夜話


夜、部屋で真っ白な原稿用紙を前に無為な時間を過ごしている時だった。
「あれ……」
部屋の壁にかけられた日捲りが目に飛び込んでくる。
八月×日。
確か今日は……。
「きょ、今日は八月×日かい?」
部屋を出て、居間にいる雪絵に解りきっていることを尋ねる。
雪絵は苦笑いしながら答えた。
「ええ、そうですよ。どうしたんですか、いったい?」
「あぁ……」
私は二、三日前に京極堂の家で聞いたことを思い出していた。
×日は千鶴子さんが用事で家を留守にするという。
確か、帰るのは翌日の午後になるという話だった。
(行けば良かった……)
三日と日を空けず京極堂へ通っているくせに、今日に限って行かなかった自分が恨めしい。
別に千鶴子さんを厭うている訳ではない。
しかし私にとって京極堂と二人きりで過ごせる時間というのは、何よりも大切で魅力的なものだったのだ。
思い始めると落ち着かない。
京極堂に会いたい、という気持ちに囚われる。

会いたい―――。

「あ、あの、雪絵……ちょっと京極堂のところへ行ってくるよ……」
「えっ、こんな時間にですか?」
雪絵が目を丸くして驚く。
当然だ。
私は思わず目を逸らした。
「う、うん。ちょっと急に用事を思い出して……」
「明日ではいけませんの?」
「うん、どうしても今日中に済ませたいんだ」
「まぁ……」
雪絵は小首を傾げて私と時計を交互に見る。
まるで親に嘘をついて遊びに行く子供みたいに、私は後ろめたさを隠せずにいる。
「気をつけて行ってくださいね」
心配そうにしながらも笑顔で言ってくれた雪絵に心の中で詫びながら、私は家を出た。

私は何を突っ走っているのだろう。
馬鹿なことをしていると解っているのに、気持ちが止められない。
早く会いたくて自然と早足になる。
真っ暗な坂は終わりが見えずに、いつもよりもずっと長く感じられた。
小走りに坂を駆け上がり、いざ京極堂の家の前まで来ると怯んでしまった。
この時間ならまだ起きているに違いない。
けれど、彼は何と言うだろう。
追い返されたりしないだろうか。
「来い」と言われたわけじゃない。
千鶴子さんが留守にする、という話は、何か別の話の流れの中で耳にしただけのことだ。
玄関を叩くことが躊躇われて、私は庭の方に回った。
ちょっと覗いてみて、大丈夫そうだったら声をかけようと思った。
しかし、庭に回っても家の中の様子は分からない。
どうしようか。
ここから声をかけようか。
それとも、もう一度玄関に……。
愚図愚図していると、足元に何か生暖かい気配を感じて、私は飛び上がった。
「ひっ…!」
「……ニャア」
なんのことはない。
それは、京極堂が飼っている猫だった。
「なんだ、石榴か……」
ほっとして石榴を抱き上げると、ガラガラと雨戸が開いた。
暗闇に慣れた目に、部屋の灯りが眩しくて目を細める。
「……関口くん?」
京極堂の声が響く。
石榴は私の腕を擦り抜けて、飼い主の元へと行ってしまった。
「あ、あの……」
京極堂の顔がまともに見られない。
私は俯いてもごもごと口を動かすのが精一杯だった。
けれど、京極堂はまったくいつもの調子で私を詰った。
「そんなところで泥棒みたいに何をやっているんだ。うちには盗んで得になるようなものは何も無いぜ」
「ちっ、違うよ、ただ……」
「仕様の無い奴だなぁ。いいから早く、そこから上がってきたまえ。今日は特別に許してやるよ」
「う、うん……」

縁側から座敷に上がる。
ちゃんと閉めてくれよ、と京極堂に凄まれ、私は彼に聞こえないよう小声で分かってるよ、と呟いた。
京極堂は恐らく私が来るまでそうしていたのであろう、座卓の上に広げられていた本の頁に再び目を走らせていた。
見るからに入れてから随分時間が経っていると思われる湯呑が一つ。
灰皿にたまった煙草。
この静かな部屋の中で、彼はほとんど動くことなく過ごしていたのだろう。
私はいつもの場所に座り、本を読み耽る京極堂を唯、ぼんやりと眺めた。
仏頂面で愛想が無くて、酷いことばかり言う男。
ふと、私は何故こんな男が好きなのだろうかと考える。
好き―――。
ほとんど何にも確信の持てない私だが、それだけは分かっている。
私はこの男が好きなのだ。
「……で、どうして君はこんな時間にやってくるのだね?」
本から目を上げないまま、突然言葉を発する。
その声の響きで、私にはすぐに分かった。
京極堂は怒っているのだ。
「あ、いや……その………」
「いや、そのでは分からないな。今、何時だと思ってるんだ。僕はそろそろ寝ようと思っていたんだぞ」
「悪かったよ……いや、悪いと思ってるよ………」
矢張り、来るべきではなかったのだ。
そう思って私が腰を上げかけると、京極堂はふぅと溜め息を付いて本を閉じた。
そして、ぎろりと私を睨み付ける。
「今日は僕が一人だと知っていたはずだろう。いったい何時間待たせれば気が済むんだね」
「え、えっ?」
「散々人の家に入り浸っておきながら、こういう時に限って君は来ない。それは僕に対する嫌がらせなのか?」
信じられなかった。
京極堂は私が来たことに怒っているのではない。
私が“来なかった”ことに怒っているのだ。
「ち、違うよ! そうじゃなくて、その、たまたま忘れていて……」
「ああ、そうだろうね。君の忘れっぽさはよく知っているよ。 忘れることにかけては君の右に出る者はいないだろうな。賞状をやってもいいぐらいだ」
「なんだい、それは……」
私は思わず苦笑する。
しかし京極堂は更に表情を険しくしてしまった。
「だいたい人の記憶というものはだな………」
それから京極堂は、いつものように延々と薀蓄を語り始めた。
この男の薀蓄を聞いて嬉しいと思うなど、私も大概どうかしている。

電話をくれればいいじゃないか、とか。
嬉しいのなら分かるようにしてくれ、とか。
そんな恨み言など、どうでも良くなって。

深まってゆく夜の中。

私はいつまでも、天邪鬼な恋人の話に耳を傾けていた。

- end -

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