砂の舟


雪が降っていた。

その日は昼間から雲が重く垂れ込めていて、空は一面濃い灰色に覆われていた。
短い日が暮れて夜の帳が下りる頃、その重みに耐え切れ無くなったように、白い雪が舞い降り始めた。

とても、寒かった。
ラジオは今日がその年一番の寒さを記録したことを告げていた。
私達は特にすることも無く、この寒さをやり過ごすため、早々に布団に潜り込んだ。
粗末な学生寮の部屋には、常に何処からか隙間風が吹き込んでいたし、 ろくな暖房も無かったから、夜ともなれば凍えるような寒さだった。
薄い布団に包まり、手足を擦り付けてなんとか暖を取ろうとするが、 そんなことでどうこうなるような冷気ではない。
寒さになかなか寝付けなかった私達は、ぽつぽつと言葉を交わしながら夜を過ごしていた。

どちらが言い出したのかは、覚えていない。

ただ、二人一つの布団で眠った方が暖かいのではないかと思ったのだ。

今そう言ってしまうと、何だか妙なことを想像してしまう者も多いかと思うが、その時は少しも不自然なことに思えなかったのである。



いつものように京極堂を訪ねた関口は、目にした光景に落胆を隠せなかった。
「お、お邪魔します」
どうせ表から入っても主はいないだろうと思い、今日は声も掛けずにそのまま裏庭へ直接回ったのだが、そこには植木に水を蒔く細君の姿があったのだ。
「あら、関口さん。いらっしゃいませ」
いつ見ても綺麗な人だなぁ、と関口は思う。
決して華やかな美人、というわけではないのだが、楚々とした物腰や表情から落ち着いた色香が漂っていた。

関口は自分の妻を思い浮かべてみた。
出会った頃の彼女には、眩しいほどの明るさと歯切れの良さがあった。
けれど今はどうだろうか。
彼女はそこはかとなく草臥れて見えたし、寂しそうな目をすることも多かった。
それは恐らく、亭主の甲斐性の無さの所為だ。
関口は今すぐ妻に謝りたいような、暗い気持ちになった。
「関口君。いつまでそんなところに突っ立っているつもりだね」
「あ、ああ」
座敷から京極堂に呼ばれ、関口はあたふたと縁側で靴を脱いで上がり込んだ。
京極堂の脇を擦り抜けて、座卓の反対側に行こうとしたとき、彼が小声で言った。
「予定が変わったのだよ」
関口は、そう、とだけ応える。
今日は細君が留守にすると聞いていたのだ。
初めから彼女が居るものと知っていて来るならば、なんとも思わなかっただろう。
けれど居ないと聞いていて、居たというのは少々裏切られた気持ちである。
そこまで考えてから、関口は自分がなんという非道いことを考えているのかと気づいた。
お互い所帯持ちなのだし、妻が家に居るのは当然のことなのだ。
ただでさえ妻達を裏切っておきながら、それは余りにも我侭が過ぎるではないか。
いつから自分はこんな醜い感情に囚われるようになってしまったのだろうか、と関口は落ち込んだ。



私達は、まだ若かった。
あんな時代ではあったけれど、それなりに好奇心や憧れを抱いてもいたし、今さえ楽しければ良いという若者特有の刹那的志向もあった。
私も中禅寺も、周囲から限りなく浮いた存在だった。
中禅寺は男子にしては伸びすぎな髪をして、いつも本ばかり読んでいた。
目にかかる前髪を気にもせず読書に勤しむ彼を見ながら、私はいつもあの前髪は邪魔ではないのだろうかと不思議に思っていた。
一方私は鬱病の一歩手前といった感じで、自ら好んで周囲との関わりを絶っていた。
しかし中禅寺とは寮で相部屋だったこともあり、ある程度は親しくせざるを得なかったのである。
彼と交友を深めるうち、次第に自分が変わってゆくのに気づいた。
彼とだけは、一緒にいるのが嫌だとは思わなくなっていた。
それは彼が、他の学生達とは明らかに違っていたせいだと思う。
暴力的なまでの力強さや男性性を求められていた時代に、彼はまるで病を患っているかのように白く、細かった。
むさ苦しい男連中の中で、私には彼がとても綺麗に見えたのだ。

