水鏡


初めて会った時から、厭な予感がしたのだ。
彼には関わらない方がいい―――。
私の中の何かが、そう警告していた。
いつも、何処を見ているのか解らないような視線。
ぼんやりと遠くを眺めたかと思うと、憂鬱そうに目を伏せる。
気配が無い、意志が無い、掴み所が無い。
私は、あれに良く似た人間を知っていた。
だからこそ、厭だったのだ。



私は幼い頃、下北半島にあるとある村で育った。
山に囲まれたその静かな村には、僅かばかりの民家がまばらにあるだけだった。
私のところから一番近くの家に、若い娘さんのいる家族があった。
二十代前半ぐらいと思しき彼女は、少しばかり心を病んでいた。
彼女の両親はなるべく彼女を表に出さぬようにしていたようだが、それでも家を抜け出してふらふらとさまようことがあった。
私は近所にろくな遊び相手もおらず、何度か彼女に声を掛けられたことがあった。
勿論その頃の私は彼女が心を病んでいることなど気づかなかったが、着崩れた着物から覗くやたらと白い首と白い手足は、妙に私を不安にさせたのだった。
彼女は私に微笑みながら、砂の山を作っては崩したり、歌を歌ったりした。
私は決して愛想のいい子供では無かったので、ただ黙ってその様子を眺めるばかりだった。
血管が透けて見える手の甲。
いつも紫色がかった薄い唇。
長く伸びた髪を結うこともせず。
私を相手にしているはずなのに、彼女の硝子玉のような目には何も映っていないように感じられた。
そしてふいに視線を遠くにしては、それきりだんまりになってしまうのだった。

ある冬の日、突然彼女は姿を消した。
何処に行ったのかも解らない。
両親も然程必死に探した様子はなかった。
恐らく、彼女を疎ましく思っていたのだろう。
山に入るのを見た、という人もいた。
しかし結局、事実は解らないまま有耶無耶となった。
私は幼心に、彼女は文字通り“消えた”のだろうと思った。
もともと彼女の心はこの世になかったのだ。
心が無く、身体だけが存在していることに何の意味が在ろうか。
彼女の身体は“向こう側”の世界に行ったのだ。
彼女の心が在る場所へ。

関口の目は時折、彼女に良く似ていた。



関わるまいという決意も虚しく、私は関口と寮の相部屋になってしまった。
さぞかし鬱陶しい日々を送らねばならないだろうと覚悟していたのだが、関口は思っていた以上に大人しく、私同様ただひたすらに読書に励んでいた。
私達は日がな一日、一言も言葉を交わさずに過ごすことも珍しくはなかった。
ただそれは、関口がいつも自分の存在を消そう消そうとしているからに他ならなかったのだが。

きっかけは恐らく、私が関口の読んでいる本に興味を示したことだろう。
関口は私の興味ある分野に矢鱈と詳しかったし、それは関口にとっても同じだったらしい。
私達は次第に良く会話をするようになり、仕舞いには夜を徹して論議するまでになった。
しかし私が興味を持ったのは関口の得意分野の話というよりも、寧ろ彼の話し振りだった。
彼は常に一般論を論じているつもりらしかったが、実のところ酷く感情移入をして喋るのだ。
私がいくら『そういう説もある』と断りを入れたところで、彼自身が受け入れられない事には妙にムキになって反論してくる。
その割りにはいざ話の核に近づくと、胡乱な応えを返すだけで後は黙りこくってしまう。
小心者で小狡い男だとは思ったが、周囲にいる全く脳味噌を使っていないような連中よりは数倍マシに思えたのも事実だった。

しかし、私は時に関口に対して本気で苛立つことがあった。
関口は常に自分の内へ内へと篭ってゆきながら、必死にそれを覆い隠そうとした。
自分を卑下し、それでいてそんな自分の在り方の責任を他者に押し付けようとした。

ある日のことだった。
些細なことから口論のようになり、関口は私に言った。
『どうせ僕なんて、居る価値もない人間なんだ』
それから丸三日間、私達は口を利かなかった。
そのときの私は、自分がその関口の台詞に、何故そんなにも腹が立つのかよく解らなかった。
とにかく私は半ば意地になって、彼に関わるまいという決意を今更のように実行したのだった。

