それは愚かな祈りのように
どうして、もっと早くこうしなかったのだろう。
延々と続く石の階段を上りながら、俺はそんなことばかりを考えていた。
初めて降り立った魔術師の島は、その名が与えるイメージ通り、どこか神秘的な雰囲気に包まれていた。
辺りを囲むのは、鬱蒼と茂る木々と静寂ばかり。
それらを掻き分けて進んでいくと、唐突に聳え立つ塔が姿を現した。
薄雲の漂う空を背景に、天辺は霞んでいて、見ることさえ出来ない。
運んできてくれた竜騎士に待っていてくれるよう告げ、俺はその塔へと足を踏み入れた。
中は薄暗く、ひんやりとしていた。
その空間に、俺の足音だけがこだまする。
まるで刻の鐘のようだ。
俺は自分の爪先を見つめながら、ゆっくりと階段を上っていった。
どうして、もっと早くこうしなかったのだろう。
自分にその手段があることは、とうの昔に分かりきっていたのだ。
それなのに、俺はそうしなかった。
何故だ。
星読みの儀式は、確かに帝国時代に比べるとそれほど重要視されなくなっていたものの、
共和国になってからもずっと続けられていた。
だから書状を貰うために魔術師の島まで行く役目も、毎年必ず誰かが担っていたのだ。
それを俺は知っていた。
にも関わらず、自分がその役目を負うと言い出すことはなかった。
役目を引き受ければ、簡単には来ることが出来ないこの場所に堂々と来ることが出来たのだし、
そうすればあいつに会えたかもしれないというのに。
けれど、俺は会いに来なかった。
そして今頃になって、もうあいつがいないと分かっている今になって、こうしてのこのことやって来たのだからお笑い種だ。
照れ臭かったわけでも、面倒臭かったわけでも、タイミングが合わなかったわけでもない。
言い訳じみてはいるが、敢えて会おうとしなくても、いつかはその機会がやってくるだろうと思っていた。
俺とあいつはそういう運命にあるのだと。
そして会えば、まるで昨日別れたばかりのように軽口を叩き合えるはずだと、
なんの根拠も無くそう思っていたのだ。
それともあいつのほうから会いに来てくれやしないかと、期待していたのかもしれない。
どちらにせよ、考えが甘かった。
時の流れはそんなに優しいものじゃない。
分かっていることは、確かに俺が今、後悔しているということだけだった。
会って何かがしたかったわけじゃない。
あいつの為に何かしたかったと、そんな思い上がったことを考えて後悔しているわけじゃなかった。
そもそも俺なんかに、何かが出来たはずもないんだ。
ただ、会いたかった。
もう一度会って、話して、触れたかった。
それだけだった。
息が切れ始めた頃、長く続いていた階段が漸く途切れた。
顔を上げると扉は既に開いていて、そこには憂いを帯びた美しい女性が立っていた。
「ようこそ、いらっしゃいました。私がレックナートです」
涼やかな声が、周囲に微かに反響する。
儚げな立ち姿なのに、何故か俺は圧倒されていて、挨拶をすることすら忘れて彼女に見入っていた。
「はじめまして……では、ないようですね」
女魔術師は、俺の姿など見えていないはずなのにそう言った。
俺は漸く我に返り、姿勢を正した。
「トラン共和国から参りました、シーナと申します。以前……解放戦争や、デュナンの統一戦争に参加したことがあります」
「そうですか……」
絹糸のような長い髪。
透けるような白い肌。
伏せられたままの瞳には、何も映らないという。
件の戦争に参加したとき見かけたきりだったけれど、その印象はあの頃のままだった。
「書状はこちらにあります。どうぞ、奥へ」
長い髪の揺れる背中に導かれて、奥の部屋へと進む。
置かれた蝋燭が消されたままの所為で、部屋の中は一層薄暗く、けれどこの人には灯りなど必要ないのだと後で気づいた。
「どうぞ、これをお持ち下さい」
「ありがとうございます」
盲目であるのに、どうやってこれをしたためたのかは分からなかったが、
差し出された書状を俺は受け取った。
役目はこれで終わりだった。
けれど俺はその場を動くことが出来ずにいた。
この人こそが、あいつの―――ルックに纏わる全てのことを知っているはずだと分かっていたから。
だからといって何を尋ねればいいのか。
俺は何を知りたいのか。
躊躇っている俺に、彼女が先に口を開いた。
「あの子が……最期の晩、会いに行ったのはあなたですね」
「え……?」
あの子、というのがルックのことを指しているのだということは、すぐに分かった。
薄闇に目が慣れたせいか、彼女の表情や部屋の様子がよく見え始めてきた。
彼女はとても悲しげに、何かを思い出しているようだった。
「あの子の魂が天に召された夜……その一瞬の合間、トランのほうに向かうのが見えました」
「あいつが……俺に……?」
それは本当だろうか。
あいつも俺を忘れずにいてくれたのだろうか。
最期に会いに来てくれるほど、あいつにとって俺は特別な存在だったのだろうか。
まさか。
幾らなんでも自惚れが過ぎる。
それでも既に泣き出したいような気持ちになっていた俺は、それをなんとか抑えながら尋ねた。
「あいつは……ルックは、あなたに何と言っていたのですか……?」
俺の問い掛けに、彼女は一瞬だけ辛そうに眉を寄せた。
「……この世界を……憎んでいる、と……」
憎む。
なんて悲しい言葉だろう。
レックナートは俯き加減だった顔を上げると、思いを馳せるように天を仰いだ。
「人々が争い続けること……そして、その果てにある世界の終焉……。
真なる紋章が見せるそれらの記憶は、余りにも惨いものでした。
紋章がそれを望んでいる、全ての元凶は紋章にあるのだと……あの子はそう考えるようになったのです。
