Adagio
肉の焼ける音と共に、食欲をそそる匂いが漂ってくる。
私はキッチンに立つ克哉の後ろから、その匂いの発生元となっているフライパンを覗き込んだ。
「今夜は何にしたんだ?」
フライパンには蓋が被せられていて、中身までは見えない。
エプロンをつけた克哉はフライ返しを手に、肩越しに少しだけこちらを振り返った。
「ハンバーグです。孝典さん、イタリアンと和風どっちがいいですか?」
「そうだな……たまには和風にするか」
「分かりました」
にっこりと笑う克哉につられて、私も微笑みかえす。
こんな些細なやり取りにさえ幸福を見出せるようになるとは、彼とつきあう以前の自分からは到底考えられないことだった。
そもそもこの部屋にハウスキーパー以外の他人を入れることさえ不快に思っていたはずなのに、
今では少なくともキッチンの主は紛れも無く私ではなく克哉だ。
そして私はそれを心地好く思っている。
私は冷蔵庫の方へと移動しようとする克哉の腰を素早く捉えると、その身体を背中から緩く抱き締めた。
「孝典さん……」
私の名前を呟いた声には、僅かな困惑の響きが混じっている。
それでも私が手を緩めないと分かると、今度は弱々しく身を捩ってはっきりと抵抗の意を示してきた。
―――気に入らない。
目の前には、すっと伸びた白い首筋がある。
私はそこに唇を寄せて、薄茶色の髪の先を舌で掬った。
抱き寄せている腰がぴくりと反応したのが伝わってきて、私は更にうなじをきつく吸い上げる。
「孝典、さん……っ」
克哉の首筋から耳元が、ほんのりと赤く染まる。
しかし素直な反応を見せた身体とは裏腹に、克哉は私の手に指を掛けると、それを強引に解いてきた。
「あ、あのっ、ハンバーグ、焦げちゃいますから!」
不自然なほどに明るい声と笑顔で言いながら、克哉は私の腕からするりと逃れる。
そしてまるで何事も無かったかのように身を翻すと、今度こそ食材を取るため冷蔵庫の前へと移動した。
―――気に入らない。
不本意ではあったが、私はそれ以上克哉に構うのをやめてリビングのソファへと戻った。
私とてなにも本気で料理の邪魔をしてまで彼をどうこうしようと思ったわけではない。
ただ、確かめたかったのだ。
そして、結論は出た。
あの日以来、克哉は私を避けていた。
大晦日、克哉の誕生日だった、あの夜からだ。
私が言い出したほんの思いつきのゲームは、予想以上の結果をもたらしてくれた。
克哉が快感のあまり失禁してしまうという―――私にしてみれば少々驚きはしたものの、あのときの彼はただひたすらに可愛らしく、
またいつも以上に淫靡な興奮を覚えさせてくれるものだったのだが、当の本人にとってはこの上なく恥ずかしいアクシデントでしかなかったのだろう。
いくら全てを曝け出し合った恋人同士とはいえ、それは成人男性として当然の反応であり、仕方の無いことだと思う。
だからこそ私もシーツやベッドマットをすぐに新品に交換して痕跡を消し、あの件については触れないようにしてきたのだ。
しかし克哉はいまだ自分の犯した粗相を相当気に病んでいるらしく、あれ以来私と触れ合うことを意図的に避けているようだった。
あれからもう一週間近く経つというのに、軽いキスや抱擁以上のことはのらりくらりとかわされてしまい、セックスに至っては当然していない。
あの時のことを思い出してしまいそうで嫌なのか、それともまた私にからかわれるとでも思っているのか。
いくら気にするなと言ったところで、克哉のことだ、そう簡単には出来ないだろうことも分かっている。
だからといって私を避けたとしても、何の解決にもならないではないか。
いつまでもそんな態度を取り続ける克哉に、私もいい加減苛立ちはじめていた。
夕食と後片付けを終えてしばらく経った頃、克哉は何処かおずおずとした様子で私に言った。
「あの、孝典さん……お風呂、良かったらお先にどうぞ」
私は開いていた本に視線を落としたまま答える。
「ああ。きりのいいところまで読んだら入らせてもらうから、君が先に入ってくればいい」
「そう……ですか。じゃあ、先に入らせてもらいますね」
克哉はソファを立ち、そのままリビングを出て行く。
少ししてバスルームの方から物音が聞こえてきたところで、私はしおりを挟むこともなく本を閉じた。
脱衣所に向かうと、中からはシャワーの激しい水音が聞こえてくる。
私は服を脱ぎ、擦りガラスの扉を開けた。
「……え?」
乳白色の湯気の中、頭からシャワーを浴びていた克哉が驚いた表情でこちらに気づく。
後ろ手で扉を閉め、私は克哉に近づいていった。
「孝典さん? あの……?!」
腕を掴み、何か言い掛けた唇を強引に塞ぐ。
濡れた身体を抱き寄せると同時に、その口内を乱暴に探った。
「んっ……ぅ……」
