蝶
雨が降るのだろうか。
そう思わせる質量を持った空気が、肌にじっとりと纏わりついてくる。
それでも彼はいつもと変わらず、涼しい顔のままだった。
無表情といってもいい。
翡翠色をした硝子玉のような瞳が、こちらをじっと見つめている。
だから目を閉じないまま、キスをした。
彼もまた目を閉じなかった。
こちらを見ていると思ったのは自分の気の所為で、本当は彼は何も見ていないのかもしれないと思う。
触れ合うと、彼は自然と唇を開く。
躊躇いなく絡んできた舌には確かに温度があったけれど、それを温もりと呼ぶ気には到底なれなかった。
―――今日の彼は、何処かおかしい。
愛想が無いのはいつものことだけれど、それ以上に何かが欠けていた。
瞳からも、表情からも、肉体からも生気が感じられない。
ぴったりと重なった胸から伝わる鼓動さえ、まるで機械が発するただの振動のようだ。
服を脱がせるときも、その身体に覆い被さるときも彼は少しの抵抗も見せなかった。
それがかえって不自然で、不安にさせる。
シーナはその不安を拭い去る為に、わざと音を立ててルックの口内を掻き回した。
「ん……っ…」
喉の奥から漏れた呻きは、単なる息苦しさから来るものだったのだろう。
けれどその掠れた声は、シーナを煽るのに充分だった。
「……は、っ……ん……」
酸素を求めて逃れようとする唇を、執拗に追いかける。
シーナは柔らかなルックの髪の中に指を差し入れると、彼を更に自分の方に引き寄せた。
呼吸を奪い、唾液を飲み込む暇も与えないほどに口づける。
裸の背中に置かれた、ルックの掌と十本の指先に力が入り始める。
決してそういう意味ではないと分かっているのに、まるで縋られているようでせつなくなった。
「ルック……」
唇を離し、その目を覗き込んでみる。
それは苦しさに僅かに滲んではいるものの、やはり自分ではない何かを見ているようにシーナには思えた。
焦燥感に襲われる。
どうしても、こちらを向かせたい。
緩く開かれた両脚の間に下肢を捻じ込んで、シーナはその中心を押し付けた。
「……っ…」
ぴくん、とルックの身体が反応する。
シーナはそのままゆっくりと、腰を前後に揺らした。
「ルック……」
耳元で幾度も名を囁きながら、互いのものに刺激を与える。
それが硬さを持ち出すのにつれて、動きは少しずつ小刻みに、そして強くなっていった。
やがてルックの腰がもどかしげに揺れ始め、薄い胸が僅かに反らされる。
「あっ……ぁ……」
開いた唇から、漸く濡れた喘ぎが零れた。
眉根が寄せられ、目が細まる。
シーナは互いのものを一緒に握ると、その先端を擦り合わせた。
「んっ、あっ、あ…っ」
ルックはきつく目を閉じ、急激に訪れた強い快感に遠慮なく声をあげた。
じわじわと込み上げてくる衝動に、シーナの額が汗ばむ。
目を開けて。
俺を見て。
何に急かされているのかも分からないまま、シーナは手と腰を動かし続けた。
「ルック……気持ち、いい?」
尋ねても、返事は無い。
我ながら、愚問だと思った。
「……もう…入っていいかな……?」
今度の問い掛けにルックは少しだけ瞼を上げ、シーナに視線を寄越した。
それはまだ虚ろで、明確な答えは読み取れない。
拒絶も承諾も貰えなかったが、シーナの方がもう限界だった。
ルックの右足を膝裏から抱え上げ、後孔に屹立を押し当てる。
「入るよ……」
異物の侵入を阻止するかのように収縮する場所に、割って入る。
少しずつ先端が飲み込まれていくほどに、ルックの身体は緊張に強張った。
あまりのきつさに、痛みさえ感じる。
全てを収めるまでには、かなりの時間が掛かった。
「は、ぁ……」
完全に繋がった安堵感に思わず吐息を漏らすと、ルックの身体から少しだけ力が抜けた。
それと同時にきつかっただけの中が別の意図を持って、シーナの欲望に絡みつく。
シーナは改めてルックの顔を見下ろした。
呆然としたような表情。
それを変えたくて、シーナは腰を使い始める。
「ルッ…ク……」
始めはゆっくりと、やがて奥を突くように彼の身体を貫いた。
どうして今夜の彼は、こんな目をしているのだろう。
悲しさとも、寂しさとも違う。
理由を知ったからといって何かが出来るとも思えなかったけれど、何も知らないままでいたくなかった。
彼の中に入りたい。
彼の心の中に。
だから自分はこの身体を抱くのかもしれないと、シーナは思った。
そうでなければ説明がつかないのだ。
確かに顔は綺麗だけれど、ルックは間違いなく男だ。
どんなに白く綺麗な肌をしていても、そこに女性のような柔らかさはなく、身体は素っ気無いほどに華奢なだけで、
性的欲求を煽るような要素は何処にも無い。
―――それでも、抱きたくなる。
冷めた瞳を、無口な唇を、変えたいから。
それが悦びからのものでなくてもいい。
自分だけが映っている彼の瞳が、自分の名だけを呼ぶ彼の声が、欲しい。
シーナはひたすらルックの身体を揺さぶる。
まるで自分自身を刻み込むように。
「―――蝶」
幻聴かと思った呟きは、確かにルックが発したものだった。
シーナは思わず動きを止めて、ルックを見つめる。
「……なに?」
ルックの細い腕がゆらりと伸びて、シーナの後方を指差す。
振り返ると、薄暗い部屋の中を白い花びらのようなものがふわふわと漂っていた。
