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ゆっくりと、でも確実に堕ちてゆく。
深い緑色の藻に覆われた、底無しの沼に沈むように。
真の暗闇の中、全ての思考を奪われて、感じるのは君の愛撫だけ。
肌をなぞる冷たい掌。
耳にかかる湿った吐息。

それでも僕は、どうでもいい事を考える。
(昨日は何を食べたっけ?)
(今日の空は晴れていたっけ?)
なにひとつ思い出せやしないけれど、僕の胸は痛んだりしない。

どうして皆、平気でいられるんだろう。
無駄な物で両手を一杯にして、肝心な物が零れ落ちてゆくというのに。
そしてそれを、『いい想い出だ』なんて言って誤魔化しているんだね。

ううん。
解ってるよ。
誰も、限られた時間を必死に埋めようとしているんだってこと。
そして僕はそれを羨んでいるのだということも。
それは僕には出来ないことだから。
だって、埋めても埋めても―――埋めきれないんだ。

さぁ、僕を夢中にさせてみてよ。
君の体温を暖かいと思わせてみてよ。
言葉なんかじゃ満足出来ない。
僕は、僕が感じたことだけを信じるよ。
だからもっと一生懸命になってみせて。
もっと僕を欲しがって。

何も欲しくない。
何も失わない。
それがどんなことだか、君に解るはずもないんだ。

僕は絶対に口にしないよ。
本当は、狂うほどに願っていること。

君を×××××

×××××てほしい

全て連れて、

僕は深みへと堕ちてゆく。



「シ、ナ……早く……ッ……」
うつ伏せのまま首だけを捻り、ルックは苦しげに呟く。
誘う言葉と艶かしい背中のラインに、シーナはこくりと喉を鳴らした。
「行くよ……」
ルックの腰を抱え上げ、屹立した自分自身を差し込む。
シーツを握り締めるルックの指先が白くなる。
「ア……ッ……」
「ハッ……」
詰まる呼吸を無理矢理に吐き出しながら、次第に深く繋がってゆく。
体内を圧迫する熱に、ルックの唇は言葉を成さないまま開き震えていた。
「ルック……大丈夫……?」
いつもなら奥まで達した後、暫くはルックが落ち着くまでそのままでいる。
しかし今日の彼は明らかに違っていた。
妙にシーナを急かす。
完全に主導権を奪われたシーナは、戸惑いを隠せずに尋ねた。
シーナの問いに答える代わりに、ルックは両肘をシーツについたまま身体を前後に揺らし始めた。
快感が走り抜ける。
「ちょっ……待てっ……」
シーナは慌てて腰を引く。
しかしルックの身体はそれを許さない。
きつく銜え込んだまま、シーナを離そうとはしない。
「……クソッ」
悪態を吐きながらも、いつまでもその状態に耐えられるはずがなかった。
シーナは迷いをふりきるように乱暴にルックの身体を引くと、激しく突き上げ始める。
「うあッ! アァッ!! ……ン!」
「ルック……ッ……!」
女のように甘い喘ぎ声を上げながら、二人はその行為に溺れていった。

肌を滑る空気の流れを感じた。
「ん……」
シーナは重い瞼を開け、視界がはっきりしてくるのを待った。
部屋の中はまだ暗い。
衣擦れのような、微かな音がする。
剥き出しになった肩に、確かに風を感じた。
「……アレ……?」
声にもならない声で呟いて、ぽっかりと空いたシーツの上を撫でる。
そこには、ルックがいるはずだった。
初めてと言っていいほど激しく求め、乱れ合った後、その理由を追及する間もなくルックは気を失うように眠ってしまった。
シーナもさすがに疲れ、また明日聞けばいいやと思ったのだ。
シーツは既に冷たくなっている。
いつの間にベッドを抜け出したのだろう?
気だるい身体を起こして周囲を見回してみるが、ルックの姿はない。
部屋の中は眠る前と変わらず整然としていた。
開け放たれた窓から流れ込む微風が、カーテンを揺らしている。
(どこに行ったんだ……?)
窓を開けたままなのは、すぐに戻るということだろうか。
違う気がする。
シーナはベッドから降りて窓を閉めようとし、ふと空を見上げた。

満月だった。
星一つ見えないほどの白い光。
漆黒の闇さえも、その光に蒼さを強めている。
風は生暖かく、それなのにシーナは悪寒を感じた。
(なにか、おかしい―――)
月の所為なのか、風の所為なのか。
恐らく両方だろう。
この窓辺にルックが立ったのだとしたら……。
シーナは逸る気持ちを押さえつつ、部屋を後にした。
もしもあの夜空を見て部屋を出たのだとしたら、彼の行く場所はひとつしかないだろう。
シーナは妙な確信を持って屋上へと向かう。