克哉は喉の奥で呻きながら、私の身体を押し戻そうとする。
しかし私は更に克哉の腰をきつく抱き寄せ、わざと下肢をぴったりと押し付けた。
逃れようとする舌を絡め取り、強く吸い上げる。
髪から滴り落ちる雫が頬を流れ、密着した唇の隙間に染み込んでいった。
克哉の僅かな抵抗はほとんど意味を成さず、やがて私の腕の中で、克哉の身体から少しずつ力が抜けていくのが分かった。
「たかの……さん……どうし、て……」
ほんの少し唇を離してやると、克哉は恨みがましい目で私を見つめながら呟く。
しかしその頬が既に上気しているのは、この場所の所為だけではないはずだった。
「君がいつまでもつまらないことを気にしているから、強硬手段に出ただけだ。悪いか?」
「そんな……オレは、別に……」
克哉は恥じ入るように目を逸らす。
彼の気持ちは分からなくもないが、私としてももう限界だった。
「では、君はいつまで私を避けているつもりだ? 起きてしまったことは仕方が無いだろう。それとも、もしや……」
私は腰に回していた手を滑らせ、指先を彼の濡れた双丘の隙間へと差し入れた。
「もう一度、あの快感を味わおうとしているのか?」
「……!!」
耳元で囁いてやると、克哉はびくりと身体を震わせた。
再び私と距離を置くことで、あの時の快楽を再現させようとしているのではないかとからかってやったつもりだった。
しかし自分で言ってから、あながちそれは外れていないのではないかとも思ったのだが、全身を赤く染めた克哉は、猛烈な勢いでそれに反論してきた。
「ち、違います……!! ただ、オレは……孝典さんに抱かれたら、またあんなことになるんじゃないかと不安で……」
「なってはいけないのか?」
「当たり前です! あんな恥ずかしい思い……それに、あんなに汚してしまって……もう……二度と、嫌です……」
「……そうか」
悔しげに唇を噛む克哉を、私は改めて引き寄せた。
「だったら、確かめてみればいい」
「確かめる……?」
「そうだ」
不安げに私を見る克哉に、私はにやりと笑ってみせる。
「ここなら、もしもまた同じことが起きても問題は無いだろう? シャワーで流してしまえば、跡形もなくなる」
「それは……そうですけど……」
「だいたい君は気にしすぎだ。私は同じことが起きても全く構わない。だが、君がどうしても嫌だと言うなら……」
まだ躊躇うような表情を浮かべている克哉の顎を掬い上げ、唇を奪う。
けれど今度は彼も緩く口を開き、自ら舌を絡めてきた。
やはりこの場所ならば安心だと思ったのかもしれない。
双丘を掴んで引き寄せると、ようやくその気になったのか、私の背中に手を回して更に深くくちづけてくる。
そのうちに太腿に触れていた彼自身は少しずつ硬くなり、頭をもたげはじめた。
「は……ぁ……孝典、さん……」
よほど我慢していたのか、バスルームの熱気の所為なのか、克哉は恍惚といった表情を見せながら呟く。
欲情に濡れた瞳と淫らに揺れる腰は、もっと激しい快楽を与えてくれとあきらかに強請っていた。
だが私は狭間に忍ばせた指先で後孔の縁だけを幾度もなぞってやる。
そこはひくひくと蠢き、まるで飢えているかのように私の指を飲み込もうとする。
「やっ……焦らさ、ないで……」
「さっきまで私を避けていたくせにか?」
「だ、って……」
シャワーの音に掻き消されまいと、互いの耳元で囁き合う。
克哉の屹立が今にも弾けそうなほどに脈打っているのが、私にも伝わってきた。
「もう、こんなにして……私が来なければ、今夜はどうするつもりだったんだ? 自分でするつもりだったのか?」
「……っ」
両足の間に膝を入れ、ぐいとそこを圧迫する。
私自身の熱くなったものと克哉のそれとが重なり、克哉はうっとりとした溜息を零した。
それからとうとう我慢出来なくなったのか、克哉はぶるぶると身体を震わせながら、私の肩にしっかりとしがみついた。
「あっ……もう、早く……入れて……」
「こうか?」
克哉が何を求めているのかを知っていながら、私はわざと指を奥まで入れる。
「ああっ……!! 違っ……そうじゃ、なくて……」
「何が違う。入れてやっているじゃないか」
「ちが……」
絡みついてくる内壁を擦りながら、指で中を掻き回す。
指先が少し硬くなっている場所に当たるたび、克哉の身体は大きく跳ねた。
シャワーのお湯とは確かに違う、粘着質な液が屹立から零れ、触れている私の肌との間に糸を引く。
「孝典、さんっ……お願い……! あなたが……あなたが、欲しいっ……!」
肩に指を食い込ませながら、克哉が懇願する。
荒く、熱い吐息が私の肌に掛かった。
私は克哉の赤く染まった目尻に滲んでいる涙を唇で吸い、命令する。
「……向こうをむいて。そこに手をつくんだ」
「……」
克哉は息を切らせながら、言われた通りバスルームの壁に手をつき、こちらに尻を突き出す。