そして三日目の晩、関口はおずおずと私に謝罪した。
私は彼に、二度とあんなことは言うなと言った。
私は、彼が自分を卑下することが堪らなく嫌だった。
だから私は彼に暴言とも取れるほど冷徹な言葉を浴びせることにした。
そうすると彼は反対に、自分を擁護する気になるらしかったからだ。
そこまで言わなくともいいじゃないか、と反論される度に、そうだ、君はそこまで言われるほど卑しい奴じゃないさ、と心の中で呟いていた。
そして、それは今も変わっていないのかもしれない。

結局私は関口を放って置けず、なるべく彼を表へ引っ張り出しては、他者への興味を促してやった。
相変わらず自分が何故関口にそこまでするのかは解らなかったが、それはそれで別に構わないと思っていた。
関口を彼とは正反対の人種である榎木津と引き合わせたのも、その頃だった。
榎木津は意外にも彼を気に入ったらしく、私達はよく三人で行動を共にした。
関口の方はと言えば榎木津に圧倒されながらも、彼の本質は見抜いていたように思える。
少々面倒事は多かったものの、全く楽しくなかったと言えば嘘になろう。

そんな毎日が一変したのは、あの夏の日だった。

蒸し暑い日だった。
関口は夕方過ぎに寮を出て、それきり戻っていなかった。
夜半近くになって突然雨が降り出した。
夏の雨特有の激しさで、窓の外は煙って見えないほどだった。
激しい雨音の中、廊下で物音がした。
気になって開けてみると、そこには頭の天辺からつま先まで濡れ鼠になった関口が転がっていた。
すぐに風呂に行け、と言ったが、関口は無反応だった。
仕方なく私は関口の雨と泥に汚れた服を着替えさせ、布団に寝かし付けた。
関口はがらんどうの目を見開いたまま、眠ろうともしなかった。
何を尋ねても、何も応えない。
結局、関口はそれから何日もその状態のままだった。
飯を食わそうとしても、食おうとしない。
水だけは何とか飲ませることに成功したが、相変わらず関口は一言も声を発することは無かった。
私が何かを尋ねても、榎木津が乱暴に身体を揺さ振っても、関口はただ言葉にならない呻き声を出すだけだった。
医者に診せるべきだろうか。
しかし、こういった心の病を医者がなんとか出来るとは到底思えなかった。
私は関口が読んでいた本の中に、なにか術は無いだろうかと探したりもした。
しかし、そこに明確な答えを見つけ出すことは矢張り出来なかった。

関口がそうなって半月ほどが経った。
私がいつものように関口に飯を食わそうとしている時、それは突然思い出された。
あの目だ―――。
あの、心を病んだ娘と同じ目をしている。
関口の心は、ここにはない。
ならば関口も行くのだろうか。
自分の心の在る場所へ。
私はほとんど生まれて初めてと言っていいほど、酷い焦りと不安を感じた。
行くな。
消えるな。
何故、私はそう思ったのだろう。
私は何時の間に関口をこんな風に思っていたのだろう。
しかし、考えている余裕は無かった。
ともかく一刻も早く関口を連れ戻さなければ。
私に何が出来る。
私に関口を引き留める力はあるのだろうか。
私は微かに震えている関口を、腕の中に抱いた。
大丈夫だ。
戻って来い。
何度も、そう呟いた。
得た知識も、築いた持論も、何の役にも立ちはしなかった。

私はその夜、関口を抱いたまま眠った。
腕の中の温もりが、悲しいほど愛おしかった。

その翌日から関口は徐々に、本当に徐々に回復し始めた。
とりあえずは飯だけは食うようになった。
結局本当に元に戻るまでには一年ほど掛かったが、そのときには何もかもを忘れてしまっていた。
私はそれでいいと思った。
壊れるほどのことならば、いっそ忘れてしまえる方が良いのだと。
忘却は神が人に与えた、最も素晴らしい生きる術である。

