Preludio
―――ゲームを、しようか。
それは孝典さんが言い出す、いつものちょっとした悪戯に過ぎないと思っていた。
今までにも孝典さんがそういったことを仕掛けてくることはたびたびあったし、
それがどんなに些細なものであれ、オレに極上の快楽と幸福感を与えてくれることは既に分かり過ぎるほど分かりきっていた。
だからクリスマスイブの夜、散々愛し合った後のベッドの中で告げられたそれは悪魔の囁きのように恐ろしくて、
けれどたまらなく魅惑的なものにも聞こえて、オレは思わずぶるりと身体を震わせた。
『オレの誕生日までの一週間、互いの身体に一切触れない』
孝典さんが提案したゲームとは、そういうものだった。
セックスはもちろん、キスもしない。
手を握るのも駄目。
不可抗力で触れてしまったときを除き、故意に相手に接触することを全て禁止するのだ。
もちろん、始めは了承するのを躊躇った。
毎日同じ部屋で目覚め、同じオフィスで仕事をし、同じベッドに眠りながらそれを実行するのは至難の業に思われたからだ。
出張などで物理的に離れているならまだ諦めもつくけれど、手を伸ばせばすぐ届く場所にいながら触れることが出来ないなんて考えるだけでも辛い。
きっとその七日間は、永遠に続くかと思われるほどの拷問か苦行に近い日々になるだろう。
けれどなかなか頷かないオレの耳元で、孝典さんは甘く低い声で囁いた。
『きっと、忘れられない誕生日になるぞ』
極限まで欲望を抑え込み、そしてそれを一気に解放させる。
その瞬間のことを想像すると、オレの身体は急激に熱を上げた。
孝典さんの腕の中で、しばらく離れなくてはならなくなるその温もりをせつないほどに名残惜しく思いながらも、
結局オレはその魅力に勝つことが出来ず震えながら頷いてしまったのだった。
翌朝から、ゲームは実行された。
七日間は予想以上に辛いものだった。
眠っている間には無意識に孝典さんにくっついてしまうし、目が覚めればついいつもの癖でキスを強請ってしまう。
そのたびに孝典さんから冷たく突き離されて、その余りにも素っ気無い態度は、
本当は単にオレを避ける為にこんなことを言い出したのではないかと疑いたくなるほどだった。
してはいけないと言われれば、人はかえってそれをしたくなる。
向けられるほんの短い視線が、交わす言葉の声の響きが、すれ違うときに鼻先を掠める微かな香りが、
いつもはオレを幸せにしてくれるはずの孝典さんの全てが、オレをこれ以上ないほどに苦しめた。
幾度も襲ってくる衝動に耐えながら、求める気持ちは日が経つにつれて次第に苛立ちへと変わり、
何故こんなことを思いついたのかと孝典さんを責めたくなりさえした頃、ようやく約束の一週間は終わりを迎えた。
ゲームの終了は、日付が30日から31日へと変わる午前0時。
会社は既に冬期休暇に入っていたから、この数日は特に辛かった。
けれど、それもようやく今日で終わる。
その日、朝から落ち着かない気分でいたオレに対して、孝典さんは普段と少しも変わらずに見えて、
どうしてそんなに平静でいられるのだろうかと不思議に思った。
孝典さんはオレに触れられなくても平気なのだろうか?
やっぱり、本当はただオレを遠ざけたいだけなんじゃないだろうか?
ゲームのことなどもう忘れてしまっていて、このままオレと距離を置くつもりなんじゃないだろうか?
