依依恋恋


私の日常は、上手くいかないことばかりだ。
いつも何かが違っていて、何かが噛み合っていない。
いつからそうなってしまったのかは分からないが、もしかしたら産まれたときからそうだったのかもしれないとさえ思う。
そしてそれは私などの力ではどうすることも出来ないのだと、私は端から諦めていた。

「雪絵、ちょっと出掛けてくるよ」
居間でお茶を飲んでいた妻に声を掛け、玄関へと向かう。
すると彼女はぱたぱたと軽い足音を立てながら、私の後を追ってきた。
「どちらへ行かれるんですの?」
「ああ。ちょっと京極堂のところへ」
答えながら私は、少しだけ苦笑いをする。
いつものことだ。
他に私が行くような場所など無い。
しかし靴を履いていると、雪絵が躊躇いがちに尋ねてきた。
「あの……何時頃、お帰りになります?」
「うん? ええと、どうだろう……分からないな」
実を言えば、今日は京極堂の細君が留守なのだ。
だから私はあわよくば、京極堂宅に一泊出来るかもしれないと考えていた。
しかし私が外出する際に、雪絵が帰宅時間について尋ねてくるなど珍しい。
彼女は自分の夫が、前もって予定を立て、そしてその通り行動するような人間ではないと、よく知っているはずなのに。
「……どうしたんだい? 何かあるのかい?」
私は振り返って尋ねた。
雪絵は少し困ったように首を傾げている。
「お隣りの奥様に、いい鱈を頂いたんです。だから今晩は、お鍋にしようかと思っていたんですけど……」
「ああ……そうだったのか」
私は少しばかり迷った。
けれど妻のせっかくの心遣いと自分のはしたない欲望とを量りに掛けたとき、私はほんの少しでも迷った自分が恥ずかしくなった。
「分かったよ。夕飯までには帰るようにするから」
「本当ですか? 約束ですよ」
にっこりと嬉しそうに微笑む妻に頷いて、私は表へ出た。

残念な気持ちが無いと言えば嘘になる。
しかし京極堂と約束を交わしていたわけではないのだし、第一これは私の勝手な思惑だったのだ。
私がどれだけ早目に帰ろうと、彼は歓迎こそすれ、引き留めるはずがない。
私はそう考えて、自分を諦めさせた。
京極堂は相変わらずだった。
店先には『骨休め』の札が掛かっており、店主のやる気の無さを表していた。
彼はといえばいつもの座敷で、いつもの場所に座り、やはりいつものように本を読んでいた。
訪れた私に「髭も剃れない程に、忙しかったのかい」と嫌味をひとつくれ、出涸らしの茶を勧める。
そして私達は他愛の無い会話をしながら、笑ったり、時には顰め面をしたりしながら時を過ごした。
陽が傾き始め、座敷に薄闇が忍び寄ってくる。
私は壁に掛けられた時計に目を向けた。
「さて……そろそろお暇しようかな」
短くなった煙草を灰皿に押し付けながら言うと、京極堂が怪訝そうな顔をした。
「……帰るのか?」
「え? 帰るよ」
当然じゃないか、と言わんばかりを装って、私は答えた。
けれど互いの間には奇妙な沈黙が流れ、私の胸はざわざわと嫌な音を立て始める。
まさか京極堂も私が泊まることを期待していたのだろうか。
いや、そんなはずがない。
それは私の自惚れだ。
「今日は夕飯までには帰ると、雪絵と約束したんだ」
重くなりつつある腰を、なんとか上げる。
これ以上ここに居てはいけないと、何かが警告を発していた。
すると、いつもならここで軽く手を上げて別れを告げるだけの京極堂が、何故か立ち上がった。
「な、なんだい」
「玄関まで送るよ」
「えっ」
どうして―――。
私はごくりと唾を飲み込んだ。
どうして今日に限ってそんなことをするんだと、彼を責めたくなる。
けれど心の何処かに潜んでいる甘い期待のようなものが、私に彼をはっきりとは拒ませまいとしていた。
ざわつく胸を悟られないうちにと、足早に玄関へと向かう。
「も、もういいよ。戻れよ」
私は後ろに立つ京極堂に追い払うような仕草を見せて、背中を向けた。
もう、何も言わないでくれ。
今ならまだ大丈夫だ。
今ならまだ私は平然と、この家を後にすることが出来る。
「……もしも」
後ろで、彼が呟く。
駄目だ。
やめてくれ。
私は崩れそうになる何かを、必死で堪えていた。
けれど彼は無情にも、それを口にしてしまう。
「もしも、僕が帰るなと言ったら……君はどうするんだい?」
「……っ」
私はきつく目を閉じた。
なんて酷い男なのだろう。
私の答えを知りながら、彼は私にそれを問う。
なんて残酷な、問い掛け。
「……狡いよ、君は」
うわずった声が、自分でも恥ずかしい。
彼は、冷たく答える。
「ああ。僕は狡いさ」
「―――!」
急に腕を掴まれて、私の身体は反転した。
あっという間に京極堂に抱き込まれ、唇を奪われる。
「う……っ…」
どうして。
どうして、こんなことを。
重なる唇は燃えるように熱く、性急に彼は私の舌を絡め取る。
がくがくと膝が震え、私は彼にしがみついた。
彼は私の腰にしっかりと腕を回し、私を支えながらきつく抱き締める。
狡い。
本当に狡い。
心の内で彼を罵りながら、それでも私はこのくちづけがいつまでも終わらなければいいと思っていた。
「ん、ふ……ぁ……」
眩暈がして、息苦しさから声が漏れる。
これ以上は、本当に駄目だ。
このままでは流されてしまう。
諦めかけた瞬間、彼の唇がゆっくりと離れていった。
「……冗談さ」
彼はにやりと笑いながら言った。
冗談なわけがない。
冗談で、こんなくちづけが出来るものか。
けれど今の私には、その言葉を受け入れるしかなかった。
「……帰る」
私は自分に言い聞かせるようにして、京極堂の家を飛び出した。
どうしてこんなにも上手くいかないのだろう。
どうしてこんな風になってしまうのだろう。
後ろ髪を引かれる想いから逃げ出すように、私は走り出した。
自分ではどうすることも出来ないのなら、あとは逃げるしか方法が無いではないか。
幾度も幾度も転びそうになりながら、私は眩暈坂を全速力で駆け下りた。

- end -

2007.10.11


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