荒療治
授業が終わって生徒達が次々と教室を後にしているにも関わらず、関口は机にへばりついたままだった。
「おい、関口。まだなのか?」
「……」
痺れを切らした級友の言葉にも無反応だ。
だいたいこのレポートは宿題になっていたものだ。
なのに関口は提出する直前になって何処か書き直したくなったのだろう、いつまでも愚図愚図と小さな字をノートに走らせ、
回収を命じられた級友を待たせているのである。
教師の気紛れで指名されただけの気の毒な彼は、自分の席から山積みになったノートを抱え持ってくると、
わざと大きな音を立てて関口の机の上に置いた。
「お前持っていけよ。いいだろう?」
吐き捨てるように言うと、関口の返事も待たずに彼は教室を出て行った。
中禅寺はその様子を、離れた自分の席から見ていた。
否、正確に言えば見せられてしまった。
そもそも時間が掛かりそうなら自ら代役を引き受ければいいものを、
まるで彼が待っていたことに気づいてもいないような様子で書き物を続けている。
そんな関口の姿は、無関係な自分から見ても苛々した。
そして結局相手の気を損ねて自分の印象を悪くしてしまうのだから、何処を取っても要領が悪いとしか言いようがない。
しかもこれは今回に限ったことではなく、この男は一事が万事その調子なのである。
中禅寺は、自分もさっさと寮に戻っていれば良かったと後悔した。
なまじ仏心を出して彼を待ったりすると、こういう目に合う。
こんな光景を見るのは、気分が悪くなるだけだった。
「厭なら厭と、断ればいいだろう」
関口に近づき、声を掛けた。
彼は矢張り顔を上げない。
「……別に厭じゃないから」
それだけ呟き、また書き続ける。
今までも関口はよくこうして仕事を押し付けられていた。
別に苛められている訳ではなく、貧乏籤を引き易い性質なのだ。
そして、それを本人は何とも思っていないらしい。
関口の感情表現は、酷く乏しかった。
「……君は何をしているの?」
教室には関口と中禅寺の二人しかいない。
だからその言葉は明らかに中禅寺に向けられたものなのだが、それにしては独り言のような小さな声だった。
「君を待っているのに決まっているじゃないか」
中禅寺が苦々しげに言うと、関口の手が止まった。
「……僕を?」
関口は顔を上げて、一瞬だけ中禅寺の目を見た。
そして、すぐに逸らした。
いつもこうだ。
関口は決して人の目を見ない。
見てもすぐに逸らす。
そしてその後は胡乱な視線を何処へとも無くさまよわせるのだ。
全てにおいて頼りなく、その癖どこか人を寄せ付けない関口の言動は、不快を通り越して心配になるほどだった。
「そうだ。だから、早くしてくれたまえ」
中禅寺は腕を組んで、関口を見下ろしている。
ただでさえ恐ろしげな形相は、はっきりと怒りを表していた。
しかし関口が視線を合わせないのは、それが理由ではないことを中禅寺は知っている。
この数ヶ月、彼とは散々行動を共にしていたからだ。
一方、中禅寺の怒りは待たされていることにあるのではない。
自分は何故こんな男に構ってしまうのか、それが自分でもよく解らない所為だった。
「……終わったよ」
関口は漸くノートを閉じて、片付けを始めた。
校舎を出て寮に戻ろうとすると、校門の方から高らかな笑い声が聞こえてきた。
二人してそちらに視線を向けると、女学生数人に囲まれて笑っている榎木津の姿があった。
榎木津礼二郎は眉目秀麗、容姿端麗、その上に大財閥の御曹司という、ある意味非常に現実離れした男だった。
校内はおろか、近隣の女学校にもその名を知らぬ者はいないほどで、その為にこうして時折女学生が訪ねてくる。
榎木津は女性相手にしては些か下品に思われるような大声を上げて笑っていた。
「すごいね、あの人は……」
他人にほとんど興味を抱かない関口でさえ、その光景には唖然としたらしい。
ぽかんと口を半開きにして、その場に立ち止まった。
「知っているのか」
「うん、知ってる。先輩の榎木津さんだよね」
「ほぅ。君が知っているとは、かなりのものだね」
「どういう意味だよ。……君だって知っているんだろう?」
「ああ、知っている」
その時、突然榎木津がこちらを振り返った。
ここから校門まではかなりの距離がある。
二人の会話が聞えていたはずもないのに、榎木津は女学生をほったらかしにしてこちらに向かって走ってきた。
「なっ……なんか、こっちに来るみたいだよ」
関口が怯えたように言う。
「……君が立ち止まったりするから悪い」
「え?」
咎められる理由を尋ねる暇も無く、満面の笑みを浮かべた榎木津は二人の前に仁王立ちになった。
「今、僕の噂をしていただろう!」