オレもなんとか平静を装いつつ、実のところそんな負の疑問ばかりが一日中頭の中をぐるぐると回り続けていた。
なかなか進まない時計を横目で睨みつけながらも、やがて陽は落ち、ようやく夜が訪れる。
オレと孝典さんはリビングのソファに座り、いつものようにワインを楽しんでいた。
違っているのは、二人の距離が不自然に離れていることだけ。
話をしていても時計の示す数字が変わることにばかり意識が向かってしまって、ともすれば生返事をしてしまいそうになる。
あと10分。
あと5分。
あと1分。
「……終わりだな」
時計が0時を示すと同時に孝典さんが呟いて、オレの身体はびくりと跳ねた。
もう顔が熱くなり始めているオレを見ながら孝典さんはにやりと笑い、ゆっくりソファから立ち上がるとオレに向かって手を差し出す。
「おいで」
「あ……」
その言葉だけで心臓がぎゅっと締め付けられ、息が苦しくなった。
もう孝典さんに触れても拒絶されたりしないんだ。
分かっているのになんだか怖くて、オレはおずおずと震える手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、強く握られ、そのまま腕を引かれる。
「……ッ!」
「誕生日、おめでとう。よく我慢したな」
緩く抱き締められた腕の中で、孝典さんの微笑を含んだ囁きを聞く。
久し振りの温もりと、香りと、間近で聞く孝典さんの声に、恥ずかしいことに涙が出そうになった。
「孝典、さんッ……」
けれど抱き締め返そうとした身体は、すいと腕をすり抜けて離れていってしまう。
「孝典さん……?!」
「そう焦るな」
つい非難めいた声を出してしまったオレに、それでも孝典さんは笑って言った。
「ご褒美なら、ちゃんとやる。……ベッドでな」
「っ……」
かっと全身が熱くなる。
跳ね上がる鼓動に耳の奥がどくどくと鳴って、オレは軽い目眩を覚えた。
ベッドに乗ると、孝典さんが覆い被さってくる。
間接照明の灯りが孝典さんの瞳の中に、小さな炎を作っていた。
「……今日は、君は何もしなくていい。全て私に任せるんだ」
「は、い……」
既に恍惚としながら頷くと、唇をそっと塞がれた。
押し付けられた柔らかで熱い弾力にオレは夢中で吸いつく。
「んっ……」
たった七日間しなかっただけなのに、まるで初めてキスをしたときのように胸が高鳴る。
舌を絡めるのさえ恥ずかしくて、忍び込んできたそれを躊躇いがちに受け入れた。
重なる唇が熱い。
熱くて熱くて溶けてしまいそうだ。
オレの中の隅々まで確かめるように孝典さんの舌は口内を蠢いて、オレはただ必死にそれに応えていた。
ワインの香りのする吐息と、とろりと流れ込んでくる唾液を飲み込んでいるうちに眠気にも似たものが襲ってくる。
時間も、場所も、何もかもが曖昧になって、孝典さんのこと以外なにも感じられなくなってくる。
だからいつの間にかシャツのボタンを外され、胸を肌蹴られていたことにも、ズボンのファスナーを下ろされていたことにも、
オレは気づいていなかった。
「克哉……」
「あ……」
離れていく唇を、オレは無意識に追う。
孝典さんの唇が濡れて光っているのが見えたと同時に、突然視界が真っ暗になった。
「えっ……?」
オレの目が、さらりとした布に覆われる。
それから頭の後ろできつく結ばれ、瞼に布が浅く食い込んだ。
「孝典、さん……?」
「大丈夫。何も心配するな」
オレはこれから起こることに微かな不安を覚えながらも、心の何処かでたまらなく期待していた。
シャツを脱がされ、今度は手首に紐が巻かれる。
自由をひとつ奪われるごとに、オレの中を熱い血がどくどくと駆け巡った。
「孝典……さん……」
目隠しをされ、手首を縛られ、たまらずに名前を呼んだ声はどうしようもなく震えている。
けれどそこにあるのは恐怖でも嫌悪でもない。
何も見えなくても、孝典さんの気配をすぐ傍に感じる。
早く、オレを滅茶苦茶にしてほしい。