今までなら、夜に城内を自由に歩き回れることなどなかった。
兵士が見張りに立っていたし、ましてや外に出ることなど危険極まりなかったからだ。
しかし戦いは昨日、同盟軍の勝利で終わりを告げた。
同時にリーダーのノエルが姿を消し、新しい国を彼に導いてもらうつもりでいた各市の市長達は慌てふためいていたけれど、彼を良く知っていた者達はそうでもなかった。
例えばシュウやテレーズなどは落ち着いていたし、彼を見送ったというビクトールやフリックも同様だった。
そして、シーナやルックも。
少なくとも門の紋章戦争に関わった者達は、一様にそう思っていたに違いない。
だからこそリーダーはリーダー足り得たのだ、と。
わさわさと落ち着かない城内で、彼等だけは冷静だった。

屋上へ出ると、月が近かった。
平坦な石畳の上一杯に月光が降り注ぐ。
シーナは目を細めてそれを見上げ、それから周囲に視線を泳がせた。
いた―――。
薄いグリーンの法衣。
肩先に揺れる髪。
華奢な背中。
驚かせないようにとゆっくり近づき、その横に立つ。
「……ルック?」
ルックは目を閉じていた。
月を仰ぐように顎を伸ばし、両腕を僅かに広げている。
真っ白な頬が夜の中に浮かび上がり、それはまるで触れようとすればふわりと飛び立ってしまう蝶のように儚げだった。
ルックは、シーナの言葉に微動だにしない。
「ルック?」
もう一度呼びかける。
その時シーナは再び、生暖かい風を感じた。
風は月の方から舞い降り、ルックを取り囲むようにして上昇している。
不思議な風の流れ。
先刻の悪寒に、また襲われる。
「ルック!」
堪らずにその細い肩先を掴み、揺らす。
ルックの首ががくがくと前後し、そして漸く瞼が開いた。
「……なに?」
彼が反応したことに、ホッとなどしなかった。
ルックは深い翠の瞳でこちらを見ている。
しかし、その目は―――ガラス玉だった。
彼は普段から感情を表には現さない。
唯一彼の気持ちを判断出来るのが、目だった。
長い時間をかけ、漸くシーナにはそれが解るようになった。
けれどこの目は違う。
何も映していない。
シーナはもう片方の肩も掴み、強引にルックの身体を自分に向けた。
「おい、ルック! しっかりしろよ! お前、ここで何してたんだ?! おい、ってば!」
ルックが微笑った。
それも、唇だけで。
シーナは一瞬、ぞっとした。
「なに、って……奉げ物だよ」
「さ……奉げ物……?」
「そう……風の精霊達にね、お礼をしてるんだ……」
「な、なんだよ、それ……」
シーナは背筋に冷たいものを感じる。
こいつは、誰なんだ?
ルックじゃないのか?
「精霊だって只働きじゃやってられないだろう? だからさ、こうして返礼を……」
「奉げ物、って……何を奉げてるんだよっ?! こんなとこでぼーっと突っ立って、いったい、何を!」
必死なシーナに、ルックは冷たい視線を投げかける。
「……もちろん、『僕』さ」
シーナは凍りついたように目を見張り、よろよろと二三歩後退った。
ルックは更に顔を歪め、すいとシーナに近づく。
「お前……なにを……」
「いいんだよ……僕はね、『余ってる』んだから」
「は、はあ?」
いつのまにか肩に手を置かれているのはシーナの方だった。
ルックは両腕をシーナの肩に乗せ、甘えるようにしな垂れかかる。
「そう……君にもさっき、お裾分けしてあげたじゃないか……」
「……は? 何言って……」
「それとも……もっと欲しい?」
「……!!」
ほんの一瞬。
ルックの唇がシーナのそれに重なった。
その途端、細い腕が力を失くし、身体はずるりと崩れて落ちた。
「ルック?!」
月光が、横たわるルックの肢体を白々と照らしていた。

