君が好き
本当に私は愚鈍なのだ。
中禅寺にもよく言われる。
明日提出しなければならない課題を終えて、私は漸く一息ついた。
ノートを閉じ、筆記具を仕舞う。
それから何気無く、隣りで同じように精を出していた中禅寺に目をやると、驚いたことに彼はまだ課題を終えていなかった。
彼は私よりもずっと独逸語は得意なはずだというのに、その私よりも時間が掛かっているなど、どう考えても可笑しい。
私は彼の様子を、出来るだけ本人に気づかれないよう、そっと観察した。
中禅寺は時折手を止めては、僅かに顔を顰めている。
元々仏頂面な男ではあるが、それとは違う表情だ。
ノートの方に視線を移すと、そこにはいつもの彼らしくもない、弱々しい筆力の文字が並んでいた。
そこで私は漸く気づく。
彼は手が痛いのだ。
その原因に、私は思い当たることがあった。
さっき風呂場で私が足を滑らせたところを、中禅寺が支えてくれた。
おかげで私は尻や頭を打つような目には合わずに済んだのだが、
恐らくその時に彼は手首の辺りを痛めたのだろう。
私を抱えた彼が、かなり無理な体勢になっていたことを記憶している。
確認したわけではないが、それまで全くそんな素振りは無かったのだから、間違いないはずだ。
自分の課題に夢中になって、そんなことにも気づかずにいたなんて、私は矢張り愚か者だ。
「中禅寺……大丈夫かい?」
いたたまれなくって私が声を掛けると、彼は止めていた手を再び動かし始めた。
「なんのことだい」
「手が痛むんだろう? さっき風呂場で痛めたんじゃないのかい?」
「……」
素直に認めないところが彼らしいとさえ思えたが、今はそんなことを言っている場合ではない。
原因が私にあることは明らかなのだから、遠慮せずに打ち明けてくれれば良いのだ。
私は頭を下げた。
「やっぱり……。ごめんよ、僕の所為で。僕に何か、手伝えることはないだろうか?」
「無いよ」
「でも」
「じゃあ、ひとつ頼もう。僕に話しかけないでくれ。それが一番、助かる」
「うっ……」
吐き捨てるように言われて、私は口を噤むしかなかった。
しかしどうしても中禅寺のことが心配で、その場を離れることだけは出来ずにいた。
すると中禅寺は、そんな私を睨みつける。
「……そんなにじっと見られていると、気が散るよ。頼むから、放っておいてくれ」
「……ごめん」
結局、私は何も出来ないまま、すごすごと彼の視界に入らない場所へと移動した。
終わったぜ、と中禅寺に言われて、私は部屋を飛び出した。
持ってきた手拭いを流しの水で濡らし、固く絞る。
それから慌てて部屋に戻ると、きょとんとしている中禅寺の手首にそれを巻いた。
「今更遅いかもしれないけれど、何もしないよりはいいと思って……」
余計なことをするなと怒られるかと思ったが、意外にも中禅寺は優しげな口調で言った。
「ありがとう。君にしては珍しく、気が利くね」
一言多いのが気になったものの、礼を言われたことは素直に嬉しかった。
しかしよく考えてみれば、喜ぶようなことでもない。
「僕の不注意の所為で……本当に、ごめん」
私は中禅寺の長い指を見つめながら詫びた。
不意に、微かな劣情が襲い掛かる。
私は、彼が好きだ。
だからこそ私のこの行動は、純粋に責任を感じてのことだったのだろうかと疑問に思えてくる。
私は本当に彼を心配しているのだろうか。
本当はただ、中禅寺の世話を焼くという、稀有な機会を逃したくなかっただけなのではないだろうか。
もしもそうだとしたら、酷い話だ。
私はますます落ち込んでしまった。
「僕はいつも君に迷惑をかけてばかりだね……」
私が呟くと、中禅寺が答えた。
「……迷惑だと思ったことは、一度も無いよ」
「えっ?」
私は驚いて、中禅寺の顔を見上げた。
彼はいつものように仏頂面で、けれど何処か優しい目で私を見つめながら言う。
「確かに君は愚鈍で、忘れっぽくて、慌て者で、小狡い男だ。
人見知りは激しいし、何を言ってもはっきりしないし、面倒で手の掛かる、救いようが無いほどに困った奴ではあるよ」
「そ、それなら」
中禅寺の言っていることは全て正しかったけれど、これだけ羅列されると流石に辛いものがある。
しかし私が更に落ち込む前に、彼はもう一度はっきりと私に言った。
「だが、だからといって迷惑だと感じたことはない」
「……」
どういうことなのだろう。
困惑している私に、中禅寺が挑発的な笑みを向ける。
「それが何故だか、分かるかい?」
分かるはずがない。
いや、分かるような気もしたが、それはあくまでも私の希望的観測だ。
違っていたら最後、やれ自惚れるな勘違いするなと、全力で罵倒されるのは目に見えている。
だから私は、分からないと答えるしかなかった。
「……本当に分からないのかい? 分かっているくせに、分からない振りをするのは感心しないな」
すると中禅寺は俯いている私の顎を掴み、顔を上に向かせた。
「あっ、あの、ちゅうぜ……」
言葉を遮り、中禅寺の唇が私の唇に重なった。
頭の中が真っ白になって、私は一瞬、息をするのを忘れた。
始めは軽く啄ばまれるように、やがてそれは強く押し付けられる。
心臓がこれ以上無いほどに高鳴って、全身ががくがくと震えた。
忍び込んできた舌を無我夢中で受け入れながら、耳の奥で響く水音に、恥ずかしさで死にたくなる。
私は必死で彼の腕に縋りつき、遠のきそうな意識を繋ぎ止めていた。
「……こういうことだよ」
やがて離れた唇がそう言ったのを、私はぼんやりと聞いた。
「君と関わっているのは、僕の意思でもある。だから、迷惑などではないよ。勿論、不可抗力もあるがね」
「うん……」
私は頷いたけれど、本当は彼が何を言っているのか、真実理解はしていなかったように思う。
その時の私はただ彼を好きだという想いが、今にも涙となって溢れ出しそうになるのを堪えるのに精一杯だったのだ。
「けれど、君に心配されるというのも悪くは無いね。痛い思いをするのは御免だが」
中禅寺が笑う。
ああ、君が好きだ。
とても好きだ。
私は思わず、彼の胸に顔を埋めた。
―――好きだよ。
その呟きは彼のものだったのか、私自身のものだったのか。
それさえも分からなくなるほどに、私はそのとき彼が好きだということ以外、何も考えられくなっていた。
これから先に待ち受けているであろう苦しみにも、彼に背負わせることになるであろう痛みにも、
全てに思い至ることは無く、私はまるで自分が幸福であるかのような錯覚に溺れ、酔い痴れていたのだった。
- end -
2007.07.04
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