無明世界


ちりん―――と、風鈴の音が聞こえたような気がした。
私はゆっくりと目を開ける。
視界に入ったのは、文机。
その端から、原稿用紙が覗いている。
あれはまだ真っ白いままだ。
細く開いた窓硝子の向こうには、青い空がある。
台所の方から、水を流す音がした。
雪絵が洗い物でもしているのだろう。
風鈴の音などするはずがない。
夢を見ていたのかもしれないが、何も思い出すことは出来なかった。
頭の下で崩れた座布団を、改めて二つ折りにして、私はもう一度横になって目を閉じる。
一年中、風鈴の掛かっているあの部屋が瞼の裏に浮かぶ。
中央に置いてある、座卓。
そこに座り、いつものように本を広げている仏頂面の男。
彼の指先が、ぱらりと頁を捲る。
眉間に皺を寄せ、文字を追う険しい瞳。
伸びすぎた黒い髪が、微かに揺れる。
もう一度、頁を捲る為に指先が動いた。
細く、骨ばったその指を私の目が追う。
あの指。
あの手。
引き結ばれた、薄い唇。
着物の下に覆い隠された、真っ直ぐな背中。
それら全てを、私は知っている。
否、知っているのは私ではない。
私の身体だ。
私の皮膚が、肉が、彼を記憶している。
あの乾いた指先が、肌が、汗ばむ時を。
「…は……っ……」
胸苦しさに、思わず息を吐き出した。
鼓動が僅かに速まっている。
身体の奥で、何かが疼き始める。
私は固く拳を握り締めた。
そうせずにはいられなかった。

「タツさん、お出掛けですか?」
玄関で靴を履こうとしていると、雪絵が奥から出てきた。
「あ、ああ。ちょっと、散歩に」
「そうですか。あまり遅くならないでくださいね」
私は妻の顔を見ずに、うん、と答えて家を出た。

外は暑いほどだった。
風は無く、私を照らす陽射しは強すぎた。
何も考えずに歩き続けた結果、私はいつの間にか眩暈坂の下に立っていた。
散歩に来ただけだ。
私は自分に言い聞かせる。
この坂の上には京極堂の店があるが、私は彼に会いに来たわけではない。
その向こうには森があり、奥に神社がある。
京極堂が神主を務める、武蔵晴明神社だ。
私はそこに行くのだ。
ただその事だけを考えながら、眩暈坂を上った。
余計な物を目に入れぬよう、俯いたまま、足元だけを見つめる。
長く続いた坂が漸く終わり、私は店の前を足早に通り過ぎた。
鬱蒼とした森が現れ、今度は石段を上る。
私は何の為に、こんなところまで来たのだろう。
ただ、あの家には居たくなかった。
居られなかった。
しかし体の中に燻る熱を冷ましたくて外に出たというのに、この陽気では逆効果だ。
私は既に汗だくで、意識も朦朧としはじめていた。
鳥居をくぐり、やっと石段を上りきる。
目の前には、拝殿があった。
あの夏の日を思い出しながら、私はその場に立ち尽くしていた。