シーナがルックを背負ってホウアンの元を訪れたのは、既に午前3時を回る頃だった。
医務室の隣りの部屋で眠っていた彼を叩き起こし、ルックを診てもらう。
ホウアンが診察している間、シーナは『よく解らないけど』を連発しながらしどろもどろに事情を説明した。
屋上での彼の様子。
口にした言葉。
もちろん最後の部分―――ルックにキスをされた事は伏せていたが。
「……よく解らないですねぇ」
ホウアンは眼鏡を上げながら溜息をつく。
「だろっ?! 俺も何がなんだかわかんないんだよ!」
「そうじゃありませんよ」
ホウアンはシーナを傷つけないように、僅かに微笑みながら言った。
「ルック君ほどの人が、こんな晩にこんな事をするとは思えないんですけどね」
「……どういうこと?」
きょとんとしているシーナにひとまず椅子を勧め、二人はルックの眠るベッドから少し離れた場所に腰を落ち着けた。
あまり詳しくはないんですけどね、と前置きしてホウアンは話し始める。
「精霊使いが精霊達に己を供物として奉げる、という儀式は確かにあるんです。厳密に言えば、自分の持つ精気、即ち生気を奉げるんですね」
「はぁ」
「精霊というのは数も多いし、歴史も古い。そりゃあ人間よりも昔から存在しているのですから当然ですね。 中でもルック君の司る四大元素の精霊というのは操るのも難しい。 ですから時折は己に蓄えられた精気を精霊達に返してやらなければならない。そうでなければ精霊達も臍を曲げる、というわけです」
「……でも俺だって魔法を使うけど、そんな事はやったことがないぜ?」
「そう。それこそは紋章の力によるものなんです。使う本人の魔力に加えて、支配する力が増幅される」
「じゃあ、ルックはどうして……?」
ホウアンはすうとルックに目をやる。
「ルック君の場合は真の紋章ですからね。操る精霊達の数は比じゃありません。 それに今回の戦いでは、彼の魔法には随分助けられましたから。 けれどそれにしたって、地上に紋章が増えてからはそういった儀式を行う者はほとんどいなくなっていたはずです。その為の紋章でもありますから。 恐らく彼はレックナートさんからそれを聞いて知っていた、ということでしょう」
シーナは腑に落ちず、悔しそうに唇を噛んだ。
「ならルックは……必要も無いのにあんな事をしてたっていうのか?」
「そうとは言い切れませんが……。彼の魔力が強大な理由は、もしかしたらそこにあるのかもしれませんし」
ホウアンは再び指先で眼鏡を上げながら、更に呟いた。
「問題はそこじゃないんです」
「え?」
「いえ、その……」
ホウアンは話す事を躊躇っている。
けれど続きを今か今かと待つようなシーナの視線に追われるように語り出した。
「今日は満月ですよね?」
「ん? ああ、そうだね」
それがなんだ、と言いたげな口調だった。
「月が魔力に影響を及ぼす事は知っていますよね?」
「まぁ、一応。月の光を浴びると魔力が強まる、とかそういう事だろ?」
ホウアンは困った顔で眉を寄せながら、それでも尚微笑んだ。
「違います。逆なんですよ」
「逆ぅ?」
「はい、逆です。月の光は魔力や精気を『奪う』んですよ」
「えっ、だって、それじゃあおかしいじゃん。狼男だって月の光を浴びて正体を表すんだろう?」
「ええ、ですからね。魔力が弱まるから、本性が表れてしまうんです。人型を保つことの方が、ずっと大変なんですね。 その力を弱めてしまうのが、月の光というわけです」
「へえ〜、それは……知らなかったなあ」
「まあ、大抵の人はそうだと思いますよ」
ホウアンの笑顔はどこか人を安心させる。
シーナはその話に単純に感心していた。
「だからね、よく解らないんですよ」
「?」
「そんな古い儀式を知っているような彼のことです。月の光の効力だって充分承知しているはずなのに……」
「あっ……」
只でさえ精気を奪われる満月の夜。
そんな夜に必要も無いのに、己の精気を供物として奉げる。
それでは、まるで……。

