遠音の森
その微かな音は高く、けれど柔らかく、そして何処か懐かしさを感じさせた。
那智滝へ抜ける山道を歩きながら、天戒は耳を澄ませる。
決して大きくはないのに、幾重にも茂る枝葉の合間を縫って零れてくる音色。
導かれるようにそれを辿っていくと、そこには確かに天戒の求める姿があった。
「……上手いものだな」
後姿に声を掛けると音が途切れ、岩場に腰掛けていた龍斗が振り返る。
天戒と目が合うと、草の葉に隠された唇が笑みの形を作った。
「草笛の音だったのだな」
龍斗は答えずに、もう一度葉を吹いてみせた。
滝の流れにも溶けることのない音が、頭上に広がる空に吸い込まれていく。
天戒は龍斗の隣りに腰を下ろし、その横顔を見つめた。
生まれるそばから消えていくものの名残を惜しむかのように、龍斗の視線は遥か遠くに向けられていた。
「俺も幼い頃に、よく吹いた」
天戒は龍斗と視線を並べて、空を見上げた。
「もともとは尚雲が上手くてな。奴が教えてくれたのだが、俺はなかなか音を出すことが出来なかった。
内心、酷く悔しくて、隠れてこっそり練習したものだ」
その頃のことを思い出してか、天戒は苦笑いを浮かべる。
草笛の音に懐かしさを感じたのは、遊び相手の少なかった天戒を慰めてくれた音だったからだろう。
思いがけない天戒の昔話を聞いて、龍斗もほんの少し微笑んだようだった。
「俺は……」
唇から葉を離し、今度は龍斗が呟く。
「誰に教わったのか覚えてないな」
見れば龍斗の視線は、いつの間にか足元に落ちていた。
心なしか背中を丸め、手にしていた葉を弄んでいる。
微笑みは既に消えていた。
「いつから、どうやって吹けるようになったのか覚えてない。
誰かに教えてもらったのか、それとも見よう見まねで覚えたのか……」
そこまで言いながら龍斗は、どうでもいいことだけどな、と急に話を終わらせた。
その投げやりな口調に、天戒は寂しげに眉を寄せる。
この村に来る以前の龍斗のことを、天戒は何も知らない。
知りたくないわけではなかったけれど、こちらから聞き出したりはしたくなかった。
それに過去を知ったからといってどうということもない。
全てを曝け出すという行為が、時に自己満足な押し付けになることもあると龍斗は知っているのだろう。
それならばせめて両腕を広げて、「お前の居るべき場所は此処だ」と示していたい。
天戒はいつもそう思っていた。
「……草笛の練習をしていたとき、俺は同じ年頃の童に出会ったのだ」
突然話し出した天戒を、龍斗は不思議そうに見る。
「そやつも草笛が上手く吹けないようでな。俺は名も知らぬそいつと一緒に練習することにした。
どちらが先に吹けるようになるか競い合いながら、初めて出会った森で、毎日陽が暮れるまで……」
天戒が龍斗を見つめる。
それから穏やかに微笑んで言った。
「あれはお前だったのかもしれないな」
「天戒……」
それが天戒の作り話であると、龍斗にはすぐに分かった。
たとえ本当だったとしても、その相手が自分であることは決して有り得ない。
けれど龍斗は、ただ天戒に微笑み返した。
自分の勝手な喪失感を埋めようとしてくれている天戒の優しさが胸に痛かった。
どうせ曖昧な記憶ならば、そんな幸せな思い出で埋めてしまっても構わないだろう。
遠くの森に目をやると、その奥で幼い自分と天戒が草笛を吹いている風景が見えてくるような気がした。
「……で、どっちが先に吹けるようになったんだ?」
「さぁ。どちらだっただろうな。俺も忘れてしまった」
「そうか」
心の中でありがとうと呟く。
龍斗は自分の中の何かが満たされていくのを感じながら、新しい草の葉を千切って唇に当てた。
さっきとは少し違う、ぴいと甲高い音が滝の水音の上を滑っていく。
鳥達がそれに答えて、あちらこちらから囀りを聴かせてくれた。
「……龍」
葉を押さえていた龍斗の指先を、天戒が取る。
そして今度はその上に天戒の唇が重なった。
二人の耳の奥には、懐かしい草笛の音がいつまでも響いていた。
- end -
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