残酷な距離
汗を掻くのが嫌いだからなんて、我ながらもう少しましな言い訳はなかったのかと思う。
逃げるようにして部屋へ戻り、急いで扉を閉める。
一人になってようやく少し落ち着いたけれど、右手の震えはまだ止まらない。
情けなさに、苦笑が漏れた。
体の中にまだ、真の紋章の残響を感じる。
それも自分の持つ風の紋章のものだけでなく、共鳴した土の紋章の力まで。
まるでもう一度表へ出せとでもいうように、それは僕の中を荒々しく駆け回り続けていた。
あのときの感覚が甦る。
それは予想よりも遙かに強大で、凶悪な力だった。
体の奥底から、内臓が引き摺り出されていくような不快感。
僕の詠唱に導かれて放出されたエネルギーは、己に相応しい役目を負ったことに嬉々として、敵軍に襲い掛かった。
―――それでもまだ、足りないのか。
尋ねても、紋章が答えるはずもなく。
僕は禍々しい力の宿るてのひらを見つめ、それをぎゅっと握り締めた。
背後で扉を叩く音がした。
僕の返事も待たずにそれは開かれ、シーナが顔を出す。
「よぉ。お疲れ」
「……お疲れ」
僕は震える右手を左手で覆い隠しながら、返した。
本当は、今は誰とも会いたくなかった。
けれどこれ以上口を開くのも嫌で、僕はシーナに背中を向けると、机の前にあった椅子に腰掛けた。
「参ったよなあ。あいつ、強すぎるって」
そう言いながらも、シーナの口調は軽い。
ベッドの軋む音がして、彼がそこに座ったのが分かった。
あいつ、というのが、ルカ・ブライトを指していることは明白だった。
さっきまで彼らと交えていた一戦は、同盟軍の敗北に終わったのだ。
援軍を含め、ある程度のダメージは与えられたものの、こちらが受けた被害はそれ以上だ。
再度、作戦を立て直さなければならない。
今頃、軍師殿は頭を抱えていることだろう。
読む気もないのに目の前の本を取り、無意味に広げる。
シーナはそれからしばらく黙り込んでいた。
そこにいつもと違う空気を感じたのは、僕の気のせいではなかったらしい。
「……お前、凄かったな」
ぽつりと呟かれたシーナの言葉に、やっぱり、と思った。
「あれ、真の風の紋章の力なんだろう? かなりの威力だったよな。
お前も真の紋章の継承者なんだなあって、改めて実感したよ」
ああ、そうだね。
僕もだよ。
心の中で、吐き捨てる。
彼が悪い意味で言っているわけではないことぐらい、分かっている。
もしかしたら褒めているつもりなのかもしれなかったけれど、僕は少しも嬉しくなかった。
それどころか、今は一番触れて欲しくない話だ。
苛立ちが募り、僕はまた右手を強く握り締めていた。
「なぁ。真の紋章って、どうしたら宿せるんだ?」
「……はぁ?」
耳を疑った。
このまま無視を決め込むつもりだったのに、僕は思わず肩越しに振り返っていた。
どうしてそんなことを聞くのだろう。
まさか。
「真の紋章……宿したいわけ?」
お願いだから。
お願いだから、馬鹿なことを言わないでくれ。
祈るような気持ちで尋ねたけれど、シーナは呆気ないほどに明るい声で答えた。
「うん、そう」
「なんで……」
「えっ……いや、そうだな……なんか、かっこいいから?」
「……っ」
我慢出来なかった。
僕の中で、何かが爆発した。
気がつけば椅子から立ち上がり、シーナの前に立つと、その頬を思い切り叩いていた。
「―――ッ!」
痛みに顔を伏せたシーナに、僕は声を荒げた。
感情が、溢れ出す。
「何も知らないくせに……。真の紋章を宿すのが、どういうことなのか……!
紋章の持つ、あらゆる戦乱の記憶を抱えながら、その器として生きることが、どういうことなのか、君には分からない!
何十年、何百年とそれを背負いながら、どれほどのものを失くして、
どれほどのものを諦めて生き続けなければならないのか!
真の紋章を宿して幸せになった奴なんか、いない!! 誰もこんなもの、望んでなんかいないんだよ!!!」
僕が怒鳴り続けている間も、シーナはずっと俯いたままだった。
哀しかった。
いくらシーナが馬鹿で能天気だといっても、こんなことを言い出すような奴だとは思っていなかった。
普段はお調子者だけど、色々なことを分かってくれているはずだと思っていた。
それなのに僕は今、心底シーナに失望している。
それが酷く、哀しかった。
彼を叩いた、てのひらが痛い。
息を弾ませながら見下ろしていると、シーナは漸くゆっくりと顔を上げた。
「……分からない、からさ」
頬が赤くなっている。
僕が叩いた所為だ。
シーナは辛うじて微笑んでいたけれど、どこか泣き出しそうにも見えた。
「真の紋章を宿すってことが、どういうことなのか、想像ぐらいしたことあるよ。
三年前のカイトを見ているし、ノエルのことも、あのジョウイって奴のことも、皆から聞いて少しは知ってるつもり。
家族を失くして、親友を失くして、帰る場所を失くして……」
そうだ。
そこまで知っていて、何故あんなことが言える?
シーナの顔が、僅かに歪む。
「でもさ……いくら見ても、聞いても、本当に分かっていることにはならないだろう?」
そう言って、シーナは僕の右手をそっと取った。
「真の紋章を宿して、幸せになった奴なんか、いないのか……」
右手はまだ震えていた。
それはシーナにも伝わっていることだろう。
けれど僕は彼の手を、振り払えない。
シーナの声が、少しずつ小さくなっていく。
「どれだけ想像しても、お前の心に近づくことは出来ない。
俺に、お前の手が震えているのを、止めることは出来ない。それなら……」
シーナは僕のてのひらに、額を押し付けた。
そして、今にも消え入りそうな声で呟く。
「もしも俺が、真の紋章の継承者だったら、って……」
―――馬鹿だ。
そんなことで、宿主になることを望むなんて。
単純で、幼稚で、浅墓な発想だ。
だけど、どうしてだろう。
こんなにも胸が苦しいのは。
僕の手はいつの間にか、震えることを止めていた。
「……そんなことで僕が喜ぶと思ったら、大間違いだよ」
空いた左手で、シーナの髪に触れる。
右手に感じる温もりは、せつないほどに優しい。
だからそんなこと、そんな哀しいこと言わないで。
「僕は……君が真の紋章の継承者じゃなくて、良かったと思ってるんだからね……」
「ルック……」
シーナが顔を上げる。
そしてゆっくりと立ち上がると、僕の身体をきつく抱き締めた。
「本当に馬鹿だよ、君は……」
僕はシーナの胸に顔を埋め、背中に手を回した。
いつか僕はこの背中を、見送ることになるだろう。
もしも本当に君が真の紋章の継承者だったなら、僕達は幸せになれたのだろうか。
この永い、永い刻を、二人で生きていけたのだろうか。
どれだけ傍にいても、君は遙か遠い。
僕達の距離は、永遠に縮まらない。
誰よりも近くて、誰よりも遠い君。
そんな君を、僕は確かに愛しいと思っていた。
- end -
2007.06.01
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