近くで見ると、榎木津は本当に綺麗な顔をしていた。
しかも背も高くスマートで、関口はその迫力に圧倒されて半歩ほど後退さった。
「地獄耳ですね」
反対に、中禅寺は淡々と返す。
「当たり前だ! えーと……」
「中禅寺です」
「そう! 中尊寺! 僕が女性にもてるからといって、妬んだりしてはいけないぞ! 僕は特別だからな!」
自信満々だ。
それなのに、聞いた側から名前を間違えている。
関口は何故だか嫌な汗を掻きながら中禅寺の顔を見たが、彼が反論する様子のないのに、自分もただ黙っているしかなかった。
「……ん? 面白そうなのを連れているな。お前の友達か?」
ふいに榎木津に顔を覗き込まれ、関口はびくりとする。
「友人じゃありません。ただの同級生です」
榎木津は関口の顔をじっと見続けている。
赤面して俯く関口に、榎木津がぽつりと言った。
「君は猿に似ているね」
この言葉には、流石の関口も驚いて顔を上げた。
榎木津は先刻聞いたのと同じような大声で笑った。
「わははは、猿だ! 君は猿だな!」
「先輩、いい加減にしてください。……ほら、君もなんとか言わないか」
中禅寺に睨みつけられるが、半分失語状態に陥った関口には無理な注文だった。
顔を真っ赤にしたまま唇をぴくぴくさせているだけの関口に、中禅寺はうんざりして溜め息を吐いた。
「これは関口君です。彼はすぐに失語症に陥るので、余り酷いことは言わないでください。
後で面倒な思いをするのは、僕なんですから」
「ふぅん。関、君ね」
榎木津は中禅寺の顔を見て、にやりと笑った。
「それじゃあ、僕は忙しいので失礼するよ! また会おう!」
大袈裟に手を振りながら、榎木津は女学生の元に走り去っていった。
何が忙しいのかさっぱり解らない。
しかし中禅寺と同様、自分の名前も正しくは記憶されなかったのだということだけは、関口はぼんやりとだが理解していた。
「……気に入られたね」
「……え?」
中禅寺が妙な笑みを浮かべて言った言葉の意味を問い詰める気力は、関口には既に無かった。
関口が榎木津の急な訪問を受けたのは、それから一週間後のことだった。
「やぁ、猿君! 元気にしていたかね!」
突然部屋のドアを開けてそう叫んだ榎木津に、関口は絶句した。
「ん? なんだ、その顔は? 僕の訪問がそんなに嬉しいのか? わははは、そうだろうな! いや、気を遣わなくていいぞ!」
「う……えっと、どうして……」
関口はやっとの思いで声を出した。
「どうしてこの部屋が解ったのか、か? それは奴に教えてもらったのだ。うーんと、中宮寺だったかな」
「……中禅寺」
「そう、それだ。しかし、そんな細かいことはどうでもいい」
関口には余りどうでもいいことのように思えなかったが、反論しても無駄なようなので諦めた。
榎木津はにやにやしながら、関口の部屋を見回して言った。
「うん、合格。ここに決めた」
「決めたって……何をです?」
「酒盛りだ」
「さっ、酒盛り?!」
聞き慣れない言葉に、関口は正しく飛びあがるほど驚いた。
「そう。今晩九時に来るからな! いい酒が手に入ったんだ。君にも分けてやるから有難く思え」
「ちょっ、ちょっと待って下さいよ! そんなことしたら……」
「見つかったら大変な目に合うと言うのだろう? そんなことは気にするな。
君がばらさなければいいだけの話だ。僕の部屋は寮長に目を付けられているので都合が悪い」
「そんな……」
反論の隙を与えないように、榎木津は畳み掛ける。
「ともかく九時だからな! 逃げるなよ! ああ、それからあいつも呼んでいいぞ。中間寺」
「……中禅寺」
「細かい奴だな。まぁ、いい。じゃあ、そういうことで」
榎木津は恐らく女学生だったら目眩を起こしてしまいそうな、何とも言えぬ美しい笑顔を残して去っていった。
関口は暫くの間魂の抜けたように呆然と座り込んでいたが、はたと我に返ると廊下に飛び出した。
「ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ……!」
中禅寺は読んでいた本から顔を上げ、入口に突っ立っている関口を不愉快そうに睨んだ。
「なんだ、それは。言いたいことがあるのなら、もう少し落ち着いてからにしたまえ」
「そ、そんなこと言っても……。ちゅ、中禅寺! 何故あの人に、僕の部屋を教えたりしたんだ!」
「は? ああ、そのことか」
中禅寺は唇の端を持ち上げるだけの、厭らしい笑みを浮かべた。
「聞かれたから答えただけさ。彼は君の部屋に来たのかい?」
「来たに決まっているだろう!」
関口は珍しく憤慨している様子で、どかどかと部屋の中に足を踏み入れた。