だから、特別に嫌悪感などは無かった。
私達は一つの布団に、二人で包まることにした。



近くの病院から連絡があったのは、日も暮れかけようとしている頃だった。
掛けてきたのは関口の隣りの家に住む老婦人からで、雪絵から京極堂の家の電話番号を聞いたとのことだった。
まず、慌てる関口と、友人でもある雪絵の状態を心配した千鶴子が付いてゆくと言い出した。
そして表面にこそ出さなかったが、千鶴子と二人で行くのが嫌だったのだろう、関口が京極堂にも同行を頼んだ。
三人が病院に着いたときには雪絵は既に治療を終え、待合室のソファに座っていた。
「あら、中禅寺さんまで」
雪絵は夫である関口よりも、その後ろにいる中禅寺とその細君を見て、驚いたように腰を上げた。
「雪絵! 大丈夫なのかい?」
「ええ、もうすっかり。すみません、ご迷惑をお掛けしまして」
雪絵は中禅寺夫妻に頭を下げた。
その頬には白いガーゼが痛々しく貼り付けられている。
買い物に出ようとしたところを、貧血で倒れたらしい。
その際に下駄箱の角に頬を打ち、ガーゼはその怪我に貼られていたのだ。
たまたま隣りの老婦人が訪ねて来なければ、雪絵はいつまでも玄関口で倒れたままだったろう。
「ごめんよ、雪絵。僕が留守にしていたばっかりに……」
関口は申し訳無く項垂れる。
その姿を見て、雪絵は笑った。
「大丈夫ですよ。それよりも心配かけてごめんなさい。もう、平気ですから」
「雪絵さん、何か入用のことがあったら遠慮無く仰ってね」
「ええ、もう本当に」
関口は雪絵を抱えるようにして頭を下げた。
そんな二人を見て、京極堂は言った。
「関口君。いい機会だから、君も少しは家の中のことをやるんだね。僕のところで無駄な時間を過ごしているより、余程いいだろう」
京極堂の言葉に、雪絵は「それなら怪我をした甲斐もありますわ」などと軽口を叩いて、千鶴子と共に笑った。
関口は京極堂の顔をまともに見ることが出来ず、ただ俯いて黙ったままだった。

これは、罰なのだろうか。
邪な気持ちを抱えて、妻を裏切っていた自分に対する、罰なのだろうか。
関口はそう思わずにはいられなかった。
こんな事はどうしたって有り得ることではある。
例え関口が仕事で留守にしていたとしても、起きる可能性は充分にあることだ。
四六時中、妻の側にいる夫などいやしない。
それでも。
もしも予定通り、千鶴子が留守にしていて。
自分が、恋しい男の腕に抱かれていて。
その間に、妻がもっと大怪我をしていたりしたなら―――。

関口はそれから暫くの間、京極堂に足を運ぶことはなかった。
彼に言われた通り、妻の家事の手伝いをするよう努めていた。
雪絵は「かえって邪魔になります」などと冗談めかして言ってはいたが、まるで出会った頃のような笑顔を絶やす事がなかった。
これが、本来あるべき姿なのだ。
そう頭では理解していながらも、心の奥では、それでも京極堂との不埒な関係を断ち切ることは出来ないだろうという確信もしていた。



そう、私達は若かったのだ。
一つの布団で身を寄せ合いながら、それは確かに気恥ずかしく、けれど妙に秘密めいていて、私は思わずくすくすと笑いを漏らした。
普段は気難しい顔ばかりしている友人も、その時ばかりは表情を和らげていた気がする。
『あったかいね』
『ああ、そうだな』
そんな他愛も無い言葉を交し合いながら、私達は落ち着かなくいつまでも身を捩らせていた。

雪が降り続いていた。
沈み込んだ布団の中から、無理に首だけを捻って窓の外を見た。
真夜中であるにも関わらず、そこには静かな明るさがあった。
積もるだろうか。
いや、きっと積もらないだろう。
雪はそれほど儚く、ふわふわと舞っていた。
暫く眺めた後、戻した視線の先にあったのは、彼の昏い瞳だった。