紋章の申し子として生を受けたあの子にとって、それは耐え難いことでした……」
「……」
「あの子の魂は深く傷ついていました。傷つき……絶望して……
そしてその絶望の暗闇から、あの子を救ってやることは、私には出来ませんでした……」
最後は消え入りそうな声で呟いて、再び悲しそうに俯く。
占星術師。
バランスの執行者。
全てを分かっていながら、長く共に過ごした弟子を亡くしたこの人を、俺は少しだけ可哀相に思った。
けれどルックのことは、可哀相だなんて思わなかった。
世界を憎んでいるという言葉が、あいつの本心だとは到底思えなかった。
「……ルックは、絶望なんてしていなかったと思います」
レックナートが、見えない目を俺に向けた。
「だって……本当に絶望していたなら、世界が終わりを迎えるのを、ただ黙って見ていれば良かったんです。
待っているだけで良かったはずです。だけど、あいつはそうしなかった。
あいつのしたことは決して赦されないけれど……。
それでもあいつにとっては、それがたったひとつ残された、希望の光だったんだと思います。
それが本当にこの世界の為になるんだと、信じていたんだと思います。
あいつは希望を捨てたわけじゃなかったんだと……俺は、思います……」
話しているうちに、なんだか自分に言い聞かせているような気がしてきた。
ルックが絶望していたなんて思いたくなかった。
世界を憎んでいるなんて思いたくなかった。
この世界を愛していたから、この世界に生きる人達を愛していたから、なにかせずにはいられなかったのだと思う。
それはとても恐ろしくて、間違った手段だったけれど、あいつのその気持ちだけは本物だったはずだ。
だからあいつは、絶望なんてしていなかったんだと。
俺が話し終わると、彼女は今日初めて、その美しい顔に微笑みを浮かべた。
俺はルックの使っていた部屋を、見せてもらうことにした。
殺風景なその部屋の床には、うっすらと埃が積もっていた。
俺が歩くと、窓から差し込む光の中に埃が舞い上がった。
窓辺に置かれている机に歩み寄る。
その上もやはり埃が覆っているだけで、何も置いてはいなかった。
しかし何気なく引き出しを開けてみると、そこには一冊の本がしまってあった。
「あれ……?」
どこか見覚えがあるような気がして、手に取る。
茶色の革表紙に金文字で『紋章学I』と書かれたそれは、かなり古いもののようだった。
表紙は色褪せて、今にも取れてしまいそうになっている。
本の間に何かが挟まっていることに気づき、注意深く頁を捲る。
そこにあったのは、二通の封筒だった。
その片方を見たとき、とうに忘れていた記憶が突然鮮明に蘇った。
「これ……!」
それは、俺が出した手紙だった。
表の宛名書きは、確かに俺の字だ。
十五年前にノースウィンドウの本拠地であいつと別れた後、一度だけグレッグミンスターから出した覚えがある。
封筒から手紙を取り出し、読んでみた。
ルックへ。元気か。俺は元気だ。これからハルモニアの方へ遊びに行こうと思っている。
そのうちお前のところへも行くからな! シーナより。
俺は苦笑した。
まるで馬鹿みたいな文章だ。
もう少し気の利いたことが書けなかったのだろうか。
けれど書いた俺自身さえ忘れていたような、こんなつまらなくて短い手紙を、ルックはずっと持っていてくれたのだ。
再び後悔が襲い掛かる。
どうしてもっとたくさん手紙を書かなかったのだろう。
どうしてもっと早く会いに来なかったのだろう。
悔しさに唇を噛みながら、もう一通の封筒を手に取った。
表には何も書かれていない。
中には便箋が一枚だけ入っていた。
なにかの予感がして、震える手でそれを開く。
書かれていたのは、たった一行だけだった。
シーナへ。
あとは真っ白だった。
インクも、紙の色も、それほど古くない。
次第に滲んでいく視界の中、その書き掛けの手紙を、ただひたすら見つめ続ける。
シーナへ。
シーナへ。
いくら見つめていても、その後に続く言葉は聴こえてこない。
なあ、ルック。
この後、なんて書こうとしたんだ?
続きはいつ書くつもりだったんだ?
教えてくれよ。
ああ、どうして俺は―――。
「あなたは……」
いつの間にか側に立っていたレックナートが、優しい声で話し出す。
「あの子にとって、この世界の破壊こそがたったひとつの希望だったはずだと言いました」
「……」
「けれど、本当の希望はあなただったのではありませんか? さきほどのあなたの言葉を聞いていて……そう感じました……」
返事は出来なかった。
俺はまるで子供のように、声をあげて泣いた。
本当に俺はお前の希望でいられたのだろうか。
そんな風に思うことは、自分が楽になる為の言い訳じゃないのか。
けれどそうであってくれればいいと、願っているのも本当だった。
お前はいない。
何処にもいない。
もう会えない。
もう触れることは出来ない。
あの声も、あの唇も、指先の熱も、風に流れる髪も。
全ては遥か遠くに行ってしまった。
遥か、遥か、遠くに。
けれど今、届かないはずの手紙が俺の元に届いた。
ならば、俺の叫びもいつかお前に届くかもしれない。
いや、永遠に届かなくてもいい。
それでも俺は、心の中で繰り返す。
お前が聞けば、笑うかもしれない言葉。
子供だったあの頃の俺には、何も知らなかったあの頃の俺には、その意味さえ分からなかった言葉を。
俺はお前を愛していたよ。
俺はお前を愛していたよ。
俺はお前を愛しているよ。
今はいないお前に向けて、何度も、何度も繰り返す。
それは―――愚かな祈りのように。
- end -
2005.08.27
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