オレの身体はもううっすらと汗ばんでいた。
「さて……」
指先が、肌の上を滑る。
頬から首筋を撫で、鎖骨を辿り、肩の線を。
ほんの掠めるほどの感触がもどかしくて、けれど久し振りに触れられた身体はそれだけで悦びを抑えきれずに細かく震え出す。
立てた膝ががくがくと揺れ、開きっぱなしの唇はからからに乾いていた。
「……ああッ!!」
孝典さんの指が胸の尖りに触れた途端、オレは雷にでも打たれたかのように背中を仰け反らせた。
何も見えない所為で、孝典さんが次に何処に触れてくるか分からない。
不意打ちの刺激は、いつも以上にオレに快楽をもたらしていた。
「まだ、何もしていないぞ? こんなに硬くして……」
ククッと喉の奥で笑いながら、孝典さんはもう一度オレの胸の尖りに触れる。
「あっ、あ、あ、あ……」
両方の乳首を指で挟まれ、押し潰されて、オレはみっともないほどに喘いでしまう。
ここだけでこんなにも感じてしまうなんて、どうかしている。
けれど軽い痛みさえ含んだその行為が与える快感は、オレの腰を自然と揺らし、下着の中を湿らせ始めていた。
「そんなに、ここが感じるのか? なら……」
不意に指が離れ、また孝典さんの気配も離れていく。
それでもまだ胸には甘い痺れのようなものが残っていて、オレはハァハァと息を乱したままだった。
すぐにベッドが軋んで、孝典さんが戻ってきたことを教えてくれる。
それから胸元に、何か冷たい金属のようなものが触れたのが分かった。
「生憎、私の手は二本しかないものでな。ここは、これに任せるとしよう」
孝典さんはオレの乳首をきつく引っ張った後、そこを何か別の物で挟んだ。
「痛っ……」
「君は痛いぐらいが好きだろう?」
反対の乳首も同じように、何かで挟まれる。
そして―――。
「あッ、ん、ああぁッ……!!」
ブーン……という微かな機械音と共に、乳首を挟んでいるものがブルブルと震え出す。
伝わってくる細かな振動が激しい快感となって、オレの全身に広がった。
「乳首用のバイブだ。……随分と良さそうだな?」
「ああっ、あ、はッ、はァ……」
孝典さんのからかうような声にも、返事をすることが出来ない。
快感はそのまま下肢へと直結して、オレは無意識に腰を突き出していた。
下着に収められたままのペニスはずきずきと痛むほどに硬くなっていて、腰を揺らすのに合わせて布地と僅かに擦れるだけで果ててしまいそうだった。
さっきから、まだそこには一度も触ってもらっていない。
早く触れてほしくて、もどかしさにオレは顔をぶんぶんと振った。
「孝典、さんっ……孝典さん……!!」
「……濡れているな」
「……!!!」
下着の上から、先端をつつかれた。
それだけでびくんと腰が跳ねて、濃い蜜がとろりと溢れたのが分かった。
もう、おかしくなりそうだ。
目尻から滲んだ涙が、瞼を覆っている薄い布に吸い込まれていく。
「孝典、さん……お願い……早く、触って……」
自分の声とは思えないほど、情けない懇願が唇から零れる。
何も見えず、何も出来ず、攻められ続けている胸から絶え間なく与えられる刺激だけがオレを支配していた。
全身が性器になってしまったような錯覚すら覚える。
けれどオレの願いはまだ叶えてもらえそうにはなかった。
「まだだ。せっかく一週間も我慢したんだ、早く終わってしまっては勿体無いだろう? 君だって、満足出来まい」
言いながら、孝典さんはオレの下着を脱がしていく。
窮屈な場所からは解放されたものの、そこは擦りつける宛てを無くしてしまったせいで、ますますもどかしさが募ってしまった。
「孝典さん……っ」
「安心したまえ。すぐにはイけないようにしてやる」
「え……」
突然、ペニスの先に痛みが走った。
それから下肢が重くなり、ぐっと息苦しさが込み上げてくる。
「な、に……」
そこを縛られたのだと分かるまで、しばらく掛かった。
今にも弾けそうなほどに充血した場所に紐が食い込んで、射精を食い止めている。
