予感


二、三日前までは連日気の遠くなるような寒さが続いていたが、その日は朝からまるで春が訪れたかのような陽気だった。
だから、いつでも何処でも眠れる関口が更によく眠れたことは言うまでもない。
彼は寮の自室で、午前十時を過ぎても未だぬくぬくと幸せそうに布団に包まっていた。
「関口くん。関口」
中禅寺が声を掛けるが、一向に起きようとしない。
呼ぶ声は次第に苛立ちを帯び、中禅寺は関口の身体を大きく揺さぶった。
「おい、関口。いつまで寝ているんだ」
「……う〜ん………」
穴から出てきたばかりの土竜よろしく、眩しさに目が開かない様子で関口は唸る。
それでも相手が同室の中禅寺だということだけは解っているようだ。
「な、に……今日は休み………」
「休みだからっていつまで寝ている気だ。もう十時を過ぎてるぞ」
「えぇ………」
関口は不愉快そうに眉を顰めるだけだ。
学校がある時にはそうでもないのだが、こと休みの日となると関口のだらしなさには一層拍車が掛かる。
寝惚け眼のおかげで、中禅寺の顔がよく見えていないことは関口にとって幸いだった。
その形相を見たら飛び起きずにはいられなかっただろう。
「もう、いい。榎さん達が出かけようと言っているが、行かないんだな? さっきから君も早く起こせと、煩くて敵わない」
「うん……いい……行かない………」
「わかった」
中禅寺が部屋を出ていく気配がして、関口は再び眠りに落ちていった。

「……あれ……?」
関口が漸く覚醒したのは、それから二時間も経ってからのことだった。
目が覚めて最初に飛び込んできたのは、いつものように背中を向けて本を読んでいる中禅寺の姿だった。
「あれ……えっと………」
「なんだ、漸く起きたか」
中禅寺は関口を見ずに声をかける。
「まったく君には呆れるよ。もう昼だ」
「そうみたいだね……それより君、何処かに出かけたんじゃなかったのかい?」
「ほぅ。あんな状態でも僕の言ったことを覚えてるのだな」
「うん、榎さん達が何とか、って……」
「断ったさ」
「ふぅん……」
関口は布団の上に座ったまま窓の外に目をやった。
窓はほんの少し開いていたが、ちっとも寒くない。
枯れた木々も、暖かな陽射しの中で少しばかり生き生きとして見えた。
「あぁ……いい天気だなぁ……」
素直に口にした言葉に、中禅寺が意地悪く返す。
「そうだ。こんないい天気の日に布団に包まっていたら発酵するに違いないね」
「発酵、って……気持ちの悪いことを言うなよ」
「いや。発酵するさ。そのうち納豆のように糸を引くぞ」
「自分だって部屋に篭って本を読んでいるんだ。僕と変わらないじゃないか」
「一緒にしないでくれたまえ。僕は自分の意志を持って読書をしているのだ。君みたいにだらしないのとは訳が違う」
「う……」
反論の余地が無い。
こういう時は話をすりかえるのが関口の常套手段だった。
窓辺に近づき大きく開けると、心地好い風が吹き込んでくる。
少し冷たさもあったが、昨日とは比べ物にならない暖かさだ。
晴れた日が余り好きではない関口だったが、かと言って身を切るような寒さも辛くて好きになれない。
まったく我侭な話である。
「散歩ぐらいなら行っても良かったかなぁ」
「行ってきたらいいじゃないか」
「うん……でも、一人でぶらぶらしてもつまらないし」
「……それは僕を誘っているのかね?」
「え、いや、別にそういうわけじゃないけど」
本当にそういうつもりはなかった。
そもそも中禅寺が散歩などに誘って、乗ってくるはずもないと解っていた。
しかし中禅寺の返した応えは、関口を酷く驚かせた。
「行ってもいいぜ」
「え?」
「だから、散歩だよ。君がつきあってほしいと言うなら僕は構わないが」
「え、えっ?」
「別に行きたくないなら、それでもいいさ」
「いや、あの……」
こんな貴重な申し出を断るのは、如何にも勿体無い気がした。
これを逃したら、恐らく金輪際中禅寺と散歩などという珍奇な体験は出来そうにない。
結局、関口は中禅寺と共に外に出ることにした。