何一つ、不自然ではなかった。
彼の乾いた唇が私の唇を掠め、通り過ぎた。
―――今のは?
そう問い掛ける間もなく、彼は私の頭を自分の胸に抱え込んだ。
だから私も、それ以上尋ねるのをやめた。
彼に抱き締められるのは少しも嫌ではなかったし、なにより暖かかった。

私は彼の胸にしがみつき、顔を埋めた。
とても、満ち足りた気持ちだった。

目が覚めると、既に彼は部屋にいなかった。
私は震えながら起き上がり、窓の側に立った。
予想通り、雪は積もらなかったらしい。
湿って色を濃くした土や枯葉ばかりが、私の目には映っていた。

何一つ不自然ではなかった出来事が、私の全てを変えてしまったのは、それからだった。



次に関口が京極堂を訪ねたのは、それから三週間も経った頃だった。
いい加減、雪絵もずっと自分にくっついて離れない夫が疎ましくなったのだろうか、関口は追い出されるようにして久し振りに家を出た。
行くところなど、特別ない。
眩暈坂を登りながら、我知らず気が逸るのを、関口は抑えられずにいた。

珍しく、店は開いていた。
主人はいつもの場所に座り、本を読んでいた。
なんとなく声が掛け辛くて、関口はただウロウロと棚を眺めていた。
「……何をしに来たんだ」
漸く京極堂から声をかけられ、関口はほっと息を吐いた。
「い、いや。久し振りだね」
京極堂は関口を睨み付ける。
「客じゃないなら帰ってくれたまえ」
彼のそんな態度はいつものことだった。
だから関口はなんとも思わず、側にあった椅子に腰を下ろした。
「雪絵も、もうだいぶ良くなったよ。あの時は心配かけて済まなかったね」
今日からまた、今まで通りの日々が始まるのだと思っていた。
この後京極堂は店を閉め、自分達は座敷に上がり、他愛も無い論議を繰り広げるのだろう、と。
しかし京極堂の口調は、いつも以上に冷たい響きを持っていた。
「……だからといって、またああいった事が起きないとも限らないだろう。油断して用も無いのにふらふらするものじゃない。帰りたまえ」
京極堂は本を閉じて立ち上がると、入り口の扉に「骨休め」の札を掛けた。
そして半ば呆然としている関口を置いて、店の奥に立ち去ろうとする。
いつもとは違う気配を感じて、関口は焦ったように京極堂を引き止めた。
「ちょっ、ちょっと待ってくれよ。久し振りに来たのにそれはないじゃないか」
「……もう、終わりだ」
―――終わり?
その言葉の意味するところが、関口にはすぐには解らなかった。
終わり、とはどういう意味だろう。
何を終わりにするというのだろう。
冷たい汗が、身体中から吹き出した。
「お、終わりって、君……?」
「言葉通りだよ。もう、お仕舞いにしよう」
「どういうことだい?! どうして、急に……」
そうだ。
どうして急にそんなことを言うんだ。
関口は何がなんだか解らなくなっていた。
しかし京極堂は何処までも冷たく言い放つ。
「急に、じゃない。君だって思っていたはずだ。いつ終わるのだろうかと」
「そ、それは……」
それは確かにそうだ。
こんな関係がいつまでも続くはずがないと解っていた。
先の見えない、底無し沼のようだと。
「……いつも言っているだろう。僕は僕の所為で誰かが傷ついたり死んだりするのは御免なんだ。 そもそも雪絵さんが貧血など起こしたのは、君の稼ぎが悪くてろくな食事を採っていないせいなんじゃないのかい?  君ももう少し自分の仕事に精を出して、奥さんを大事にしてやりたまえ」
「そんな……」
終わりとは、矢張りそういう意味なのか。
私達の関係を終わりにする、と。
「例え君の所為じゃないにしても、今回のことで君も良く解ったはずだ。もう終わりにするべきだと。きっとこれは……良い機会なのだよ」
それも、京極堂の言う通りだった。
今回のことで、関口は自分の過ちを責めた。
それが直接の原因じゃないにしても、何かあった時は真っ先にその所為ではないかと思ってしまう。
常に後ろめたさが付き纏う。
そしてそれは、きっとこれからも変わらない。
この三週間、妻とずっと共に過ごしている間、自分は平静な気持ちでいられたような気がする。
それが普通だったから。
それが正しい状態だったから。
けれど……。
「き、君は……それで、いいのかい……?」
「……」
「だったら……だったら、何故……」
関口はあの日のことを思い出していた。
あの、満ち足りた気持ち。
それを汚してでも手に入れたかったものは、いったいなんだったのだろうか。
共に罪を負うことで、互いを離すまいとしたからではなかったのか。
同じ想いで無かったのなら、どうしてあの時突き放してくれなかったのか。
「だったら、何故……」
もう、あの日に帰ることなど、
「何故、僕を抱いたりしたんだ……っ!」
出来ないというのに―――。