ただ、私は忘れなかった。
私にとっての関口という存在を意識し始めたのは、ちょうどこの頃からだった。

私は益々関口を放っておくことが出来なくなっていた。
しかし『関わらない方がいい』という警告は未だ消えることはなかった。
だから私はなるべくそれと気づかれぬよう、深入りしすぎぬよう、関口が鬱に陥らないように配慮した。
時には冷たく突き放し、関口自身にまかせるようにもした。
それは功を奏し、関口は次第に落ち付き始め、榎木津以外の私の周囲にいる者達とも言葉を交わすようになった。
そんな関口を見ているうちに、私の中に矛盾した感情が生まれ始めた。
関口の心が安定すればするほど、関口が私から離れていくような気がしたのだ。
君がここに居るのは、僕が居たからじゃないのか。
君は『僕』の呼びかけに応えて戻ってきたのではないのか。
そう。
それはただの醜い嫉妬だった。
そんなときの私は、関口にわざと意地悪いことを言ってみて、関口の心を乱れさせたりした。
そして鬱に入りかけた彼を、再び呼び戻す。
そんなことを繰り返していれば、関口が私に依存し始めるのは当然だった。
そしてそれは同時に、私も関口に依存し始めているということでもあった。

関口が私を必要とすること。
それこそ、その頃の私が欲しているものだったのである。

私達は互いに、心の何処かに蟠りを残したまま卒業した。
大学に進んで暫くした頃、関口の元に召集礼状が届いた。
私は何かの間違いだと思った。
しかし関口はそれを受け入れ、そのまま出征してしまった。
私は戦争を憎んだ。
だから私は自ら、陸軍の研究所へ行くことを志願した。
関口が生きて帰る保証は無い。
例え無事に戻ったとしても、彼が壊れている可能性は多いに考えられる。
どちらにせよそこで行われる研究や得る知識は、何処かで何かの役に立つだろう。
私はその研究所で終戦を迎えた。



あの日と同じように、とても蒸し暑い日だった。
玄関を叩く音に顔を覗かせると、そこには痩せてやつれたみすぼらしい男が立っていた。
私は声を出すことも出来ず、表情を変えることも出来ず、ただ阿呆みたく彼を見つめていた。
関口はあの独特な泣きそうな笑顔を辛うじて浮かべ、『ただいま』と言った。
私は彼を促して、家に上げた。
関口は正座をしたままもじもじとするばかりで、出した茶も飲もうとはしなかった。
私は無事だったのか、などという愚問を発し、彼は彼で帰ってきてしまったよ、などと言った。

命を終えようとしてゆく蝉の声が煩かった。
気づいた時には、私達はどちらからともなく身体を寄せ合い、抱き締め合っていた。
私はただ、無我夢中で関口を抱いた。
君は生きていていいのだ。
君の居場所はこちら側にあるのだ。
本当は“自分の居場所”など、何処にもありはしない。
それは自分が自分で在り続け、作り上げていかない限り存在することはない。
けれど。
君がそれを作ることが出来ないのなら。
ここに居ればいい。
僕の側にいればいい。
私は自ら関口を自分に依存させるよう仕向けておきながら、そんな都合のいいことを考えていた。
彼にとって、一時の逃げ場になりさえすれば良いのだ。
そう思っていた。

しかし、結局それは出来なかった。
私は自らを鎖で繋ぐかのように、早々に身を固めた。
自然と私達の間には距離が出来た。
そしてやがて関口も所帯を持つことになった。
これで依存し合う関係を終え、あとは私達がこの罪深い過ちを封印してしまえば良かったのだ。
けれど関口に擦り込んだ私への執着は、関口が再び鬱を起こすのと同時に蘇った。
そして私の中にある執着もまた。
最早、私は関口の縋る手を突き放すことなど出来なくなっていた。
当然である。
何故なら私は、その時まだ自分が何故ここまで関口を捨て置けないのか、 関口を疎ましく思いながらも、何故自ら関わってしまうのか、その本当の理由を、解っていなかったのだ。