「―――関口君?」
冷や水を浴びせられたようだった。
私に声を掛けたのが誰なのか、振り返るまでもなかった。
「何をしているんだ? こんなところで」
彼が一歩を踏み出す。
私はうろたえた。
どうすればいい。
なんと答えればいい。
駄目だ。
このままでは。
今は、会いたくない。
そして私は、その場から逃げ出した。
拝殿の裏へ回り、森の中へと駆け込む。
逃げる方向を間違っていることなど、そのときの私の頭では考えられなかった。
早く。
もっと、遠く。
彼から、逃げなければ。
しかし案の定というか、私は土に足を取られて無様に地面に転がってしまった。
たいした距離を駆けたわけでもないのに、私の心臓は破れんばかりに早鐘を打っている。
喉が渇いて仕方が無い。
土に両手をつき、四つん這いの格好のまま、私はハァハァと犬のように舌を出して喘いでいた。
後ろから、足音が近づいてくる。
彼が追ってきたのだ。
私はぎゅっと目を瞑った。
「……人の顔を見るなり逃げるとは、随分と失礼じゃないか」
「……ッ!」
私は、私を立たせようとして腕を掴んできた京極堂の手を振り払った。
そしてよろよろと自力で立ち上がると、目の前にある木に縋りついた。
「触らないで、くれ……」
「……」
何故、こんな不審な行動を取ってしまったのだろう。
それがどんなに間抜けな言い訳であったとしても、散歩に来たのだと答えれば済むはずだったのに。
どうしようもなく彼を欲している体が、此処まで私の足を運ばせた。
そしてそれを忌み、恐れる心が、私を彼の前から走り去らせた。
私は酷く混乱している。
しかし後悔しても、今更遅かった。
彼に触れられた腕が、びりびりと痺れている。
京極堂が私のすぐ後ろまで来ているのが、気配で分かる。
「―――!」
突然、顎を掴まれて無理矢理顔を捻じ曲げられた。
「僕に会いに来たわけじゃないのなら、こんなところまで何をしに来たんだ?」
「……っ」
私は必死で視線を合わすまいとした。
けれど京極堂は私の顎を掴んだまま、放そうとはしない。
ゆっくりと、少しずつ京極堂の顔が近づいてくる。
その距離が縮まるごとに、私の鼓動は速くなっていった。
耳鳴りがしはじめ、膝が戦慄く。
それは時間にしてみれば極短いものだったはずなのに、私にとっては気が遠くなるほどの長さに思われた。
吸い寄せられるように、引き込まれるようにして、漸く京極堂と私の唇が重なる。
けれどその接吻は、ただ触れるだけのものから一向に変化しなかった。
彼の吐息が私の頬に掛かり、私は軽い眩暈を覚えた。
駄目だ。
もう耐えられない。
私は体ごと京極堂の方に向き直ると、彼の腕に縋った。
それからおずおずと唇を開き、舌を差し出す。
舌先で京極堂の唇を舐め、その中へ入りたいという意思表示をすると、漸く京極堂が僅かに唇を開いてくれた。
「ん……ふ…っ……」
私はからからに乾いた喉を潤そうとするかのように、性急に彼を求めた。
しかしそれに対して、京極堂の反応は酷くなおざりなものだった。
舌を絡めようとしても、彼が自らの意思でそれに応えることは無く、 私は物足りなさに焦れながらも諦めるしかなかった。
唇を離し、腕を離し、泣き出したいような気持ちで恐る恐る彼の顔を見ると、その表情は接吻をする前と少しも変わらず、凍てついたままだった。
「……満足したかい?」
哀れむように言われ、私は唇を噛んだ。
あんな接吻で、満足など出来るはずがない。
惨めで、恥ずかしくて、情けなかったけれど、 それでも私の中に燻っていた熱は、今や体中を燃やし尽くそうとする程になっている。
全身に汗が滲む。
照りつける陽光を遮る薄暗い森の中で、私の理性は次第に失われていった。
私の目が、京極堂の手を捉える。
あれが欲しい。
あの手で触れられたい。
私はぶるぶると震える指を伸ばし、京極堂の手を取った。
私は何をしようとしているのだろう。
おかしい。
そんなことは、してはならない。
こんな場所で、私はいったい何を。
「…あ、ぁッ……」
気がつけば、私は掴んだ京極堂の掌を、己の中心に強く押し付けていた。
なんということを。
こんなのは異常だ。
これではまるで変質者ではないか。
恐らく彼は私を軽蔑し、嫌悪していることだろう。
それでも私は自分を止めることが出来なかった。
漸く得られた快感を、手放すことは出来なかった。
布地越しに彼の掌の温度を感じる。
彼が抵抗しないのをいいことに、私はその手を望むままに動かした。
なんて卑猥で、なんて醜い姿。
分かっていても私の体は、悦びに震えていたのだ。
「あ……はぁ……あぁっ……はぁ……」
ぬるぬるとした先走りが溢れ、下着の中を濡らす。
それは京極堂にも伝わっていることだろう。
半開きの口から喘ぎ声を漏らしながら、私は腰を揺らした。
「京極……堂……」
何故、彼は抵抗しないのだろう。
私の手を振り払いさえすればいいだけなのに。
自慰に付き合わされるなど、彼にとっては迷惑でしかないはずだ。
快感が高まるほどに、虚しさと悲しさも同時に押し寄せてくる。
私は顔を左右に振った。
嫌だ。
こんなのは嫌だ。
私が欲しかったのは、こんなものではない。
涙が一粒、頬を伝った。
「ごめ、ん……」
声は酷く掠れていたけれど、私はやっと京極堂の手を離すことが出来た。
私は愚かだ。
こんなことをしても、何の意味も無いと言うのに。
耐え切れないほどの羞恥の中、私が為す術も無く俯いていると、彼がそっと体を寄せてきた。
そして耳元で囁く。
「……後ろを向きたまえ」
私ははっとして顔を上げた。
「で、でも」
「いいから。言われた通りにするんだ」
「……」
私は後ろを向いた。
未だ震えの止まらぬ手でベルトを外し、ズボンと下着を下ろす。
それから木に額を押し付け、私はその瞬間を待った。
「あっ……」
硬いものが、後ろにあてがわれる。
それはゆっくりと皮膚を裂いて、中を抉っていった。
強烈な異物感と圧迫感に、私は息をすることさえ忘れそうになる。
彼が少しずつ進んでいく。
貫いていく。
私の中を満たしていく。
やがて私の背中に彼がぴったりと覆い被さり、彼は木についた私の手の上に自分の掌を重ねた。
「君は本当に、厄介な男だよ……」
そう呟くと、彼はゆっくりと動き始めた。
下から突き上げられるたび、私は声が出るのを抑えられなかった。
額を汗が流れる。
互いの吐き出す荒い呼吸以外、何も聞こえない。
こんな場所で交わっている姿は、傍から見れば獣のように映るだろう。
それでも構わない。
京極堂を、この体の中に感じることが出来るなら。
木肌に爪を立て、私は喘ぐ。
彼に押し出されるようにして、私の先端から精が溢れて零れる。
「あぁッ……いい……京極、堂……」
京極堂の吐息を首筋に感じる。
私は見ることの出来ない彼の表情を思い浮かべた。
いつも私と交わるときに見せる、顔。
それはいつもの仏頂面と、似て非なるものだ。
半分私に呆れながらも、私と同じように押し寄せる快感に顔を歪ませ、息を弾ませて。
それを思い出すだけで、私の興奮は一層高まる。
私の中を出入りする彼自身が、熱く脈打っているのを感じながら、私はいよいよ限界へと近づいていった。
「……もう…もう……いきそう、だよ……っ……」
「……そうか」
私が呟いた途端、彼は私の中心を掴み、激しく擦りあげた。
「あっ、や、いやだ……っ!!」
突然の強すぎる刺激に、あっという間に私の先端から白い液体が噴出す。
爪先から髪の先まで、猛烈な勢いで快感が走りぬける。
私の体はまるで痙攣でも起こしたかのようにびくびくと波打ち、目の前の木に大量の精を飛び散らせた。
「きょ……ご…く…!」
遠ざかりかける意識を必死で繋ぎ止めながら名を呼ぶと、京極堂が私の体を強く引き寄せた。
そして殊更激しく私の奥を数回突き上げた後、短く呻いて体を強張らせる。
「……っ!」
彼が私を抱いたまま、大きく震える。
「あ……あ……」
彼もまた達したことを悟って、私は大きく息を吐いた。