「しかも、今晩九時から僕の部屋で酒を飲むと言うんだ! どうしてくれるんだよ、君!」
「僕はどうもしないさ。文句なら本人に言えばいいだろう。
それにしても、そんなに大きな声を出したら他の部屋に聞えてしまうぞ。いいのかい、計画がばれても」
関口ははっとして口を噤み、自分達以外誰もいるはずのない中禅寺の部屋の中を意味も無く見回した。
「うっ……け、計画なんてものじゃないよ。あの人が勝手に決めただけだ」
「そうだろうね。だが、重要なのはそこだ。言っておくが、彼が決めてしまったのならもう誰にも止めることは出来ないよ。
アレはそういう人間だ。君にも解るだろう?」
「………」
確かに榎木津は一筋縄ではいかない人種に思えた。
初対面でのあの言動や、先刻も然り。
第一、人の話を全く聞こうとしないではないか。
考えれば考えるほど泣きたくなって、関口はへなへなと畳の上に座り込んだ。
「諦めて適当に付き合うんだね。まあ、君にそれが出来ればの話だけれど」
最早、中禅寺の嫌味すら耳に届いていないらしい。
数時間後に起きるであろう最悪の事態を思い浮かべて、関口は俯くばかりだった。
しかし、暫くすると突然何かを思い付いたように顔を上げた。
「そうだ、先輩は君も呼んでいいと言っていたぞ。勿論、来るだろうな」
中禅寺がいれば、少しは被害を回避出来そうな気がした。
しかし案の定、この薄情な友人は露骨に嫌な顔をした。
「何故、僕が行かなければならないんだ。冗談じゃない。お断りだね」
「それは無いだろう! だいたい君にも責任があるんだ!
元々あの人と知り合いなのは君の方なのだし、君が僕の部屋を教えたりしなければこんなことにはならなかったんだから」
「そんなことは関係ないさ。僕は質問に答えただけで、彼が何をしようとしていたのかなんて知らなかったのだし、
ましてやそれを断らなかったのは君の責任だ。もしも彼が僕の部屋で酒盛りをしようと言ってきたら、僕は断るぜ?」
「………」
反論の余地は無かった。
しかし関口はそれでも諦め切れず、縋るような目で訴えた。
「頼むよ……。僕だけじゃあ、とても上手く立ちまわれそうにない……」
「僕は酒なんて飲みたくない」
「僕だってそうだよ。頼む、お願いだ……」
関口は今にも泣き出しそうな目で、中禅寺の顔をじっと仰ぎ見ていた。
中禅寺は、さてなんと答えたものかと関口の目を見返す。
関口は身体を緊張させながら、返事を待っていた。
視線はいつまでも―――逸れなかった。
中禅寺は短く溜め息を吐いた。
その晩、関口は予想通り散々な目に合った。
結局榎木津が連れてきたもう一人の先輩と中禅寺と四人で飲んだのだが、上手くかわせる中禅寺と違い、
関口は飲めもしない酒を次々と飲まされて、早々につぶれてしまった。
翌朝はとても起きられるような状態になく、授業が無いことに感謝するばかりだった。
布団の中で関口が頭痛と吐き気に唸っている頃、中禅寺の部屋を訪れる榎木津の姿があった。
「あれで良かったのか」
「ええ。充分です」
中禅寺は昨日の様子を思い出して笑った。
「彼があんなに必死になるのを、初めて見ましたよ。
ああやって無理矢理にでも他人と関わらせていかないと、彼は駄目になるばかりですからね。彼には荒療治が必要なんです」
その言葉に、榎木津は不満そうに鼻を鳴らす。
「そんなことで僕を使うなど、お前もいい度胸をしているよ」
「先輩だって彼を気に入っていたのだから、お互い様じゃないですか」
「まぁな」
榎木津はにやりと笑った。
「お前も気に入っているのか」
「は?」
「猿君だよ。僕には襤褸糞に言っていたが、本当はお前も気に入っているんだろう?」
中禅寺はいつもの仏頂面に戻ると、いつも以上に眉間の皺を深くした。
「真逆。僕は彼のような人間が一番嫌いですよ。見ていて苛々する」
「ふぅん……」
「もう少し何とかなってもらわないと、こちらの精神衛生上良くない。
だから先輩の手を借りたんです。あんたなら多少強引なことをやっても、許されますからね」
「ハン! 矢張り僕は使われたという訳だな!」
榎木津は暫く中禅寺の頭の上の方を見て、それから少しだけ目を細めた。
「まぁ、いいさ。それじゃあ、僕は行くよ」
「ええ。また何かあったらお願いします」
榎木津はそれに応えず、中禅寺の部屋を後にした。
「荒療治が必要なのはどちらやら……」
榎木津が見た中禅寺の記憶には、彼曰く"一番嫌いな人間"の姿ばかりがあった。
全くどちらもどちらだと思い、榎木津は一人廊下で声を上げて笑った。
- end -
2002.08.22
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