それから肩越しにこちらを振り返り、いやらしく腰を揺らして私を挑発した。
「孝典さん……」
「……分かっている」
私は克哉の双丘に手を掛け、そこを押し開いた。
それだけで克哉は短く声を上げ、後孔をひくつかせる。
「……入れるぞ」
先端をあてがう。
克哉のそこは私が腰を突き出すよりも早く、私を奥へ導こうとして私自身を捉えた。
「あっ……あ……」
「くっ……」
彼の中はいつも燃えるように熱い。
私の全てを掴んで離すまいとする。
その激しさに飲み込まれ、溺れ死んでしまうのではないかと恐怖さえ覚える。
だから私はそれに負けまいと、彼を勢いよく貫いた。
「あぁぁッ……!!!」
克哉の嬌声がバスルーム内に響き渡る。
私はそのまま克哉の腰を掴み、前後に激しく揺さぶった。
「あっ! あぁっ! はぁ……っ!!」
克哉はたまらないといったふうに顔を振りながら、私を翻弄する。
抱いているのは私のはずなのに、私の方が克哉に包み込まれているような気がしてくる。
彼は全身で私の律動を受け止めつつ、更に私を煽る。
白い首筋から背中、腰へと流れていく幾筋もの水流。
しなやかな獣のようにうねる身体が、私を高みへと導いていく。
「克哉……っ」
私は痛むほどに腰を強く打ちつけ、彼のもっと奥を突き上げた。
まだだ。
まだ、彼を味わっていたい。
ともすれば失いそうになる理性を必死で手繰り寄せる。
朦朧としてくるほどの熱気の中、克哉の次第に高くなっていく喘ぎ声を聞いた。
「あっ……イイ……孝典、さん……!」
せつなげに言いながら、克哉は滅茶苦茶に腰を振りだした。
蒸気と汗が混じり合い、額から雫が落ちてくるのが鬱陶しい。
しかし不意に絶頂に達するのが怖くなったのか、克哉は泣きだしそうな声を出した。
「あっ……出る……出ちゃう……」
「……心配、するな……イきたくなったら、イけば、いい……」
「あ……や、だ……」
私の言葉に、克哉の身体が強張る。
その所為で締め付けはますますきつくなり、私はつい喉の奥で呻いた。
このままでは、私の方が先に果ててしまいそうだ。
私は克哉の前に手を回し、屹立を握ると、私自身の動きに合わせてそこを擦り上げた。
「ん、あぁッ、ダメ、孝典さん……!!」
「いいから……イけ……!」
「は、あ……ぅ、あぁぁぁッ……!!!」
掠れた声が一際高くなったかと思うと、びくんびくんと腰が跳ねる。
同時に手の中の克哉自身から、呆気なく精が迸った。
克哉が果てるのを手のひらと下肢で感じながら、私も欲望を解放させる。
「かつ、やッ……!」
「あ……あぁっ……」
全身を貫く快感に身を震わせながら、私はいつまでも痙攣を続ける彼の中に吐精した。
二度三度腰が跳ね、最後の一滴まで残すことなく彼の奥に注ぎ込む。
全てを放出した後も、激しい鼓動に息を弾ませながら、私達はしばらく繋がったままでいた。
「は……くっ……」
気がつくと、克哉は何かを堪えているかのようにきつく目を閉じ、唇を引き結んでいる。
彼の屹立を握ったままの私の手に彼の指先が伸びてきて、私もはっとしながら視線をそこに落とした。
しかしそれはただ少しずつ硬さを失っていっただけで、克哉が恐れていたようなことは何も起きなかった。
「は、ぁ……あ……」
克哉はゆっくりと細い息を吐き出す。
そして彼の強張っていた身体は急激に弛緩し、力無くバスルームの床に崩れ落ちた。
「克哉、大丈夫か?」
「は、い……」
私も跪き肩を抱いてやると、克哉は私にもたれかかって身体を預けてくる。
「良かっ、た……」
心から安堵したように呟いて、彼は微笑んだ。
本来ならば私も一緒になって安堵してやりたいところだった、が―――。
「……やっぱりオレ、心配しすぎてたみたいですね」
「そう、だな」
私は笑い返してやることが出来なかった。
なぜなら、私は安堵も満足もしていなかったからだ。
そう、有り体に言えば―――がっかりしていた。
あの克哉の絶望と羞恥に満ちた表情を、快感に身体を細かく震わせながら排泄を止めることが出来ずにいる様を、見られなかったことに失望していたのだ。
「……孝典さん?」
「なんだ?」
「いえ……」
「……」
私の僅かな異変を克哉は敏感に察知する。
それ以上気取られたくなくて、私は彼の頭を胸に抱きかかえた。
濡れた髪にくちづけながら、私は私の中に生まれた昏い欲望を自覚する。
また彼を傷つけてしまうかもしれないが、私はそれを抑え込むことなど出来ないだろう。
「克哉……」
そうだ。
そのときの私は、間違いなく思っていた。
克哉―――もう一度、見せてくれと。
- end -
2010.01.16
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