残り火
昼過ぎに起きたと言うのに、私は全身に倦怠感を纏ったまま、座布団を枕に座敷で横になっていた。
未だ昨夜の名残から抜け出せないのだとしたら、我乍らだらしのないことだと思う。
京極堂はいつもの位置で本を読んでいる。
窓の外にはゆるゆると墨を滲ませたような灰色の空があった。
「あ」
不意にその四角い空の中を、一羽のツバメが横切った。
よく見たわけではないが、確かにツバメだった。
真っ直ぐに、空を切るように飛んでいった。
「……なんだね」
思いがけなさに声を上げた私を、不機嫌な口調がせっつく。
「今、ツバメが」
言い掛けて、そこまでで口を噤んだ。
なんとなく説明しても仕様の無いことのように思えたし、
京極堂もそういう意味で私に尋ねたのではないような気がしたからだ。
私は気怠い体をなんとか起こして、本来の役目通り座布団を尻の下に敷いた。
案の定、京極堂は私の返事の続きなどなんの興味も無さそうに、ただじっと座卓の上に広げた本を読んでいる。
私は二、三度首を捻り、腰を伸ばした。
煙草を取り、火をつける。
それから紫煙の向こうの空をもう一度見上げた。
ツバメが渡ってきたということは、もう春が訪れたと言っていいのだろう。
そういえば知らぬ間に随分と暖かくなった。
夜更けや朝方は流石にまだ冷えるが、日中ならシャツ一枚でも充分に過ごせる。
こんな曇り空の日でも底冷えはしない。
私は少し好い気分になって、たっぷりと紫煙を吐いた。
「関口君」
呼ばれて振り返ると、京極堂は本を閉じ、煙草を指に挟んだままでこちらを見ていた。
「ちょっと火を貰えないか。切らしてしまった」
そう言って、空になったマッチ箱を振ってみせる。
「うん」
私は体を乗り出して、咥えたままの煙草を突き出した。
京極堂も同じように口に咥え、私の方に顔を寄せる。
先と先が触れ合う。
ふと、京極堂の上目遣いの視線がまともに私を射た。
その距離の近さに私は必要以上に動揺してしまう。
煙草の先が震える。
早く。
ジジと言う音がして、やがて橙色の火が燃え移った。
「……ありがとう」
互いの顔が離れ、私達の間に僅かな灰と煙が散った。
なんだか酷く長い時間のように思えた。
私はほっと息を吐く。
そういえば京極堂が煙草を吸うと知ったときは、随分意外に思ったものだ。
こういうような嗜好品をきっと彼は馬鹿にするだろうと勝手に決めつけていたのである。
そして彼もまた私が喫煙することを意外に思ったらしい。
君が煙草を吸うなど生意気だ、などと訳の分からない言い掛かりをつけられた覚えがあった。
私は無意識に、煙の吐き出される京極堂の口元をぼんやりと眺めていた。
私の目の前に今見たばかりの映像が鮮明に甦る。
煙草を咥えた薄い唇とか、目に掛かりそうな前髪とか、骨張った輪郭とか。
それはいつもの京極堂とはまるで別人のようだった。
どうせならもう少し長く見ていたかった気がする。
京極堂が私からなにかを貰っていった、ということも妙に私を浮かれさせていた。
「……なんだい、人の顔をじろじろと」
「え? いや」
私は口篭る。
恥ずかしながら私は、意識の何処かで昨夜のことをも思い出していた。
掌が彼の背中の線や、触れた髪の柔らかさを覚えていた。
彼の知らない彼の形を、私の体が記憶しているのだ。
その事実は珍しく私に、ほんの少しの優越感を持たせた。
「気味が悪いな」
京極堂が仏頂面で私を睨みつけながら言う。
「な、なにが」
「顔が緩んでるぞ。まあ、いつものことだがいつも以上に」
私は慌てて両頬を自分で叩く。
京極堂は呆れた顔で煙を吐き出し、そのうえ大袈裟な溜息までついてみせるのだった。
「君のことだ、どうせろくな事を考えちゃいないのだろう。
何を考えていようと君の勝手だが、僕に分からないようにしてくれたまえよ。気持ちが悪くて仕方が無い」
「ぼ、僕だってそうしたいさ。なのに、君が」
「僕が、なんだい?」
「……っ」
それ以上言えるはずも無く、私は押し黙った。
本当にこの男は意地が悪いのである。
思えばさっきの行動も、私がうろたえると分かっていてわざとやったのかもしれない。
微かな優越感はすぐに姿を消し、更に次に発せられた京極堂の言葉は私に止めを刺した。
京極堂は居間の柱時計を見上げて呟いた。
「……そろそろ千鶴子が帰ってくるな」
「……」
表で突然強い風が吹いた。
ざあと樹々が鳴って、窓硝子が震える。
「じゃあ、僕はそろそろ」
私は灰が長くなってしまった煙草を、座卓の上の灰皿に押し付けた。
胸の中がざわざわする。
体の奥に残っていた火が、今の風で揺らめいてしまったのだろう。
煙が完全に絶えるまで、念入りに火を消す。
こんな風に容易く、私の中の火も消すことが出来れば良いのだが。
忘れては思い出し、思い出しては忘れようとする。
けれどそれは決して、消えることだけはない。
いつまでも燻り続け、時に炎さえあげる。
まったく、やりきれない。
みっともない話だ。
私はもう一度ツバメが横切らないだろうかと窓を見た。
しかしぺたりと硝子に張り付いた灰色の空には、動くものなどなにひとつ映らなかった。
外は多分、暖かい。
- end -
2003.01.13
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