榎木津が再び京極堂を訪れたのは、あれから二週間後のことだった。
いつもの如く玄関で一声叫ぶと、勝手に上がり込んできて乱暴に襖を開けた。
「よぉ、京極。相変わらず辛気臭い顔をしているな」
京極堂が一瞥すると、榎木津は珍しくむすっとした顔のまま座卓の向かい側に座った。
その位置は、いつも関口が座る場所だった。
「どうだ。毎日、ゆっくり本が読めて楽しいか」
「……嫌味のつもりですか」
「ほぅ、よく解ったな」
「当たり前でしょう」
榎木津は座卓に頬杖をついて、京極堂を真正面から見つめる。
「お前を見損なうぞ」
「何がです」
「惚けるな」
「……見損なってくれて結構ですよ」
京極堂は読んでいた本を閉じると、榎木津の目を睨み返した。
全てを見透かす目。
どうせ隠してもばれてしまうのだから、と京極堂は開き直った。
「僕に出来ることは何も無い。それぐらい解っているはずだ」
「ふざけるな!!!」
榎木津は座卓をバンと叩いて身を乗り出した。
「お前は何も解っていないッ!!! ここまで馬鹿だとは思わなかった!!!」
「……それは光栄ですね。僕はかいかぶられていたという訳か」
榎木津はずいと顔を突き出して、鼻がぶつかりそうなところまで近づけた。
それでも京極堂は退くこともせず、その薄色の瞳を見返していた。
「いいか、京極。無理なんだ。お前は猿と別々に生きることなど出来ない」
榎木津は押し殺したような声でそれだけ告げると、ふいと身体を引き戻して立ち上がった。
腰に手を当て、偉そうな態度で京極堂を指差す。
「どうしてかは自分で考えろ! それでも解らなければお前は本物の馬鹿だ。下僕以下だからな!!」
榎木津が座敷を出ていこうと襖に手を掛けたとき、千鶴子が茶を持ってきた。
「あ、あら、榎木津さん。もうお帰りですの?」
「ああ、千鶴さん。僕はこの馬鹿に呆れて帰るのです! 家中の本を燃やした方がいい!!」
「まぁ」
音を立てて出ていく榎木津を見送った後、千鶴子は持ってきたお茶を京極堂の前に置いた。
「榎木津さん、随分怒ってらしたみたいですけど?」
「……いいんだ、あれは。放っておけ」
「……関口さんのことなんじゃないんですの?」
「……」
京極堂は湯呑みを取り、それを口にした。
千鶴子もまた、余ってしまった茶を自分のものにして啜った。
「実は私……昨日、雪絵さんに会ってきたんですの」
京極堂は腕組みをしたまま、揺れる茶の表面をじっと見ていた。
「関口さん、だいぶ良くなったみたいです。ただ……」
「……ただ?」
言い淀む千鶴子を視線で促す。
千鶴子は躊躇いがちに言った。
「いえ、ただ……何処かが可笑しい、って……話をしていても、何かが抜け落ちているような感じがするって仰って……」
「……」
「……あなた」
千鶴子は居住まいを正すと、黙りこくる夫をしっかりと見つめて言った。
「私も“今まで通り”のあなたがいいのです」
その言葉は、京極堂の胸に突き刺さった。
「あなたと関口さんの間に何があったのかは存じません。 けれど、私も雪絵さんもそう思っています。今まで通りの夫がいい、と。ただ、それだけなんです」
妻が何も知らずにそう言っていることは解っていた。
それでもその言葉は、京極堂の背中を押すには充分過ぎたのだった。

関口の家にやってくるのは、どれぐらいぶりだろう。
いつからか、ここに来るのを意識的に避けていたような気がする。
京極堂が玄関の扉に手を掛けようとしたとき、それは向こう側から開いた。
「お待ちしておりました……中禅寺さん」
雪絵は寂しそうな笑顔で言った。

雪絵は何も語らず、買い物に行くと言って出て行った。
自分はいない方が良いだろうと思ったのだろう。
その気遣いが、返って京極堂には辛かった。

今度こそ終わりにしようと決意したのは、あの病院でだった。
関口が自分を責めているのは、その表情からすぐに察しがついた。
雪絵の頬に貼られたガーゼの白さが、自分達を暗に咎めていた。
いたたまれない顔で雪絵の肩を抱く関口を見たとき、京極堂は今まで自分は何をしていたのだろうかと思った。
こんな顔をさせるために、関口の側にいたのではない。
こんな想いをさせたくて、関口を抱いたのではない。
君の居るべき場所は、そこなのだ。
京極堂はそう思った。

関口の部屋の前に立つ。
中からは物音ひとつしない。
京極堂はゆっくりと襖を開けた。
机の前に座り、頬杖をついている背中が見えた。
それから、関口は肩越しにこちらを振り返る。
「……雪絵? 買い物に行ったんじゃ……」
そこまで言って、関口は硬直した。
「………」
「……関口君」
関口は目を見開き、慌ててこちらに向き直る。
「あ、え……っと……」
「……」
「あ、あの……?」
京極堂は関口の反応に驚き、立ち尽くした。
「関口君、僕だ。中禅寺だ」
「……!」
名を名乗った途端、関口の顔色が変わった。
「関口君」
京極堂が部屋に入り込んでくると、背中を向ける。
「や……っ……」
関口は耳を塞ぐ。
背中を丸め、膝を高く寄せて、全てを拒絶するように。
「関口」
「やっ……いやだ、知らない……僕は知らない………」
「関口!」
京極堂の手が肩に触れると、関口はそれを振り払った。
「いやだ! 知らない! 出て行ってくれ!!」
「関口! 聞け!!」
「いやだ!!!」
「関口!!!」
京極堂は関口を無理矢理抱き締めた。