あの夜以来、私は彼に対して特別な感情を抱くようになってしまった。
我知らず目は彼を追い、その一挙一動に心が囚われるようになった。
激しい感情の変化に慣れていない私は、理屈でそれを受け入れようとした。
様々な書物を漁り、それぞれの感情に名前をつけることで平静を保とうとしたのだ。
こんなことはよくある事なのだ。
何一つ不自然ではない。
私は自分を正当化する言葉を探そうと、益々書物にのめり込んでいった。
私達はそれから長いこと、抱き締め合うようなことは一度も無かった。

やがて卒業し、大学へ進んで暫くした頃、私は徴兵された。
何がなんだか解らぬまま戦地へ赴き、戦いを強いられた。
そして幸運なことに、私は生きて帰ることを許されたのだった。
正直、従軍中は彼のことなど考える余裕もなかった。
それは私にとって良いことだった。
私は中禅寺への想いを、若い時期にありがちな、一時的なものとして片付けることが出来たからだ。
そして、だからこそ私は中禅寺に会いに行ったのだ。

彼と数年振りに再会して、私はそこで漸く死というものを実感した。
生きて帰ってきたというのにそんな風に思うなど不思議に思われるかもしれないが、 誰が死んでも可笑しくない状況の中では、生死という概念そのものが麻痺してしまう。
彼を目の前にした時、私は自分が生きていることに初めて感動したのだ。
こうして互いが目の前にいること。
それが既に奇跡的なことであるのだと。

私の確信は脆くも崩れ去った。
彼を目の前にして私が思ったのは、この奇跡を失いたくないということだった。
そして、それは彼も同じだったのだと思う。
何故なら私達はその夜、初めて互いの肌を重ね合ったのだから。



戸を開ける乱暴な音が響いた。
そして、それを制止するような怒声。
座敷の襖が、壊れんばかりの音を立てて開く。
「おい、待て! 礼二郎!」
榎木津は木場が止めるのも聞かず、いつも通り座卓で本を読んでいる京極堂の側に立って彼を見下ろした。
「……京極」
「なんです、やかましい。この家はそう頑丈に出来ていないんでね。もう少し静かに入ってきてもらえませんか」
「こ、の……っ!!!」
榎木津は京極堂の胸倉を掴んで引っ張り上げた。
「おい、やめろっ!!」
木場は慌てて榎木津を後ろから羽交い締めにする。
それでも榎木津は京極堂を離さず、鼻面を突きつけた。
「おい、京極。一発、殴らせろ」
「……構いませんよ。一発と言わず、好きなだけ殴ればいい」
「良く言った!!」
振り上げた拳を、木場の太い腕が掴んだ。
「やめろ!! んなことしても、なんの解決にもなりゃしねぇ!!」
「煩い!! 殴らなきゃ僕の気が済まないんだ!!! いいからお前も殴れ!!!」
「馬鹿野郎!!! いい加減にしやがれ!!! いい加減にしねぇと、お前を殴るぞ!!!」
「……クソッ!!!」
榎木津は京極堂を突き飛ばした。
解放された京極堂は、何事も無かったかのような顔をして、平然と襟元を直している。
その姿が、榎木津には余計に癪に障った。
「お前……」
榎木津は声を震わせていた。
「どうして最後まで責任を持たない!!! あの猿の面倒を見るのはお前だ!! お前が引き受けたのだ!! それをどうして途中で放り出すような真似をした!!!!」
今度は木場も黙ったままだった。
それは榎木津の言うことに、暗黙のうちに同意していることを示していた。
「おい、京極!! 応えろ!!!」
「……」
京極堂は応えなかった。
応えようがなかった。
「……礼二郎。もう、よせ。仕方がねぇだろう」
「………」
そう、仕方が無いことなのだ。
そんなことは誰もが解っている。
榎木津は拳を震わせながら、勢い良く踵を返して座敷を出て行った。
「あ、おい、礼二郎!」
木場はそれを追っていこうとして、黙ったままの京極堂を振り返った。
「……おい、京極」
「……なんです」
「俺もあいつも、てめぇは悪くねぇって解ってる。それは多分……関口も一緒だ」
「……」
木場はそう言って、座敷を出ていった。

