鈴の音


関口が京極堂宅を訪れたのは、既に陽も暮れ始めた時刻だった。
座敷に入ってくるなり鬱々とした長い溜息を吐かれ、京極堂はうんざりした面持ちで彼を迎えた。
「なんだい、その溜息は。まさか、また厄介事を持ってきたんじゃないだろうな?  先に断っておくが、僕はこのところ忙しいんだ。巻き込まれるのはご免だぜ」
「ぼ、僕はまだ何も言っていないじゃないか」
心外だと言わんばかりに目を見開き、関口は額に浮かんでいる汗の玉を拭った。
「別に厄介事などないよ。ただ今日は暑かったから、疲れてしまって」
「……あのね、君。疲れたのなら、さっさと家に帰って休みたまえ。何故、わざわざ此処に来るのだね」
「いいじゃないか、別に。少し休んだら、すぐに帰るよ」
「僕の家は休憩所じゃあない」
「分かってる。それにしても外は暑かったよ」
確かにここ数日は漸く秋の気配がしてきたというのに、今日は再び猛暑の日を思わせるような暑さだった。
しかし関口の場合は一年中覇気が無いのが常なのだから、多少の気温差など言い訳にしか過ぎない。
そう指摘してやろうかと考えて、京極堂は面倒臭さに鼻を鳴らすだけに留まった。
「何故、出掛ける用事がある日に限って、こう暑くなるのだろう」
関口はぼやきながら、座布団を引っ張ってきて腰を下ろす。
「それは勿論、君の日頃の行いが悪いからだ」
「言うと思った。お茶、貰うよ」
「出涸らしだぜ」
「知ってる」
「―――?」
そのとき京極堂が訝しげに顔を上げたので、関口は急須を手にしたまま動きを止めた。
「……なに?」
「さっきから君が動くたび、鈴の音がするんだが」
「ああ、これだ」
関口は急須を置いて、尻のポケットをごそごそと探る。
そしてそこから黒い財布を取り出すと、京極堂の眼前で揺らしてみせた。
金具の部分に括り付けられた紐の先には、小さな丸い銀色の鈴が二つぶら下がっている。
それが持ち主には到底似つかわしくない、可愛らしい音を立てていた。
「僕がいつもズボンのポケットに、直接小銭を入れてるのを見兼ねたらしくてね。雪絵がくれたんだ」
「なるほどね」
紐の赤い色といい、鈴をつけるという発想といい、とても関口が思いつきそうにはない代物だ。
京極堂は酷く納得した。
「どうせ君のことだから、すぐに財布ごと失くしてしまうだろうと思ったんだな。 鈴がついていれば流石の君も気づくかもしれない。さすがは雪絵さんだ。よく分かっているじゃあないか」
「う、煩いな。僕はそんなに」
「失くし物はしないとでも言いたいのかい? それは嘘だな。 ついこの間だって、既に持っているはずの本をまた買っていったじゃないか。 どうせ何処かに仕舞って、見つけられずにいるのだろう」
「それは」
そう言ったきり、関口は口ごもる。
どうやら図星のようだ。
「学生時代だって、君の探し物には散々付き合わされたぜ。まあ、君の場合、失くすことが多いと言うよりも、 物を探すという行為が人並み外れて下手糞だと言ったほうが正しいのだろうが」
「分かった、分かった。もう、いいよ」
関口は降参して、諸手を挙げた。
「僕はよく物を失くすよ。探すのも下手だ。これでいいだろう?」
「ああ、そうだ。少しは反省したまえ」
関口は肩を竦め、拗ねた顔で財布を再びポケットに押し込んだ。
ちりりと鳴る鈴の音。
京極堂はそれを、何処か耳障りなものに感じていた。
―――まるで猫だな。
鈴を付けられた飼い猫のようだと思った。
それはその猫が誰かに所有されているという証でもある。
小さな鈴の音によって思い知らされる、関口を所有している者の存在。
遠く離れた場所に居ながら、まるで此処に居るかのようにそれを主張してくる音。
すると、この不快感はなんだ?
京極堂は己に問い掛ける。
「……馬鹿馬鹿しい」
「え? なに?」
「いや、なんでもない。こっちの話だ」
本当に馬鹿げている。
これが嫉妬などという大層なものではないにしろ、少なくとも不快には感じている自分がいるのだ。
自分の中にまだそんな感情が残っていたことは、驚きでもあり、同時に失望すべきことでもあった。
確かに学生時代にはもっと些細なことでも、明らかな嫉妬を感じていたような気がする。
それは関口が誰かの冗談に笑顔を見せたとか、課題の解らない箇所を自分以外の人間に訊いたとか、 今思えば本当にくだらないことで面白くない気持ちになったものだ。
しかしそれも若い頃のことだからこそ、笑い話にもなる。
今になってこんな事で、こんな風に思うなど―――嫉妬するなど、不毛過ぎるではないか。
「京極堂……どうしたんだい?」
それまで茶を啜りながら、黙って京極堂を見つめていた関口が声を掛ける。
その声が、京極堂を思考の海から掬い上げた。
「……どうもしないさ」
目の前にいる関口は、あの頃と少しも変わってはいない。
けれど全ては変わってしまったのだ。
そしてこれから先、変わることはもうないだろう。
京極堂の表情に、関口は心配そうに首を傾げる。
「突然黙り込むから、気になるじゃないか」
「何もないよ。それよりも矢張り、早く帰った方がいい。今日は暑かったが、陽は随分と短くなっているからね。 暗くなると、君は転ぶ」
「転ばないよ。人を子供みたいに言わないでくれ」
しかし関口は時計を見ると、出しかけていた煙草を仕舞い、億劫そうに立ち上がった。
「そんなに言うのなら、もう帰るよ」
「ああ。そうしたまえ」
京極堂は関口を見上げる。
ポケットから零れた鈴が、ちりりと鳴る。
「……関口君」
「うん?」
「財布……失くさないようにしたまえよ」
「分かってるよ」
京極堂は座敷に残ったまま、再び読み止しの本に視線を落とした。
玄関まで見送る気にはならなかった。
鈴の音が、関口の歩に合わせて鳴っているのが聴こえる。
それは小さく小さくなって、やがて消えた。

- end -

2004.10.04


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