「蝶……」
シーナは呆然としながら、同じ言葉を呟いた。
何故、この部屋にこんなものがいるのだろう。
いつから、いたのだろうか。
窓を見ると、そこは僅かに開けたままになっていた。
「窓から入ってきたみたいだな」
それで話を終わらせるつもりだった。
今は、そんなことどうでもいいことだ。
けれどルックはシーナの声など耳に入っていない様子で、いつまでも蝶を目で追っている。
さっきまで虚ろだった瞳は、しっかりと焦点が合い、生気が戻っていた。
「……っ」
シーナは唐突に、激しくルックを突き上げた。
「……っ! あッ、ん、はぁっ…!」
ルックの身体が大きくしなり、蝶を追っていた瞳は再びきつく閉じられる。
悔しかった。
蝶など、どうでもいいではないか。
今は俺を見ていてほしい。
俺だけを感じていてほしい。
貫きながら、ルックの中心を強く握り締める。
動きに合わせて扱きあげると、そこはみるみる解放を求めて脈打った。
「あ、っ…は……や…ぁ……っ…―――!」
唇を噛むルックの身体が痙攣する。
同時にシーナの握り締めていた中心から、白濁した精が放たれた。
どろりとしたそれはルックの胸から腹にかけて飛び散り、すぐに脇を伝ってシーツの上へと零れていく。
びゅっ、びゅっと吹き出すたびにシーナ自身も締め付けられ、やがてシーナも絶頂へと達した。
彼の中へ放出しながら、これほどまでに深く繋がっているのに、シーナは何故か虚しさのようなものを感じていた。
微かな耳鳴りがした。
しかし覚醒するにつれ、それが雨音であることに気づく。
ああ、やっぱり雨が降ったんだなとぼんやり思いながら、シーナは目を開けた。
夜が明けて尚、部屋は薄い灰色をしている。
その部屋の中央に、ルックが立っていた。
昨夜眠ったときのまま、何も身につけていない。
裸で俯いている彼の後ろ姿をしばらく眺めてから、
「……なに、してるの?」
と声を掛けた。
「……死んでる」
掠れた声が返る。
「えっ?」
シーナはベッドから降りて、ルックの隣りに立った。
ルックが見下ろしているその足元には、昨夜見た白い蝶が横たわっていた。
「死んじゃった……のか?」
シーナはしゃがみ込み、蝶に触れてみた。
けれど蝶はぴくりとも動かない。
「どうして逃げられなかったんだろう……」
窓は開けたままだった。
今ではそこから細かな雨が吹き込んで、すぐ傍の床をしっとりと濡らしている。
シーナはルックを見上げた。
ルックは黙ったまま、ただ死んだ蝶だけを見つめている。
「寿命、だったのかな。弱ってたのかもしれない」
シーナはわざと軽い調子で言った。
そうせずにはいられなかった。
そうしなければルックの口から、何かとても嫌な言葉を聞いてしまいそうで―――。
「寿命なんかじゃ……ない」
ルックが否定する。
シーナは耳を塞ぎたくなった。
言うな。
言わなくていい。
けれど無情にも、ルックの言葉は続いた。
「―――ここで、死にたかったんだ」
そう言うと、ルックはくるりと背中を向けて、床の上に落ちていた服を着始めた。
シーナは焦って尋ねる。
「こ、これ、どうするんだ?」
「埋める」
「え。でも外、雨降ってるけど……」
「……」
おろおろするシーナをよそに、ルックはさっさと身支度を整えると、そっと蝶を拾い上げて掌に乗せた。
「待って、俺も行くよ」
シーナも慌てて服を身につける。
そして部屋を出て行こうとするルックの後を、急いで追った。
霧雨に濡れる森の中、一本の木の根元に二人で蝶を埋めた。
手を合わせたりするのだろうかとシーナは思ったが、ルックはただ蝶を埋めただけで、すぐにその場を後にした。
シーナは幾度も、心の中で反芻していた。
―――ここで、死にたかったんだ。
聞いてはいけない言葉を、決して聞きたくなかった言葉を、聞いてしまったような気がした。
だから帰り道、シーナは隣りを歩くルックの手を取った。
一瞬、逃げようとしたその手を、きつく握り締める。
「……汚れてるよ」
「別にいいよ」
指先には土がついていたけれど、そんなことは構わなかった。
そしてルックも、シーナの手を握り返す。
シーナは微笑んだ。
「濡れちゃったな」
「そうだね」
「このまま、風呂にでもいく?」
「うーん……」
考え込んでいるルックの耳元に、シーナが囁いた。
「今の時間なら、俺たちだけかも」
「……だったら、なんなんだよ」
「色々、出来る」
「!!」
ルックはシーナの手を振り払った。
「バカ! このスケベオヤジ!」
「ま、まだオヤジじゃねぇよ!」
怒って足早になるルックの後を追いかける。
ようやくいつもの調子に戻ったルックに、シーナは心底ほっとしていた。
けれど、あの言葉だけが耳に残って離れない。
―――ここで、死にたかったんだ。
不意に泣きたくなって、シーナは頭を振った。
あれは蝶の話だ。
単なるルックの想像だ。
それ以外の意味なんてない。
あるはずがない。
あってほしくない。
シーナはルックを追いかけた。
大丈夫。
彼は目の前にいる。
音も無く、ひっそりと息絶えた白い蝶の姿を、シーナはむりやり脳裏から掻き消した。
- end -
2007.08.21
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