「……あなた? どうなすったんです?」
騒ぎが静まったところで、千鶴子が座敷に入ってきた。
「ああ、すまなかったな。なんでもないんだ」
「……関口さん、具合がお悪いんでしょう? 宜しいんですの?」
何も知らぬ妻の言葉に、京極堂は痛みを堪えるような顔をして言った。
「僕に出来ることは……何も無いのだよ」
「……」
これほどまでに辛そうな顔をする夫を、千鶴子は初めて見た。



彼と身体の関係が出来てから、私の中で何かが壊れてしまったのだと思う。
朝になって私の胸の内を占めるものは、ほんの少しの充足感と、ほとんどの虚しさだった。
彼と一つになれば、またあの夜と同じような満ち足りた気持ちになれると思っていたけれど、それは二度と味わうことが出来なかった。
そしてその虚しさを埋めるために、私はどんどん貪欲になっていった。
流され、溺れていくことに気づきながら、私は現実から目を逸らし続けた。

彼が結婚を決めたのは、それから間も無くだった。
私は然程ショックではなかった。
これで踏ん切りがつけられるかもしれない。
終わりに出来るかもしれない。
そう思ったからだった。
彼もそう思っていたのだろう。
事実、彼が結婚して暫くの間、私達は一定の距離を保っていた。
それでも私は彼が遠く離れていくことに耐えられず、再び鬱を併発した。
そして、そんな状態の私の支えとなってくれたのが雪絵だった。

やがて私も結婚を決めた。
今度こそ、今度こそ、終止符を打てるような気がしていた。
けれど、それはまたも間違いだったのだ。
結婚をしたことで、私は返って不安定な状態に陥った。
家計のこと、子供のこと、他者に対して責任を持って生きてゆくという生活が私には重荷だった。
私は結局、再び京極堂に縋ってしまった。
恋人でもなく、家族でもなく、しかし友人という立場は越えてしまった相手。
彼の存在は私の中で、確実に特別な位置を占めてしまっていた。
彼無くしては私自身が有り得ないというような、言葉にするとドラマティックではあるが、それは酷く残酷な事実であった。
誰か無くしては生きられない。
それはとても不幸なことなのである。

結局私達はそれからも、秘密の逢瀬を繰り返したのだった。



京極堂はどう思っていたのだろう。
聡明な彼のことだから、いつでも終わりに出来ると思っていたのかもしれない。
ただ、不安定な私のことを思って、切り出す事が出来なかっただけなのだろう。
終止符を打つのは、きっと彼の方だろうと思ってはいた。
否、寧ろ私はその役目を彼に押し付けていたのだ。
それはいつか必ずやってくる。
その時、私はどうなるだろう。
考えるのが、恐ろしかった。