自殺行為だ―――。

恐らくシーナもホウアンも同じ言葉を思い浮かべていた。
けれど、それを口に出すことはしなかった。
その言葉は余りにも自分たちの知るルックからかけ離れていたし、何よりそんな風に思いたくなかった。
シーナは無言で椅子から立ち上がると、ベッドへと歩み寄った。
眠るルックの側に跪き、枕に零れる髪に少しだけ触れる。
「ホウアン先生……」
「はい」
「この事……誰にも言わないでくれる?」
「……」
天使のような寝顔だ。
先刻の彼とは似ても似つかない。
「ルックは誰にも……本当は俺にも、今夜の出来事は見られたくなかったと思うんだ。だから……」
違う。
本当は自分が、こんなルックを誰にも見せたくないだけ。
シーナは自分の我侭を承知で、ホウアンにそう願い出た。
「……解りました」
城は同盟軍の勝利に浮き足立つ者や、リーダーの失踪に慌てる者ばかりだ。
仮令ルックがいない事に気づく者がいたとしても、彼のことだから黙ってレックナートの元に戻ったのだと思うだろう。
だからシーナはルックを自分の部屋に連れて行くことにした。
目が覚めて、そのまま何事も無くあの島に帰るのならそれでもいい。
けれど今日の夜を目撃してしまったからには、その前に彼ときちんと話をしておきたい。
シーナはそう思った。
「なにかあったらすぐに呼んでくださいね」
そう言うホウアンに頭を下げて、シーナはルックを抱いて医務室を出た。
腕の中のルックは、酷く軽かった。
中身の無い、空っぽの人形を抱いているような錯覚さえ起こしそうで、その軽さにシーナは少しだけ泣きそうになった。

誰にも会うことなく、シーナは自分の部屋に辿り着いた。
午前3時を過ぎているのだから当然だ。
普段は自分が眠るベッドに、ルックをそっと寝かせる。
考えてみれば自分がルックの部屋に行くばかりで、彼がこの部屋に来たことは無い。
このベッドでルックが眠るのは、初めてのことだった。
 ブーツと法衣を脱がせ、楽にしてやる。
それから毛布を首元まできっちりと掛けてやると、シーナはベッドの側に椅子を引っ張ってきて、そこに腰掛けた。
(なんで、壊れた―――?)
壊れた、としか表現出来なかった。
薄明かりの中、シーナはいつまでもルックの寝顔を見つめていた。

ああ、朝が来るな。
東の空が白み始めた頃だろう。
明け方の静寂は、真夜中のそれと微妙に違う。
もしかしたら朝の方が深いかもしれない。
湿度が違うのかな。
夜は何処かしっとりとしているから。
こんなにピンと張り詰めた空気はしていない。

ゆっくりと瞼を開ける。
薄灰色の部屋。
細く、白い光が斜めに差す。

どこだろう、ここ。
見たことがない。
僕の部屋じゃないな。
誰か他人の部屋かな。

全身がだるい。
指先も動かせない。
何処にも力が入らない。

部屋の隅っこに塊がある。
毛布にくるまって、その一番上に乗ってるのは短い金髪。

……シーナ?
なんでシーナ、あんなとこで寝てるんだろう。
こんなに寒いのに。

そういえばすごく寒い。
シーナ、寒くないのかな。
馬鹿だから感じないのかな。

ああ、ここってシーナの部屋なんだ。
初めて来たや。
なんだかやけに洒落たランプがある。
ふうん、結構本読んでるんだ。
意外だな。
部屋が片付いてるのは、滅多にここにいないからだろう。
いっつもフラフラしてるからな。

それにしても。
また余計なことしてくれたんだ。
なんで僕を自分の部屋になんかつれてくるんだよ。
しかも自分はあんなとこに寝ててさ。

いつだってそうなんだ。
ちょっと油断すると僕の前に現れて。
僕が嫌がってるの解ってるくせに、一人でぺらぺら喋って。
何言っても聞かないし。
何言っても、いや、何も言わなくてもへらへらしてばっかり。
僕の都合なんかお構いなしなんだ。
無遠慮で無神経でしつこくって。
被虐趣味でもあるんじゃないかと疑うよ。
放っておいてほしい。
構わないでほしい。
皆みたいに、『お前、性格悪いな』って避けてくれたらいいんだ。
なんか勘違いしてるよ、君は。
よく僕に素直になれ、なんて言うけど、僕の気持ちは態度そのままだよ。
いい加減気づきなよ。
大嫌いだ、あんな奴。

……寒い。
手とか足とかの先が冷えてるのが解る。
血が通ってないみたい。
相変わらず力は入らないし。
暖かいミルクが飲みたいな。
そしたら少しは身体も温まるかな。

寒い。
寒い。
寒い。

何やってるんだよ、シーナ。
ほんとに君って大馬鹿だよね。
どうして―――、ここに来ないんだよ。

次にルックが目を覚ました時には、既にシーナの姿はなかった。
部屋の外には多勢の人の気配がする。
もう朝を通り越して、昼ぐらいにはなっているのだろうか。
ルックは相変わらず力の入らない身体に少し苛付きながらも、なんだか久し振りに深く眠ったような気がしていた。

