冷たいぬくもり
中禅寺は怒っているようだった。
他人の心の機微に疎いうえ、あまり興味も無い私ではあったが、中禅寺に関してだけは何故か別だった。
今、彼は怒っている。
万一怒ってはいないとしても、不機嫌であることだけは確かだ。
常から仏頂面で、決して愛想がいいとは言い難い男だが、それでも機嫌の良い時と悪い時の違いぐらい、私には分かる。
分からないのは、いったい何が彼を怒らせているのかということだ。
恐らくその原因はいつも通り私にあるのだろうけれど、残念ながら思い当たる節が全く無い。
そんな状態でうっかり謝罪の言葉を口にしようものなら、
かえって中禅寺を怒らせてしまうことになるのは明らかだったので、私はただ黙っているしかなかった。
雪が積もっていた。
一晩中振り続けたおかげで、結構な積雪になっている。
私は中禅寺の少し後ろを、彼の足跡に重ねるようにしながら歩いていた。
それにも関わらず彼のほうがずっと速く歩いている所為で、私達の距離は徐々に広がっていった。
「……中禅寺」
私は不意に焦燥を感じて、思わず背中に呼びかけた。
しかし彼は振り向きもしない。
足も止めない。
後姿がどんどん離れていく。
いったい何を怒っているのだろうか。
気に入らないことがあれば、きちんと言ってくれればいいのだ。
どうせ私が悪いに決まっているのだし、私がはっきりと言わなければ分からない人間だということは、彼もよく知っているはずなのに。
いつもは必要以上に喋る癖に、こんな時ばかり口を噤んでしまうのは卑怯ではないか。
私は無性に腹が立ってきた。
立ち止まり、足元の雪を掬い上げると、両の掌でそれを握り飯のように固めた。
そして大きく息を吸い込む。
「中禅寺!」
私は一際声を張り上げて名を呼び、雪の玉を中禅寺の背中目がけて投げつけた―――つもりだった。
しかし雪の塊は背中ではなく、彼の首筋の辺りにぶつかって砕けた。
予想に反して、彼は私の呼びかけに振り向いたのだ。
「ごっ……ご免!」
私は腹を立てていたことも忘れ、中禅寺に向かって駆け出した。
雪に足を取られて、とても走っているようには見えなかっただろうが、とにかく私は急いだ。
そして彼の傍まで辿り着くと、肩や髪に散っている雪を慌てて払った。
「本当にご免。振り返るとは、思わなかったんだ」
私が謝ると、中禅寺は漸く口を開いてくれた。
「人を呼び止めておいて、酷い言い草だな」
「……最初に呼んだときは、振り返らなかったじゃないか」
聞こえなかったよ、と彼は言う。
本当だろうか。
そのとき、互いの視線がまともにぶつかった。
中禅寺は何か言いたげな目で、私をじっと見つめている。
私はいつまでも彼の肩先に触れていたことに気づいて、
慌てて手を引っ込めようとした。
しかしそれは叶えられず、私の手は中禅寺に捕らえられてしまった。
「今日の君は、なんだかいつもの君らしくないな。僕にこんなことをするなんて、珍しいじゃないか」
「それは、だって……」
言われてみれば、確かにそうかもしれない。
けれどそうさせたのは、他ならぬ中禅寺自身なのだ。
私が反論しようとすると、中禅寺は更に言った。
「このことだけじゃあないよ。さっきも教室で、随分と楽しそうに話をしていたね。
声を掛けなければ、僕が待っていることに気づきもしなかったじゃないか。
君の鬱がいよいよ回復に向かってきたということなら、目出度い話ではあるのだろうが」
私は思い起こす。
確かに帰り際、私は級友と話をしていた。
だが喋っていたのはほとんど相手方だけで、私は相槌を打っていただけに過ぎない。
中禅寺が待っていることに気づかなかったのも、話し慣れない相手との会話に緊張していた所為であり、
しかして話の内容はと言えば、先日僕によく似た男を街中で見かけたという、酷くつまらないものだった。
それでも相手にとっては余程愉快な出来事だったらしく、矢鱈と詳細にその件について喋り続けるので、
中禅寺が声を掛けてくれたときは本当にほっとしたのだ。
それにしても、果たして彼の不機嫌の原因は、このことだったのだろうか。
私は恐る恐る彼に確認した。
「もしかして……それで怒っていたのかい?」
「……」
答えないことが、なによりの返事だった。
私は彼がたまらなく愛しく感じられた。
こんな些細なことで臍を曲げるなど、微笑ましいではないか。
「君こそ、なんだか君らしくないよ」
私が笑いながら言うと、彼はフンと鼻を鳴らした。
「言っておくが、僕は怒ってなどいない。君の無神経さに呆れているだけさ。
それなのに雪まで投げつけられて、散々だよ。これからはもう、君を待ったりしないからな」
そんな風に悪態をつきながらも、彼は相変わらず私の手を握ったままなのだ。
私達は手を繋いだまま歩き出した。
冷たいはずの彼の手が、とても暖かかった。
- end -
2006.12.14
[ Back ]