまいそうになるのを、足を割って入った孝典さんの膝が制止する。
股間の布地が僅かに盛り上がっているのは、大量の水分を吸ったオムツの所為だけではなかった。
孝典さんは太腿をその膨らみに押しつけ、喉の奥で低く笑う。
「漏らしただけで、こんなにしているのか? まったく……」
「だ、って……」
自分でもどうしてこうなってしまうのか分からない。
やはりオレはおかしくなってしまったのだろうか。
孝典さんの手が素早くオレのベルトを外し、ファスナーを下ろす。
指先が撫でたそこはカサカサと異質な音を立てていた。
「随分と出したようだな。重くなっているぞ」
「……っ」
からかうように言われて、かあっと頬が熱くなる。
自分の姿を見るのが嫌で、オレは顔を背けながらきつく目を閉じていた。
それでも耳を苛む安っぽい紙の音が、羞恥から完全に逃げきることを許してはくれない。
「ぅ、あっ……」
ぐいとそこを強く押されて、オレは思わず声を漏らした。
慌てて手のひらで口を押さえると、孝典さんはますます強くそこを撫でてくる。
「このままイけそうだな」
「や……」
すっかり硬く勃ち上がったそれは、湿った窮屈なオムツの中で既にびくびくと脈打っていた。
首筋に顔を埋められ、生温かい舌が肌を這うと、それだけで全身が燃えるように熱くなる。
「あ、ん……」
頬に触れる孝典さんの髪がさらさらと気持ちいい。
舌は首筋から鎖骨を辿り、やがてまた耳朶のほうへと上っていく。
時折きつく肌を吸われるたびに、敏感になっている身体は解放を求めて震えてしまう。
更に手のひらと腿で屹立を圧迫されて、まだ力の入らない膝ががくがくと戦慄いた。
「孝典、さんっ……もっと……!」
オレは堪らなくなって、孝典さんの背中をきつく抱き寄せた。
自らも腰を揺らし、もっと強い刺激を求める。
すると孝典さんの手がオムツの縁に掛かり、そこをびりびりと引き裂いた。
「あっ……!」
まだしっとりと湿っていた下肢が突然外気に晒され、その冷たさに鳥肌が立つ。
バサッと音がして、オムツが床に落ちたのが分かった。
孝典さんの指が屹立に絡みつき、緩やかな上下運動を始める。
「別のものまで漏らしているぞ。君は本当に淫乱だな……」
「やっ……あぁっ……!」
羞恥を煽る言葉と共に濡れた先端をくじられて、頭の天辺まで快感が走り抜ける。
今にも射精してしまいそうだったのに、けれど孝典さんの手が寸でのところで根元をきつく握り締めたせいでそれは叶わなかった。
早くイきたい。
イかせて。
言葉にすることも出来ず視線で訴えると、孝典さんは小さく苦笑する。
「そんな顔をするな……。私まで我慢出来なくなる」
「我慢……我慢なんて、しないで……」
「克哉……」
切羽詰ったような孝典さんの声に、オレは更に昂ぶった。
孝典さんも我慢しているのだ。
みっともなく失禁してしまったオレに欲情して、早くオレの中に入りたがっている。
それが分かった途端、オレは眩暈がするほどの激しい欲望を感じて孝典さんに縋りついた。
「はや、く……孝典さん……お願い……!」
「分かって、いる……」
オレの懇願に孝典さんは忙しなく前を寛げると、オレの片足を担ぎ上げる。
そしてまだ慣らしてもいない後孔に、いきなり熱い猛りを突き立てた。
「くっ……」
「あ、あぁぁぁッ……!」
無理矢理に割って入ってくる熱にぴりぴりとした痛みを感じながら、それを遥かに上回る快感にオレは嬌声を上げた。
もっと強く、もっと激しくしてほしい。
今のオレに労りなど必要無いことを、孝典さんはちゃんと分かってくれている。
すぐにもイってしまいそうなのをなんとか堪えて、オレは孝典さん自身を飲み込んでいった。
「孝典さん……いいッ……」
「私もだ、克哉……」
突き上げてくる律動に合わせて、オレは孝典さんの背中を掻き抱きながら夢中で腰を振る。
全部、出してしまいたい。
もう、何も我慢したくない。
端から見れば何処か狂っているものだと知りながら、オレ達はこの行為にどうしようもなく溺れていた。

それからはあらゆる場所で失禁させられるようになった。
買い物に行った店ではもちろん、電車やタクシー、歩きながらしてしまったこともあった。
その感覚に慣れることはなかなか出来ず、けれどオレは強く抵抗することもなくなっていった。
そうしてすっかり悪趣味な快楽に取り憑かれてしまったオレに、孝典さんがいつものように紙オムツを差し出してきた。
ただし、いつもとは少しばかり違う状況で。
「孝典さん……これ……?」
「どうした? 今更、驚くことではないだろう」
「で、でも……」
孝典さんはクローゼットの扉についている鏡を覗き込みながら、ネクタイを締めている。
今まで孝典さんがオレにオムツを履かせるのは、休日に限ったことだった。
しかし―――。
「あの、今日は仕事ですよ? 午後からは会議も……」
「だから、じゃないか」
孝典さんは当然のことのように言う。
「会議中に漏らしてしまったら大変だろう?」
「孝典、さん……」
戸惑いつつも、正直なところいつかは言われるのではないかと思っていた。
けれど、いざとなるとやはり怖気づいてしまう。
これをつけたまま出勤するなんて……しかも、会議にも出ろと孝典さんは言う。
いくらなんでも、それはやりすぎではないだろうか。
「孝典さん……会社は……仕事のときだけは」
「気にしなければいい。誰も気づきやしない」
「だからって……!」
「それに、仕事が終わるまで君が我慢出来ればいいだけの話だ」
「そ、そんなの無理です!」
絶対に無理だ。
必ず、いつかは漏らしてしまう。
それはオフィスでかもしれないし、会議の真っ最中かもしれない。
「……っ」
想像しただけでオレは身震いした。
お偉方や他部署の人達もいる中で、オムツの中に失禁する。
そのとき、オレはどうなってしまうのだろう。
その異常な状況で、オレは何を感じるのだろう。
考えるのが怖い。
これ以上、堕ちていくのが恐ろしい。
「克哉……」
「!」
気づくと、孝典さんがすぐ傍にいた。
そしてオレの耳元にすっと顔を寄せ、何処までも甘い声で囁く。
「……心配するな。知っているのは、君と私……二人だけだ」
「……っ」
誰も、知らない。
オレと孝典さんがこの異常なプレイに嵌っていることは。
オレが失禁して感じてしまうような変態だということは。
知っているのは、孝典さんだけ。
孝典さんだけが、スーツの下に隠されたオレの浅ましい姿を知っている。
そしてそんなオレに孝典さんが欲情することを知っているのも、またオレだけだ。
完璧な仕事振りとその容貌で、僅かな隙も見せることのない御堂部長のもうひとつの顔を知っているのは。
「孝典、さん……」
顔を上げると、孝典さんと視線が交わる。
その瞳の奥にある焼けつくような欲望に、オレは身も心も囚われていた。

- end -

2010.03.26


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