「やっ……孝典さん……!」
「じっくり君を味わわせてもらおう」
オレの抗議など聞こえないかのように、孝典さんはオレの右足を持ち上げた。
足首の辺りに湿った温もりが触れて、そこを舐められているのだと分かる。
「あ……や……」
孝典さんの舌が少しずつ移動を始める。
ふくらはぎの辺りで唇を押し付け、強く吸われた。
膝から太腿の内側へ。
そして足の付け根の薄い皮膚へ。
「はっ……あ……やぁ……っ……」
オレはもうほとんど泣き声だった。
大きく足を開かされていることへの羞恥よりも、早く解放してほしいという思いだけで一杯だった。
けれど孝典さんはたっぷり時間を掛けてオレの右足を舐め、それから今度は左足を同じように舐め始めた。
痺れるほどの快感に、そこの筋肉はぶるぶると痙攣を起こしたように震えている。
舌先の動きも、かかる吐息も、時折触れる孝典さんの髪の感触も、全てがオレを狂わせていく。
もう、駄目だ。
本当におかしくなる。
涙が溢れる。
「あ……ああぁッ……!!」
とうとう孝典さんの舌が、オレの後ろに触れた。
ざらついた舌先が差し込まれ、オレの身体が大きく波打つ。
ベッドが軋んだ音を立てる。
「あッ……!! ダメ……! 孝典、さんッ……や、あぁぁっ!!!」
暴れるオレの足を押さえつけて、孝典さんはそこを舐め続けた。
熱い。
身体だけではなく、頭の中まで沸騰しそうに熱い。
訳が分からなくなって、オレはベッドの上で無茶苦茶に髪を振り乱した。
「ダメっ……イかせて……もう、イかせて……!!」
ペニスに食い込む紐の痛みさえ、もう快楽にしかならない。
震えた振動が続く胸の尖りが、両足の間に埋められた孝典さんの温もりが全てになる。
解放出来ない苦しさに、オレはただ悶え続けていた。
既に声は掠れて、自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。
「そろそろ……限界か……?」
やがて孝典さんの舌が離れ、熱のこもった声が聞こえた。
オレは朦朧とする意識の中で、それでも頷いたような気がする。
「孝典さん……孝典さん……」
うわ言のように、繰り返し名前を呼んだ。
早くあなたが欲しい。
あなたでなければオレは満たされない。
早くあなたでいっぱいにして。
あなたをオレの全部にして。
「克哉……」
足が更に大きく開かれる。
そしてさっきとは違う、もっと熱い塊が後ろに宛がわれた。
ああ……これだ。
オレはこれを待っていたんだ。
「あ……はっ……あぁ……」
少しずつ、少しずつ孝典さんが入ってきた。
全身が悦びに満たされる。
もう決して離すまいと中が絡みつく。
「っ……」
孝典さんが息を飲んだのが分かった。
そして、一息に貫かれる。
「あ、あぁぁぁッ―――!!」
急に奥を突かれて、オレは叫んだ。
もし先を縛られていなかったら、その瞬間に達していただろう。
孝典さんはオレの中をそのまま激しく掻き回す。
「っ……ふ……克哉……ッ……!」
「あッ、あっ、ん、あぁっ!」
律動に合わせるように漏れる声が止まらない。
真っ暗な視界の中、何処がどう繋がっているのかさえ分からなくなりそうだった。
ただ、熱かった。
全部溶けて、ひとつになってしまいそうだった。
胸と、ペニスと、後孔と、全てを同時に攻められて、その快感にオレは獣のように喘いだ。
聞こえてくる荒い呼吸がどちらのものなのかも分からない。
奥を突かれるたびに、ぶつかる肌が音を立てる。
中を擦り上げる、孝典さんの熱。
零れる唾液も気にせず、オレは喘ぎ続けた。
「克哉……やはり、君の中は……最高だな……」
孝典さんの動きが激しさを増す。
イきたい。
まだ、イきたくない。
ずっと繋がっていたい。
混乱しながらも、全身で孝典さんを求める。
こんな人、何処にもいない。
オレだけの、かけがえの無い人。
「たか……り、さん……もう……もう……!」
「一緒に、イこう……克哉……」
しゅる、と先端の紐が解かれた。