暫くぼんやりしていると部屋のドアが静かに開いた。
シーナだった。
「おっと」
独り言のように呟いて、後ろ手でドアを閉める。
手には小さなポットの乗った盆を持っていた。
そのままベッドの側にあるテーブルに盆を置く。
「……わっ」
ルックと目が合って、漸く彼が目覚めていることに気づいたシーナは奇声を上げた。
「あー、びっくりしたぁ……。起きてたのか」
「……」
「……カーテン、閉めとくか?」
「……」
ルックは無言で小さく頷く。
シーナは開けようとしていたカーテンから手を離し、その代わりベッドの側にある椅子を引いて腰掛けた。
気不味そうに頭を掻いている。
なんとなくシーナらしくない様子に、ルックはただじっと視線を定めている。
「あー……えっと……腹、減ってないか?」
「……」
「あ、これさ、ホットミルク貰ってきたんだけど、飲まない?」
「……」
そういえば、それが飲みたかったような気がする。
ルックはまた小さく頷いた。
「そっか」
漸くほっとしたように笑ったシーナは、ポットからそれを注ぐ。
柔らかい湯気が上がるのが見えた。
「起きられるか?」
今度は首を左右に振る。
シーナは少し困ったような照れたような顔をして、じゃあ、とルックの身体の下に腕を差し入れた。
ルックは思わず苦笑しそうになる。
散々人のことを抱いておきながら、今更こんなことで戸惑っているなんて。
からかっているような気分になって、ルックはちょっとだけ愉快になった。
身体を起こして、シーナが湯気の立ったカップを握らせる。
手を離すと落としてしまいそうだったから、シーナはそのまま手を添え続けた。
ルックの華奢な指先を包み込んだまま、飲むのを手伝う。
彼の喉がこくん、と小さく鳴った。
暖かい液体が喉から胃に流れ込んでゆく。
一口毎に身体が生き返ってゆくのが解った。
「も……いい」
久し振りに声を出したから、それは少し掠れていた。
けれどシーナは酷く嬉しそうに笑った。
「あのさ……ここにお前がいることは俺とホウアン先生しか知らないから。だから、安心しろよ。皆、お前は島に帰ったと思ってるからさ」
……なにに安心しろというのか?
ルックは少しムッとしてシーナを見る。
彼はまだ何か言いたそうに、口元をもごもごさせていた。
身体に力が戻り始めたせいか、ルックは次第にイライラし始めた。
「あ、なんかさ。他に欲しいもんあったら言えよ? 適当に言って持って……」
「言いたいことがあるんなら……はっきり言えば」
声はまだ掠れていたけれど、ルックはシーナの言葉を遮って冷たく言い放った。
彼の言いたいことなんてたかが知れてる。
ルックの射るような視線にシーナは少し逡巡して、それから踏ん切りをつけたように応えた。
「……なんなんだよ、アレ」
「あれ?」
「昨夜、屋上でやってたことだよ」
「ああ……アレ」
ルックがくすりと笑う。
それは、いつもの嘲笑だった。
「だから、ただの儀式だよ。それがどうしたっていうのさ」
「……俺、知ってるんだからな。ホウアン先生に聞いた」
ルックの顔からすうっと笑みが消える。
「……それで? 何が言いたいの」
「……二度とあんなことするな」
シーナは押し殺した声で言った。
少し前屈みになって、組んだ両手を額に当てていたから、その表情は見えなかった。
しかし口調には確かに怒りがこもっている。
その響きがルックを益々苛立たせるとも知らずに。
「……僕に指図するんだ?」
「指図じゃないだろ。あんなことして、どうなると……」
「僕が君なんかに何か言われたぐらいで、どうこうするとでも思う?」
「……俺じゃなくても、誰でもそう言うさ」
「そうかな」
「そうだよ」
「……だとしても関係無いね」
「……」
不毛なやりとりだ。
平行線は、どこまで行っても交わることはない。

「……僕、もう行くよ」
沈黙を破ったのは、ルックの方だった。
「行くって……どこへだよ?」
「帰るんだよ」
「帰る? おい、ちょっと……」
ベッドから降りたルックがよろめく。
咄嗟にシーナは彼を支えた。
「……ほら。まだ、無理だろ」
「……触らないでよ」
ルックはシーナの手を払い除け、彼を睨みつけた。
そこに明らかな憎しみを読みとったシーナは、言葉に詰まったままルックを見つめた。
「……君にずっと言おうと思ってたことがあるんだ」
冷たい目をして、ルックが切り出す。
シーナは僅かに怯む。
「僕はね……君のことが、大嫌いなんだよ」
シーナは眉一つ動かさなかった。
視線を逸らしたのは、ルックの方だった。