とは言え、近くに散歩に相応しいような場所も無く。
結局は寮の裏庭辺りをうろつくこととなった。
だがここは陽気のいい時に昼食を取ったり、(不謹慎ではあるが)授業をさぼったりする、学生達の気に入りの場所ではあった。
中禅寺は適当なところで芝の上に腰を下ろした。
関口は関口で、普段無いような状況に嬉しいようなくすぐったいような気持ちで中禅寺の隣りに座った。
顔を上げてみると、頬いっぱいに太陽が降り注ぐ。
関口の気持ち良さそうな表情を見て、中禅寺はにやりと笑った。
「君には少し、光合成が必要だな」
「人を植物みたいに言わないでくれよ」
「そういえば榎さんに隠花植物だと言われていたなぁ。アレにしては上手い言い方だ」
「酷いなぁ」
関口は唇を尖らせたが、やはり何処か楽しげではあった。
「……あれ? 中禅寺……」
「うん?」
「君、本はどうしたんだい? 忘れたのか?」
「忘れたんじゃない。持ってこなかっただけだ」
「ええっ?!」
余りにも驚く関口を中禅寺は睨み付けた。
「なんだ、そんなに驚くことはないだろう。それとも僕は常に本を携帯していなければいけない決まりでもあるのか」
「だって、君が本を読んでいない事なんて滅多にないじゃないか」
「煩いなぁ。君だってたまには僕に起こされなくとも起きることがあるだろう。それと同じだよ。 勿論、そんなことは僕の覚えている限り、一、二度しかないけれどね」
「一、二度ってことはないだろう。少なくとも五回はあるよ」
「たいして変わらないじゃないか」
そう言って笑う中禅寺の顔を、関口はまじまじと見つめる。
その訝しげな視線のせいで、笑顔は再びいつもの仏頂面に戻ってしまった。
「……僕の顔に何かついているのか?」
「えっと……」
本当を言えば、関口は終始戸惑っていた。
今日の中禅寺は何か様子が変だ。
一緒に散歩をしたり、本を読まなかったり。
どうもいつもよりも優しく感じて仕方が無い。
しかしそんなことを言えば、この心地好い時間を台無しにしてしまいそうな気がした。
「い、いや。何でもないよ」
関口は不審を口にすることを止め、このまま中禅寺の好意に甘えることにした。

他愛の無い話をひとしきりした後、中禅寺の「腹が減ったな」の一言で寮に戻ることとなった。
食堂で飯を食い、部屋に戻ってからはいつも通りの時間が流れた。
それでも矢張り、何処か違う休日だったように関口は感じていた。

「今、帰ったぞ!!!」
夕方になって戻った榎木津は、高らかに叫びながら二人の部屋に乱入してきた。
「わざわざ報告に来てくれなくて結構ですよ。やかましい」
中禅寺が冷たく言い放つが、榎木津は全く気にする様子もない。
「何を言っている、僕の誘いを断っておいて! おい、関。楽しい一日だったか?」
榎木津は片腕でぐいぐい関口の首を締めながら尋ねるので、関口は答えようにも答えられなかった。
「おい、どうなんだ? この本馬鹿から何か祝いの品ぐらい貰ったのか? 貰ったなら僕にも見せろ。 今すぐ見せろ。でも本なら見せなくていいぞ」
「ぐ……くる、しい………」
「うーん……まさかな! こいつがそんな気の利く真似をするはずがない!  どうなんだ、中禅寺。わざわざ寮に残ってまで何をしてたんだ?」
榎木津がじぃっと中禅寺を見る。
中禅寺は仏頂面で黙っている。
暫くすると榎木津は関口の首から腕を離し、そのかわり腹を抱えて笑い出した。
「わははははは!!! お前、馬鹿だな!? 関は気づいていないじゃないか!」
「放っておいてください。いいんです」
「そうか、そうか……くくく………つくづくお前という奴は報われない男だなぁ」
「ごほっ……な、なんのことです、榎さん……」
涙目で尋ねる関口に、榎木津は顔を近づけた。
「おい、猿君。今日は何の日だ?」
「榎さん、余計な事は言わないでください」
「え? 今日?」
「そうだ。よぉっく思い出してみろ? 猿と言えども脳味噌ぐらいあるだろう」
関口は脳内回路をフル回転して考える。
今日……今日は×月×日……今日は………。
「あ」
関口が短く声を上げた途端、中禅寺はばつの悪そうな顔をした。
「今日、今日は……」
「……」
「僕の誕生日だ……」
中禅寺がはぁーっと溜め息を吐く。
榎木津はゲラゲラと笑う。
「何の為に、こいつはここに残ったと思ってるんだ? なのに、本人が気づいてないんじゃ意味が無いじゃないか。お前達は揃いも揃って本当に馬鹿だ!」
榎木津はこんなところにいたら馬鹿がうつると言って、それでも笑い続けながら部屋を出ていった。

これで中禅寺がいつもと違う理由が解った。
まさか彼が自分の誕生日を覚えていてくれたとは思わなかった。
関口は恐る恐るといった風に、中禅寺の側に膝を進めた。
「ご、ごめんよ……そんな気を遣ってくれていたなんて全然気づかなくて……」
「……別に気を遣ったわけじゃあない」
「でも……」
中禅寺は読んでいた本を開いたまま、顔だけを関口の方に向けた。
「僕がしたくてしたことだ。君が気に病むことじゃない」
突き放すような言葉だったけれど、それは返って嬉しいことでもあった。
中禅寺が自分の意志で、そうしてくれたことが。
「うん……ありがとう………」
小さな声で礼を言うと、中禅寺は険しい顔で再び頁に目を落とした。
それが照れ隠しであることは、鈍感な関口の目にも明らかだった。

どんな高価な品物よりも、共に過ごす日々が何よりの宝物なのだと。
そしてその相手が誰であってほしいのか。
関口が気づくまでには、まだ少し時間がかかりそうだった。

春は、すぐそこである。

- end -

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