そして、一際奥を突き上げられた瞬間―――。
「あぁッ……は、あぁぁッ……!!!」
「くっ……」
息を詰めると同時に、焼けつくような熱が勢いよく身体の奥から噴き上げた。
頭の中が真っ白になって、全身をとてつもない快感が貫く。
七日感抑え込んできた欲望が全て解放されて、迸る。
射精はなかなか止まらず、オレの身体はいつまでもびくびくと痙攣していた。
「あ……はぁ……あぁっ……」
「克哉……」
胸のバイブが止められる。
それでもまだ放心状態でいると、やがて何か暖かい液体がオレの腹の上に広がっていくことに気づいた。
それはどんどん溢れて、すぐに脇腹を零れ、腰の辺りを濡らしていく。
「あ……」
オレは、失禁していた。
それが分かった瞬間、さあっと身体の熱が引いていく。
「あ……あ……」
なんとか止めようとして下肢に力を入れてみるが、止まるはずもない。
どうしよう。
どうすれば。
今度は別の意味で身体が震え出す。
歯がカチカチと音を立てている。
どうして、こんな。
オレは、なんていうことを。
「あ……たかの……さん……」
戦慄く唇で名前を呼ぶと、するりと目隠しが外された。
薄暗い間接照明さえも眩しくて、孝典さんの顔がよく見えない。
孝典さんに手を伸ばしたいのに力が入らない。
「どうし、よう……孝典、さん……」
その間も、失禁はまだ止まっていなかった。
涙が滲んで、視界が揺れる。
それが目尻から溢れだした頃、ようやくそれは勢いをなくし、やがて全てを出しきって止まった。
そのときオレの身体がぶるっと大きく震えたのは、ぐっしょりと濡れたシーツに触れている腰から背中が冷たかったからなのか、
それとも放出の快感の所為だったのか、混乱しているオレにはよく分からなかった。
「どう……しよう……ごめ、なさい……ごめんなさい……ッ……」
「大丈夫だ。気にするな」
悲鳴のように謝るオレの胸からバイブを外し、手首の戒めを解きながら、孝典さんは宥めるように言ってくれた。
けれど、オレの震えは止まらない。
こんなのは、嘘だ。
信じられない。
感じすぎて、失禁してしまうなんて。
「ごめん、なさい……ごめんなさい……」
「だから、いいと言っているだろう」
謝り続けるオレの身体を起こして、孝典さんはオレを抱き締めてくれようとした。
でもオレはその腕から慌てて逃れる。
そのとき視界に入ってきた光景に、オレは思わず顔を歪めた。
「ダメです……! オレ、汚いですから! ここ、ちゃんと、綺麗にしますから……」
「いいと言っている」
それでも孝典さんは強引にオレを抱き締めてしまう。
最悪だ。
孝典さんはこんなに優しいのに、オレは最低なことをしてしまった。
薄黄色をしたそれはシーツに大きく広がり、独特の匂いを放っている。
この分ではマットもダメになってしまっただろう。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」
「だから、いいんだ。それだけ感じてくれたのだろう? こんなものは、どうにでもなる」
「でも……」
「気にするな。むしろ、可愛いぐらいじゃないか」
「孝典さん……」
孝典さんは笑いながら、オレを慰めるように頬や髪に幾度もキスを落としてくれる。
けれどやっぱり情けなくて、恥ずかしくて、申し訳なくて、オレは今すぐ逃げ出したいような気持ちだった。
「……改めて、誕生日おめでとう。また、こうして祝うことが出来て良かった」
「ありがとうございます……オレも、嬉しいです」
最後の言葉は半分嘘のようになってしまった。
そして、オレ達はくちづけを交わす。
幸福で満たされているはずなのに、オレの心の中に消せない黒い染みのようなものが出来てしまったことに、
そのときのオレはまだ気がついていなかった。
- end -
2009.12.29
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