侵食


朝から降り続けている雨は、夜半近くになっても一向に止む気配はなかった。
安普請の学生寮で迎える十二月はただでさえ寒さが厳しく、冷たすぎる雨に身も心も悴んでしまうようだった。
一日中晴れることなかった窓の外の翳んだ風景を眺めながら、しかし関口は何故か嬉しそうに見えた。

灯りを消して薄い布団に潜ると、さっきまではそれ程耳につかなかった雨音が、やけに大きく響いて聴こえた。
屋根や窓を打つ小刻みな音と、さあさあと水が流れる滲んだ音。
ぼんやりとそれに耳を傾けていると、まるで周囲をぐるりと雨に取り囲まれているように感じる。
そういえば二、三日前に雨が降ったとき、東側の便所で酷い雨漏りがしたと言っていたが、 あれは修理したのだろうか。
早く直さなければ床が腐ってしまうだろうに。
そんなことを考えながら目を閉じていると、暗闇の中で関口が呟いた。
「……安心するんだ」
私に話しかけているのだろうか。
正直な話、早いところ眠ってもらいたかった。
私は関口よりも先に眠ることが出来ない。
同部屋になって間もない頃、関口は寝惚けて夜中に部屋を抜け出し、挙句廊下で寝ていたことがあったからだ。
それ以来、私は関口が眠ったのを確認してからでないと眠れなくなってしまった。
勿論、この愚鈍な男はそんなことには全く気がついていなかったし、 私としても知られたいようなことではないのでそれは構わないのだが。
関口はぼそぼそと話を続ける。
その声は矢張り、いつになく嬉しそうに聞こえた。
「雨の音を聞いていると、とても安心するんだ。子供の頃からだよ。雨の降る夜は、よく眠れる」
そう言ってから、ごそごそと身じろいだ。
恐らくこちら向きに寝返ったのだろう。
「……可笑しいかな?」
私はその問いに思わず溜息をついた。
うんざりしたからだ。
彼が私にどんな返答を求めているのか、私には分かりすぎるほど分かる。
だからこそ、うんざりしたのだ。
そして私には、関口の期待に応える気は毛頭無かった。
「可笑しいとか可笑しくないとかいう問題ではなく、 基より僕にはその“安心する”という言い方が理解出来ない。 野宿をしているわけでもあるまいし、夜眠ることに不安など感じたことはないからね。 闇も静寂も、自然現象のひとつに過ぎないのに、それを不安がるのは君の勝手だ」
そのとき、気のせいか雨脚が少し弱まってきたように思えた。
さきほどまでは叩くように打ち付けていたのが、 今は時折ほとほとと遠慮がちな様子を見せている。
私に突き放されて、関口は暫く黙っていた。
それから思ったとおり、まるで夢でも見ているかのような、のんびりとした口調になって言うのだ。
「真っ暗で物音ひとつしない中にいるとね、この世界に生き物として存在しているのは、 もしかして自分だけなのではないかという気がしてくるんだ。でも雨の音がすると、そうじゃないと思える。 天蓋のような何かに、守られているような気さえするんだ」
「……」
私は次第に苛立ってきた。
関口がこのような口調で話すとき、彼はもう自分自身の内側に入り込んでしまっている。
他人がそれを聞いてどう思おうが、どう反応しようが関係ない。
ほとんど独り言なのだ。

私がどんなに理屈を与えてやったとしても、関口は曖昧で胡乱な自分でいることを決してやめようとはしない。
自分で自分を孤独に追い込んで、その癖どうしようもない不安に駆られている。
私にはそんな彼が無性に腹立たしい。
私の言葉を否定されたようで、彼を憎いとさえ思う。
そしてそんな風に感じている自分こそが、最も愚かなのだということも承知していた。

「あ……」
不意に、関口が頼りない声を上げた。
「……どうしたんだい?」
「雨が……」
気がつくと、いつの間にか雨音が止んでいた。
関口の声音が弱々しかったのはその所為だろう。
私は苦笑した。
「関口くん……手を出したまえ」
「え?」
白い手がおずおずと布団の端から滑り出る。
畳の上に投げ出されたその手を、私は軽く握り締めた。
一瞬、戸惑ったように軽く手が退かれた。
「……どうして?」
関口はおどおどと問いかけてくる。
「いつまでも君の戯言に付き合ってはいられないからね。 早く眠ってもらわないと僕まで寝坊の巻き添えを食い兼ねない」
私が答えると、関口は漸く安堵したように私の手を握り返した。
「……ありがとう」
恥じ入るように呟いた後、間も無く規則的な寝息が聞こえてきた。

関口は分かっていない。
礼を言う必要などないのだ。
私は関口を不安から守ってやろうなどと、微塵も考えてはいないのだから。

冷たかった彼の手が私の体温でゆっくりと暖まっていくように、 私は関口の領域を侵し、奪おうとしているだけだ。
夢幻の世界にいることを許さず、私がここにいることを思い知らせてやろうとしているのだ。

関口が雨の降る夜を望むのなら、私はその雨が止むことを願う。
そして、その浅ましい欲望に名をつけることを、私は何よりも恐れていた。

- end -

2002.12.07


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