誰がために
今まで、これほどまでに陽の光が恋しいと思ったことはなかった。
障子を透して柔らかく部屋を暖めるあの光。
けれど今は昇る朝陽で目覚めることも、沈みゆく夕陽に郷愁を感じることもない。
鬼哭村に柳生が姿を現して以来、江戸は昼も夜も失ってしまった。
江戸中の人々は毎日晴れることのない空を見上げながら、
その空と同様に暗い気持ちを抱えたまま日々を過ごしていた。
それは龍斗とて同じことだった。
目が覚めて、やはり朝は訪れていないことを知る毎日。
しかし、まだ勝負は終わっていない―――。
鬼道衆と龍閃組が手を組んだ今、必ず柳生に勝つことは出来るはずだ。
ともすれば塞ぎこみそうな気分に喝を入れながら、
龍斗は部屋を出て天戒達のいる座敷へと向かった。
廊下に出ると、その少し先で蹲っている天戒の後姿が見えた。
龍斗は慌てて駆け寄る。
「天戒? どうした?」
天戒は柱に手をつき、俯いたまま自分の体を支えている。
その背中に手を置いて、同じようにしゃがみ込むと、龍斗は天戒の顔を覗き込んだ。
「どうしたんだ、天戒? ん?」
「……」
天戒は答えない。
否、答えられないようだ。
目をぎゅっと閉じ、苦痛を堪えるように眉根を寄せ、唇を噛んでいる。
その様子に、龍斗の顔から血の気がひいていく。
「どこか痛いのか? 苦しいのか? 腹か? 胸か?」
矢継ぎ早に問いかけるが、天戒はふるふると首を振るだけでやはり答えない。
「ちょっと、待ってろ。今、桔梗を……」
自分だけの手には負えないと判断した龍斗が桔梗を呼びにいこうと立ち上がりかけたとき、
その手を天戒が掴んだ。
「龍……大丈夫だ」
「大丈夫って……!」
「本当に大丈夫だ。すまんな」
「……」
龍斗は天戒の正面にしゃがみ込み、その顔をまじまじと見つめる。
そこにはさっきまでの苦痛の色は既に無く、微笑さえ浮かんでいたが、
龍斗の心配は晴れない。
あの様子はただ事ではなかった。
「どうしたんだよ? どこか苦しかったんじゃないのか?」
「ん、いや、ああ……」
天戒は口ごもる。
「なんだよ、言えよ。またあんなの見たら心配するだろ。どうしたんだよ」
「む……」
天戒のことだ、余計な心配を掛けまいとして、以前から具合が悪かったのを隠していたのかもしれない。
そんな風に思った龍斗は、事情を聞くまで絶対に引き下がらないつもりだった。
龍斗の決意が伝わったのだろう。
天戒は龍斗の真剣すぎる眼差しから気まずそうに目を逸らすと、諦めたようにぽつりぽつりと小声で話し始めた。
「……その、だな。ちょっと、余所見を、していてな」
「うん」
「……そこの、柱に……足の、小指を、だな」
「……うん」
「……うむ」
暫し二人は無言で見詰め合う。
龍斗の頭の中に、今聞いた天戒の言葉が回る。
そこの柱に。
足の小指を。
「……」
龍斗は柱を見て、それから天戒の剥き出しになった足指を見た。
その二つが漸く結びつく。
腹の底からふつふつと笑いが込み上げてきた。
その笑いを堪えながら問う。
「……ぶつけた、と?」
「……」
天戒がこくりと頷いた途端、龍斗は弾かれたように声を上げて笑い出した。
天戒は只管ばつの悪そうな顔をして、龍斗を睨みつける。
「龍……笑いすぎだ」
「ごめん、でも……」
「そんなに可笑しいか?」
「いやぁ……なんか天戒らしくないっていうか……」
「……俺とて、足の小指ぐらいぶつける」
拗ねたようなその言い方が余計に可笑しくて、龍斗はますます笑い転げた。
いや、あれは確かに痛いよな。
俺もやったことあるよ。
などと励ましにもならないようなことを言いながら、目尻に涙まで浮かべるのだった。
「あの瞬間って声も出ないよな。うん、分かる、分かる」
天戒は暫く口をへの字にしていたが、未だ喉の奥で笑い続けている龍斗を眺めるうちに、ふとその口元を緩めた。
「……お前のそのような笑い顔を見られるのは久しぶりだな。俺も痛い思いをした甲斐があったというものだ」
「……え?」
「さて、飯に行くとするか。澳継が腹を減らして待っているであろう」
立ち上がりかけた天戒の手を、今度は龍斗が掴んだ。
「ちょっと待て。今の、どういう意味だ?」
「ん?」
「俺が笑うのを見るのは、久しぶりか?」
「……」
そんなことはないはずだと思った。
ここ最近は、暗くなりがちな雰囲気を出来るだけ明るくしてやろうと、柄にも無く気を使っていたつもりなのだから。
天戒は再び龍斗の正面にしゃがみ込んだ。
「龍……最近のお前、何処か無理をしてはいまいか?」
「え……」
その言葉に、一瞬どきりとする。
そんな龍斗に、天戒はまるで言い聞かせるような口調で続けた。
「お前にそのつもりがあろうが無かろうが、お前の存在は俺達にとって導に他ならない。
お前がいてくれるだけで皆が心強く思う。未来を信じることも出来る。
しかしそれは、お前一人が全てを背負わなければならぬという意味ではないぞ」
「……」
龍斗はただじっと眉を寄せている。
天戒はふいに龍斗の手を取ると、その指先を緩く握り締めた。
「龍。少なくとも俺の前で不安を無理に隠す必要はない。
笑えぬ時に無理に笑うことはない。俺はいつもお前には、“お前自身のために”笑っていてほしいと……そう思っているのだ」
「……」
「……俺は余計なことを言ったか」
「……いや」
龍斗は自分自身を不甲斐無く感じたのか、くしゃくしゃと髪を掻き毟る。
それからふうと短い溜息を吐いて、墨を流したような暗い空を見上げた。
確かに天戒の言う通りだと思った。
皆に頼られるうちに、知らず知らず虚勢を張っていたのかもしれない。
天戒がそんな自分に気づかないはずがないのに。
龍斗は思い切ったように、天戒の目を真っ直ぐに見据えた。
「……そうだな。確かに俺は気負っていたのかもしれない。
あいつらが……お前がいるのに、負けるはずもないのにな」
乱れた前髪の隙間から、不敵に笑ってみせる。
天戒もつられて笑う。
「ああ、そうだ。気負う必要などない。お前はお前のままでいれば良い。それで充分だ」
「そうだよな……」
話は一件落着したかのように思えた。
しかし龍斗は何かを思い出して、アと短く声を上げると、再び天戒に向き直って言う。
「それよりも、天戒。お前こそ足の小指をぶつけたことぐらい、俺に隠すなよな。
変に格好つけやがって、かえって心配するだろうが」
「む……」
天戒は一瞬、さっきと同じように口をへの字にしたが、すぐに笑顔を取り戻す。
「そうだな。俺もお前の前で自分を取り繕うのはやめることにしよう」
「そうそう。そうしてくれよ」
しかし天戒は龍斗の手を引くと、その耳元に唇を近づけて囁いた。
「……だが、他の者には言うなよ」
天戒のとどめの科白に、龍斗はまた声を上げて笑った。
- end -
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