夢魂
生きていて良かった、などと思ったことはない。
幸福を実感したこともない。
ただ諾々と流れていく時間の中で、私は常に何かから逃げているような気がする。
私を取り巻く世界から。
私の内なる世界から。
「関口君に見せたいものがあるんだ」
ある日京極堂を訪れた私に、彼はそう言った。
彼について向かった先は、京極堂が神主を努めている武蔵晴明神社だった。
「こっちだよ」
京極堂は石段を登りきるとちょっと振り返って、拝殿の裏手の方を顎で差した。
すっかり陽が落ちていたから、示された先にはただ鬱々とした林しか見えない。
私ははぐれないよう、ただ黙って京極堂の背中を見ながら歩いた。
春の夜風が心地好い。
前後左右の曖昧な光景の中で、私は不思議な浮遊感を感じていた。
彼は一体、私に何を見せたいというのだろう?
林の脇にある小道を進んでゆくと、やや樹々が拓けた場所に出た。
京極堂はそこで足を止めた。
「ほら、見てごらん」
見上げると、そこには桜の樹が一本だけ立っていた。
たわわに付いた薄桃色の花びらが闇夜に浮かぶ。
「これは……?」
私は夜桜から目を離せないまま問うた。
「どういうわけか、以前からここに一本だけあったんだよ。
誰が植えたのかは解らないが、僕じゃないことは確かだ。一応、ここも神社の敷地内なんだけれどね」
さやさやと音がして、花びらが揺れる。
鬱蒼とした林を背景に仄かな灯りが灯っているように見えた。
決して大きな樹ではなかったが、充分に美しい。
月の無い夜空によく映えている。
何と言う幻想的な風景だろう。
私は半ば呆然とそれを見上げていた。
「……ずっと君に見せようと思っていた」
「え?」
桜を見上げたまま言う京極堂の横顔は、僅かに微笑んでいた。
「神社に来る人達も気づいていないようだったからね。
そりゃあ、こんなところに一本だけ桜の樹があるなんて誰も思わないだろう。僕は十年ぐらい前から知っていたけれど」
「……何故、僕に………」
「さぁ……何故だろうね。ただ、これを見つけた時から、君とこうして二人で見られたらいいと思ったのだよ」
「じゃあ……」
「ああ。見せよう見せようと思って……十年が経ってしまった」
京極堂は懐かしい物を見るように目を細めた。
十年―――。
十年もの間、桜はここで僕を待ち続けていたと言うのか。
違う。
桜じゃない。
待っていてくれたのは、君だ。
こんな僕を、君は。
涙が出た。
その光景が余りに美しくて、涙が溢れて止まらなかった。
「……どうしたんだい?」
細い指が、私の頬を拭う。
心配そうに覗き込む。
私は首を左右に振った。
僕は怖いんだ。
こんなにも幸福で、これは本当に現実なのだろうかと。
本当に僕はここにいるのかな。
夢の中でさえ、幸せだと思ったことのない僕なのに。
今、僕は生きていて良かったとさえ思っている。
……これが現実の筈がない。
そしてやっぱり僕は怖気づいて、
君に助けて貰いたくて、
君の側を離れられないのだろう。
- end -
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