黄昏
今日も日が暮れる。
全身に染み付いてしまいそうなほどの深い橙色が、くすんだ室内を隙間無く染めてゆく。
私は窓辺に佇み、燃える空を見つめた。
このまま永遠に刻が止まってしまうのではないかと思う。
夜も、朝も、昼も訪れない、黄昏時のまま。
そして今この時だけが、私の居るべき本当の世界なのかもしれないとさえ思う。
常にそんな気がしていた。
私が見ている世界は、全て私の妄想の産物なのではないかと。
風景も、建物も、私を取り囲む人々も、全て私の脳が作り出したまやかしの世界なのではないかと。
本当の私はあの癲狂院の一室で、誰も居るはずのない虚空に向かってぶつぶつと独り言を言ったり、
滑稽な姿で歩き回ったりしているだけなのではないだろうかと。
そして私は今、ほんの少し安堵している。
妄想であろうと現実であろうと、大差無い光景が目の前にあるからだ。
この見知らぬ場所にやってきてから、何人もの人間がこの部屋を出入りしている。
医者、刑事、そして妻。
皆、口々に色々なことを私に訴えたり、問いかけたりしてくる。
体の具合はどうだと心配顔で尋ねてきたり、お前は誰も殺していないのだと真剣に語りかけてきたり。
しかし、そんなことは全てどうでも良かった。
医者が本当に医者なのか、妻が本当に妻なのか、
何を聞かされようと、何を見せられようと、それが嘘か真なのか私には判断出来ないのだから。
目に映るものも、耳に入る音も、何もかもが信じられない。
もしかしたらこの私さえ、もうこの世にはいないのかもしれないとさえ思える。
だから私は、待っていた。
死神がやってきて、私を本当に私の居るべき世界へ連れていってくれるのだけを待っていたのだ。
日が暮れる。
今日も死神はやってこないのだろうか。
私が落胆しかけていると、不意に廊下を歩く無機質な足音が聞こえてきた。
期待を抱きながら、扉を見つめる。
足音は私の部屋の前で止まり、やがてゆっくりと扉が開いた。
そこには全身黒尽くめの男が、恐ろしい形相で立っていた。
ああ、ようやく来てくれたのだね。
私は嬉しさの余り、微笑んだかもしれない。
「―――君」
死神が何かを呟いた。
呪文だろうか。
私は近づいてくる彼の前で冷たい床に跪き、頭を垂れた。
そして鎌が振り下ろされるのを待った。
「―――君」
しかし望んでいた事態はいつまでも訪れず、死神はまた同じ言葉を呟いた。
言い残すことなど何も無い、早くしてくれと思いながら、私は顔を上げた。
驚いた。
私を見下ろしている死神が、とても辛そうな表情をしていたからだ。
死神でも人を殺すのは辛いのだろうか。
そうか。
そうだったのか。
そんな風に考えたことはなかった。
だとしたらそれは、とても気の毒なことだ。
私はなんとなく死神が哀れになって、思わず彼の頬に手を伸ばしていた。
「……君は悪くないよ」
これは私が望んだことだ。
しかも今の私は、既に死んでいるも同然なのだから。
しかし死神は私の前に跪くと、ますます辛そうに眉間の皺を深くした。
どうやら慰めにはならなかったらしい。
いつもこうだ。
言葉を商売としている癖に、自分の考えを人に上手く伝えることが出来ない。
私は悲しくなった。
やがて彼は私の手を乾いた掌で包み込み、自分の頬に強く押し当てた。
そして目を閉じ、微かに首を振る。
何がそんなにも辛いのだろう、悲しいのだろう。
私には分からない。
私はずっと彼が来てくれるのを待ち望んでいたというのに。
「何故……」
声に出すつもりのなかった言葉が、口をついて出た。
彼は私の手を離すと、そのまま両手を広げて私を抱き寄せた。
夕暮れの色は遮られ、私は戸惑いながらも、その腕の中で目を閉じた。
なんと優しい腕なのだろう。
私はこの腕の暖かさを知っているような気がする。
ただ背に廻されただけの腕に、優しさと懐かしさを感じる。
「……関口君」
何度目かの呟き。
その声と温もりが、私に思い出させる。
それは私の名だ。
ここを訪れた人達は皆、私をそう呼んでいた。
それは私の名だ。
私は関口巽。
そして今、私を抱いているのは―――。
「……京極堂」
顔を上げると、京極堂は半ば呆れたような顔で苦笑した。
学生時代からの、私の友人。
否、友人以上の存在だ。
彼は死神などではない。
寧ろ彼は私に、正反対のことばかり言ってきたのだ。
彼はいつも私に生きることを強いてきた。
私が彼岸に行くことを、決して許さなかった。
ならば私は死神に迎えに来てもらうことではなく、
彼に此岸へと連れ戻してもらうことを待ち望んでいたのだろうか。
だとしたら、酷い悪足掻きだ。
この期に及んで、私はまだ此処に居たいと思っているらしい。
それはきっと、彼が居るからだ。
京極堂は腕を解くと、私の頭をくしゃりと撫でた。
「……元気そうじゃないか」
その声を聞いて、私はぼやけていた私自身の輪郭が、はっきりとしていくのを感じた。
「ああ……大丈夫だよ」
「そうか」
「心配してくれたのかい?」
「本当に心配だったら、もっと早く来ているさ」
「それもそうだな」
「存外、君はしぶといから、端から心配などしちゃいない」
「……ひどい言い様だな」
「来づらかっただけさ」
私は、はっとして京極堂の顔を見つめた。
彼はばつの悪そうな苦笑いを一瞬だけ浮かべると、すぐに何事も無かったかのような顔で立ち上がった。
そして「じゃあ、僕は帰るぜ」と、素っ気無く言い放つ。
「も、もう帰るのかい?」
「用事は済んだからな」
「……」
本当は来たくなかったのだろう。
けれど自分が来なければ、私が私を再形成出来ないであろうことも知っていたのだ。
だからこうしてやって来てくれたのは、彼の最大限の優しさだ。
そしてさっき彼を死神だと思って言った言葉は、あながち間違いではなかった。
私は彼にずっとそれを伝えたいと思っていたのだから。
悪いのは彼ではない。
私がもう少ししっかりしていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのだ。
だから彼にそれを伝えられて、私は満足していた。
「……もう、来ないだろう?」
帰ろうとしている京極堂の背中に問い掛ける。
振り返った彼は、いつも通りの仏頂面に戻っていた。
「当たり前だ。こんなところまで何度も来られるほど、僕は暇じゃない」
「うん……じゃあ、ありがとう」
私は笑えていたと思う。
彼は病室の扉を開けながら、振り返らずに言った。
「……早く、戻ってきたまえ」
扉が閉まる。
部屋に静寂が戻る。
気がつくと、窓の外には夕闇が迫っていた。
黄昏は終わり、夜が訪れようとしている。
私はまだ疑っていた。
彼の存在もまた、私の妄想の産物なのではないかと。
だが、それでも良かった。
目の前に広がる全てがまやかしだとしても、この世界には彼がいる。
彼の居る世界こそが、私にとっては真実だ。
だから私は、もう暫く此処に残ろうと思う。
少なくとも、この世界が消えてしまうまでは。
- end -
2005.10.26
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