榎木津は部屋にあった酒という酒を、片っ端から開けてしまった。
「おら! 木場修、飲め!!!」
「へいへい……言われなくても飲んでますよ」
部屋の中には空き瓶がごろごろしている。
それにしてもここには一体どれだけの酒があるのかと不思議に思うほどだった。
勿論、さっきから買い出しに行かされている和寅のおかげでもあるのだが。
榎木津はほとんどラッパ飲みの状態で、次々に酒を煽っている。
「おい、礼二郎。おめぇ、ちょっと飲みすぎだぞ」
「煩い! これが飲まずにいられるか!!!」
「ハァーッ……」
関口の様子が可笑しくなったことを知らされたのは、その日の昼過ぎのことだった。
外回りから戻ってきた益田が偶然京極堂の妹である敦子に会って聞いた話を、これまた、たまたま榎木津のところに来ていた木場も一緒に聞かされた。
「兄さんたら、全然心配じゃなさそうなんですよ。ほんと、冷たいんだから」
敦子はそう言っていたらしい。
その言葉を聞いて、榎木津と木場は二人の間に何かがあったことを悟った。
関口が逮捕されようと、拉致されようと、そんなことは然程心配ではなかったが、京極堂に関係あることなら話は別だ。
関口が一番質の悪い状態に陥るのは、昔から決まって京極堂とのことだけだったからだ。
二人はすぐに関口の元に向かった。

関口はうんともすんとも言わなかった。
ただぼんやりと、正しく魂の抜け殻がそこにはあるだけだった。
妻の雪絵は慣れたもので、そのうち元に戻るだろうと思っているようだったが、榎木津と木場はそうは思わなかった。
今の関口を戻せるのは彼しかいない。
そして、関口をこうしたのも、紛れも無くあの男だろう。
榎木津は怒り心頭に発して、木場の止めるのも聞かず京極堂へと向かったのだった。

「だいたいあいつらは、本当に馬鹿なのだ!!」
榎木津は酒瓶を片手に怒鳴る。
「学生時代からずっとああなのだ! お互い、好きで好きで仕様が無いくせに、我慢ばかりしている! 見ていて本当に苛々する!!」
「そうは言ってもよぉ。仕方ねぇだろうが。男同士なんだから」
「どうしてだ! 男同士が好きあって何が悪い! おい、木場修! 男同士で好きあったら警察に捕まるのか?! 死刑にされるのか?!」
「無茶苦茶なこと言うな! そういう問題じゃねぇだろう!」
「……」
榎木津は突然脱力して、項垂れた。
「くだらない。十年以上も、あいつらは何をやっていたのだ」
「……まぁ、な。けど、まさか思ってもみなかったんじゃねぇか? 十年経っても、てめぇらの気持ちがここまで変わんねぇとはよぉ」
「そこだ!」
榎木津はまた勢い良く顔を上げる。
「最初から信じてないからこういうことになる! あいつらは本の読みすぎで、余計なことばかり考えるからいけない!」
「……俺も、おめぇさんの言う通りだと思うぜ」
木場の殊勝な言葉に、榎木津はまた脱力してしまった。
「……馬鹿な奴らだ」



初めから、解っていたことなのだ。
何度身体を重ねたとしても、あの夜以上に満ち足りた気持ちを味わうことは、二度と無かったのだから。
それでも離れることが出来なかったのは、何故なのだろう。
否、今となってはもう、どうでもいいことだ。

ずっとずっと長い間、砂の舟にのって旅をしてきた。
それはいつか溶け崩れ、跡形も無くなる。
もう、舟を漕ぐ櫂さえも無い。
そもそも私は、何処へ行こうとしていたのだろう?

私はもう何処に行くことも出来ない。
後はただ波の揺れるのにまかせて、漂うだけだ。

雪が降っている。
横たわる私の上に、真っ白な雪が降り積もる。

そうだ。
このまま眠ってしまおう。

私はゆっくりと目を閉じた。

砂の舟は漂い続ける。

次に目を開けたとき、私の前には何が見えるだろうか。



京極堂は、関口が雪絵の力によって此岸に戻ってくることを望んでいた。
関口が雪絵を愛していることは解っていた。
そして雪絵という女性が、如何に関口を愛しているのかも。
ならば、自分ではなく彼女の呼ぶ声に応えて欲しい、と。
そうでなければ、この苦しい関係を終える日はやってこない。
彼に最も必要な心の安息を、自分は与えてやることなど出来ないのだから。

けれど、もしも―――。
もし、万が一にも関口が戻ってこられなかったら。
そしてそんな夫を、妻が見捨てるようなことがあったら。
その時こそ自分は、関口の側にだけ居てやろうと思う。
そして、教えてやろう。
仕様の無い奴だ、と笑いながら。

君の辿り着く場所は確かにあるのだ、と。

- end -

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