その後私達は言葉を交わすこともなく、身なりを整えてから森を出た。
拝殿の前まで戻ると、彼は立て掛けてあった箒を手に取る。
掃除をするつもりで此処に来たのだろう。
そして矢張り無言のまま、枝や葉の散らかった地面を掃きはじめた。
「……僕を、軽蔑しているのだろう」
私が尋ねると、彼はぴたりと動きを止めた。
なんと罵倒されても仕方が無いと覚悟していた。
けれど彼の答えは違っていた。
「……僕が君を軽蔑したなら、そのときは君も僕を軽蔑するがいい。君には……その権利がある」
彼は私の顔を見ることもせずに、そう言った。
私はただ悲しくなって俯いた。
「悪いが、今日はこのまま帰ってくれ」
言われずともそうするつもりだった。
このまま彼の家に上がれるほど、厚顔無恥ではない。
私は石段を下りる。
その途中、私は一瞬だけ自分で自分の体を抱き締めた。
この中に、彼の存在が残っている。
私が欲しかったのは、これだったのだ。
私の中に残る、私だけの、彼の存在。

私は空を見上げた。
さっきと変わらず陽射しが照りつけているというのに、私の心は闇の中にいるようだった。
きっと私は此処から抜け出せない。
何故ならそれは、私の意志だからだ。
私はこの闇に恋焦がれている。
この闇から、誰も私を救い出さないで欲しいと、本気で願っているのだ。

- end -

2007.04.06


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