関口は抱きすくめられると抵抗をやめた。
京極堂は関口の首筋に顔を埋め、ただその腕に力を込めた。
もう逃がすまい。
もう手放すまい、と。
やがて関口が震える声で呟いた。
「……ど、して……君も……僕…忘れてくれれば……」
「……」
「忘れ……それだけで、い…のに……」
「……」
忘れることなど出来るはずないのだ。
何故なら関口は、最早私自身なのだから。
私の中に眠る、もう一人の私。
それは脆くて、胡乱で、彼岸に憧れてさえいた。
関口が似ていたのは、あの娘の目なんかじゃない。
あれは幼い頃の私だ。
閉鎖的な村での生活。
私は周りの年寄り達から、言い伝えだの恐山の話だのばかりを聞かされて育った。
今と違い読む本にも不足していたから、それらに理屈をつけることも出来なかった。
あの頃の私の中には、確かに何処か別の世界というものが存在していた。
だから彼女は私に声を掛けたのだ。
彼女は擦れ違う誰にも声をかけたりなどしなかった。
私の目の中に、彼女は同じ匂いを嗅ぎ取ったのだろう。
けれど彼女が本当に姿を消した時、私は無意識にそれを恐れた。
消えたくない。
ここに居たい。
そう思った。
彼と相反する立場を取ることによって、私は自身を確かめていた。
私の側が関口の居場所なのではなく、関口の側が私の居場所だった。
関口を守ることは、私自身を守ることでもあった。

なんという自己愛。
そんなものの為に関口に罪悪感を抱かせ続けてきたのかと思うと、吐き気がする。

だから私は関口に終わりを告げた。
だから私は関口を離せずにいた。
愛でも、恋でも、同情でも、ましてや友情でもない。
それを知っても君は―――。
「京極堂……」
しかし、問うことは出来ない。
「僕、は……」
君の足元を崩すわけにはいかない。
「僕は……何処へ………」
京極堂は掠れた声で囁いた。

「関口……戻ってこい」

それは、あの夏の日に唱えた呪。
互いにかけられた呪いは、生涯解けることはない。

京極堂の胸の中で、関口はただ子供のように泣いた。



「京極堂、いるかい?」
関口が店を覗くと、いつもの場所で本を読んでいる店主が顔を上げた。
「見れば解るだろう。ひやかしなら帰ってくれ」
相変わらずの仏頂面である。
しかし関口はそんなことにはお構いなしに店の中へと入り進んだ。
「ひやかしじゃないよ。今日は客として来たんだ。原稿料が入ったんでね」
「ほぅ。そんな奇特な出版社があるのかい」
「何を言ってるんだよ。君の妹御のところじゃないか。それよりも何か面白い本は無いのかい? 君のお奨めとか」
「ふん……なら、これなんかはどうだい?」
京極堂は足元から一冊の本を取り、関口に差し出した。
表紙には『目眩』と書いてある。
関口は途端に嫌な顔をして、京極堂を睨み付けた。
「京極堂……悪いけど、これなら持っているよ。買うわけにはいかないな」
「そうかい」
京極堂は立ち上がり、店先へ向かうと『骨休め』の札を掛けた。
「そいつは良かった。その本は結構お気に入りでね。売りたくなかったところだからな」
「……!」
顔を赤らめる関口を見て、京極堂は笑った。
「馬鹿だな。冗談に決まっているだろう」
「き、京極堂!」
「まぁ、そう怒るな。出涸らしで良ければ茶ぐらい出してやるよ」
「まったく……」
関口は溜息をついて、笑いながら座敷へ向かう京極堂の後についてゆく。



繰り返す過ち。
終わらない胸の痛み。
それでも。

失くしたくとも、失くせないのなら。
殺したくとも、殺せないのなら―――。

それはきっと、大切なものなのだろう。

そう、信じるしかないのだ。

- end -

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