そう。
始めからそう言えば良かったんだ。
馬鹿だの最低だの散々罵声を浴びせてはきたけれど、これだけは言ったことがなかったんだから。
大嫌い。
もっと早く言えば良かった。
そうすれば、こんな面倒な感情を抱かずに済んだのに。
シーナだって、その方が良かっただろう。

紋章を護る為だけに生き続ける自分。
闘い、宿星の行方を管理しながら。

僕はね、平穏な時代には生きる価値が無い人間なんだよ。
それがどういうことだか、君に解るかい?

底無しの虚無感。

無限の絶望。

もう―――――うんざりなんだ。

「なにもかも……面倒なんだよ」
「……なにも、かも?」
「そう。こんな闘いに巻き込まれるのも、君みたいな人間に関わるのも、それから……生きることもね」
ルックは法衣とブーツを手に取った。
終わったんだ。
これで終わりに出来るんだ。
シーナの顔を見ないまま、身支度を整え始めた。
「だいたい君だって、こんな面倒なこと嫌いなはずだろう。 僕が知ってる君は軽薄でお調子者で、いっつも女の子を追い掛け回してたはずだけど?」
何故、僕はこんなに喋る?
余計なことは言わなくてもいい。
「君はたかだか残り数十年の命なんだから。もっと楽しいことに費やした方が賢いんじゃない?」
ベッドに腰掛け、ブーツの紐を結ぶ。
何故、シーナの顔が見れない?
「僕にとって君なんて、ただの通りすがりなんだよ。だからこれで終わり。それだけ」
「……じゃあ……」
ずっと黙ってルックの言葉を聞いていたシーナが口を開いた。
ルックの手が一瞬、止まる。
「じゃあ、なんで俺にお前をくれた?」
ルックは顔を上げた。
見上げたシーナは怒っているようにも、泣き出しそうにも見えた。
シーナはルックの前に跪き、掴み掛かる。
「お前、俺に『お裾分け』したって言ったよなぁ? なんで、俺にくれた? なんで、俺だった?」
「……」
「俺が嫌いなら、なんで他の奴にしなかった? お前、俺に自分を残そうとしたんじゃないのか?!」
「う……ぬぼれないでよっ」
シーナを振り払おうと、ルックは強引に身を捩る。
しかしシーナは掴んだルックの両腕を離さない。
「悲しいんなら! 寂しいんなら、そう言えよ!! 何にも持ってないって言いながら、お前、雁字搦めじゃんか!! 分かってんだろ?!」
「……うるさい……」
「俺、お前が好きだって言ってんじゃん!!! どうすれば信じんだよ!! どうすれば……!!!」
「……うるさい!!!」
ヒュン、と乾いた音が横切った。
「あ……」
シーナの髪がぱらりと落ちて、それから血が頬を伝った。
呆然としていたのは、寧ろルックの方だった。
シーナは切れた頬を押さえることもせず、ただ微笑んだ。
「……大丈夫だよ」
どうして笑える?
「約束する」
なにを?
「お前の全部、俺は好きだから」
だから……なに?
「だからさ、俺が死ぬ時はさ……」
ルックは呆然としたままシーナの言葉を聞く。
身体中に声が響く。

「お前を、連れていってやるよ」

それは、誰もくれなかった言葉。

そして、ずっと―――。

「紋章なんか捨てちまえばいい。俺が終わらせてやるから」
「……」
「だから、俺が生きてる間ぐらいは生きてろよ」
シーナは笑っている。
笑っているのに、泣いているように見えた。
ルックは唇をぎゅっと噛み、立ち上がった。
「……行くのか?」
ルックは頷く。
周囲に青白い光が次々と浮かぶ。
それはルックに吸い込まれるように集まり、やがて大きな光となってルックを包んだ。

シーナはただ黙ってその光景を見ていた。
閃光に包まれて、ルックが見えなくなってゆく。
小さな風が巻き起こり、一際光り輝いた後、それはやがて消えた。

後には何も残らなかった。

ただ、最後に。

消えてゆくルックの唇が、僅かに動いたのをシーナは見た。

あれは何を言っていたのだろう。

静けさを取り戻した部屋の中で、儚い少年の残像が見えた気がした。

- end -

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