薄氷


例の如く、私が目を覚ましたのは昼も過ぎた時刻だったらしい。
冷え切っていたはずの部屋の空気も僅かに温み出していて、私は漸く布団から這い出る気になった。
顔を洗おうと共同の流し場へ向かう。
目地が黴で埋まってしまった四角いそこに、小さめの桶が置きっぱなしになっていた。
夕べは余程寒かったのだろう。
残っていた水の表面にうっすらと氷が張っている。
正しく言えば張っていた形跡が残っている、だ。
目を凝らさなければ分からないほどの薄いその欠片を、私は軽く指で突ついた。
氷はゆら、と揺れた。

外出する気になったのは、勿論空が曇っていたからだ。
ただでさえ猫背の私には、寒くて縮こまっているように見える方がまだ都合がいい。
油土塀に目もくれず眩暈坂を昇りきると、そこには私の目指す中禅寺の家があった。
「君もつくづくタイミングの悪い男だな」
どうせいつ訪れても文句を言われるに違いないのだが、今日ばかりは本当に来るときを間違えたかもしれない。
中禅寺は自室の本棚を整理中であった。
私から見れば彼の本棚は常にこれ以上整理のしようがないほどに片付けられているように見えるのだが、 彼には彼なりの拘りがあるのだろう。
ふと、彼は自分の脳に刻まれた記憶さえも、 こうして時々取り出してみてはそれぞれを関連付けたり並べ直したりしているのではないかと思った。
そうでなければあの記憶力は常人とは思えない。
「悪いが何にもおもてなしは出来ないぜ。見ての通り、忙しいんだ」
中禅寺は手を止めずに言う。
私はうん、と返事をしてそのまま中禅寺の後姿を眺めた。
思えば知り合ってからいつも、私は彼の背中ばかり見ているような気がする。
歩くのが速いからとか私の行動が遅いからだとか色々原因はあるのだろうけれど、一番の理由は好きだからだろう。
彼が背中を見せているときというのは、彼が何かに没頭しているときだ。
邪魔をするなと周囲を拒絶するようなその背中が、私は好きなのだと思う。
「お茶なら勝手に淹れて飲んでも構わないが」
「いや、いいよ」
「なんだ、珍しく遠慮深いじゃないか」
「そうじゃなくて。どうせいつだって君はもてなしてなどくれないじゃないか。だから構わないよ」
「何を言ってるんだ。なら、いつも出前の蕎麦を食って帰るアレは誰なんだ。猿の妖怪か?」
「そうかもしれないね。君のお気に入りの本から出てきたのだ。余り愛着を持つと、物にも魂が宿るらしいから」
「ふん。君には二度と蕎麦を奢らないことにするよ」
私は側に積まれた本の山から一冊を取り出し、ぱらぱらと頁を捲った。
何やら英吉利辺りの寓話について書かれた本のようだったが、文字が目に映るだけで頭の中までは入ってこない。
私は諦めてそれを閉じ、再び山に戻した。
「ねぇ、中禅寺」
こういう時に話し掛けても返事が無いのは分かっていた。
なので私は半分独り言のような気持ちで喋った。
「卒業後の話なんだけどね、大学の研究室から、今やっている研究を続けないかと言われてるんだ」
別に私は卒業後の進路を相談したかったわけじゃない。
わけじゃないのだが、他に話題が見つからなかっただけだ。
中禅寺は案の定、反応が無い。
「別に乗り気でも嫌でもないんだけどね。他に出来るようなこともなさそうだし、それもいいかなと思ってる」
中禅寺は手にしていた本の表紙を軽く叩いた。
薄い埃が散った。
なんとなく、自分が何処にいるのか分らなくなってくる。
「僕は結婚するぜ」
「え?」
突然話が変わったので、私は面食らった。
いや、変わってなどいなかったのだ。
卒業したらどうするかという話をしていたのだから。
しかし、私には彼が何を言っているのかすぐには分からなかった。
冗談だろう、と言おうとしたのだが、彼がこの類の冗談を言うような人間では無いということぐらい私には良く分かっている。
結局私は何も反応することが出来ずに、ただぽかんと彼の後姿を眺めるばかりであった。
彼は私に背を向けたまま、機械人形のように黙々と同じ作業を続けている。
距離感が、狂った。

なんだ、そういうことか―――。

二つの重なって見えた物が、眺める方向を変えてみたら全く離れて存在している物だったりする。
そういうことのような気がした。
私と中禅寺は誰よりも近くにいるのだとばかり思っていたのだが、 どうやらそれは私の勘違いだったようだ。
中禅寺は遠く―――遥か遠くにいたのだ。
そう悟った瞬間、何故かふうっと意識が軽くなった。
自分は端からここにいなかったのかもしれない。
その証拠に彼はさっきから私を見ない。
場所や形の認識が曖昧になってゆく。
「……中禅寺」
ここで喋っているのは誰だろうか。
誰でもいい。
どうせ届きやしないのだから。
透明で、良く見なければあるのか無いのかも分からないようなものだ。
いつか溶けて無くなるものだ。
私に背を向けていた彼がゆっくりと振り返る。
彼に私は見えているのだろうか。
いや、見えているはずがない。
そんなわけがない。
「関口君……やめたまえ」
君は誰に話し掛けているのだろう。
私ではない。
私のはずがない。
何をやめろと?
中禅寺。
僕は君を。
「言うな」
僕は、君を。
「関口―――!」

彼の手からバサバサと本が落ちた。
そして代わりに彼の両手は私の腕を強く掴んでいた。
「それ以上、言うな」
「……」
私は何を言おうとしていたのだろうか。
中禅寺は項垂れていて、どんな顔をしているのか分からない。
私は口を半開きにしたまま、ただ彼の旋毛の辺りを眺めていた。

ぼんやりと、今朝流し場で見たあの薄氷を思い出す。
今頃はもう、溶けて無くなってしまっているだろう。
薄くて脆い、あの冷ややかな切っ先は。

- end -

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