蜜柑
酷く、驚いた。
恐らくその時の私はかなり間抜けな顔をしていたに違いない。
飛び起きて、とまではいかなかったが、私にしては機敏な動作で起き上がった。
「きょ、京極堂」
目線の先に京極堂がいた。
藍色の着物姿で手には風呂敷を持ち、
まるで戦争がぶり返したかのような仏頂面で私を見下ろしている。
「君の怠けっぷりは全く見事なものだな。人が来ても玄関まで出もせずにそうやって炬燵で横になっているとは。
いっそ熊のように冬眠してしまってはどうだい」
「す、すまない。気がつかなかったんだよ」
「都合の良い耳を持っていて羨ましいよ」
本当に気づかなかったのだ。
ここ数日、鳥口くんから再三に渡って原稿をせっつかれているのだが、私はすっかり筆が止まってしまっている。
焦りは諦めから開き直りに変わり、今日は朝からこうしてごろごろと無為な時間を過ごしていた。
そんな私に半分呆れたように雪絵は外出してしまったし、
だから京極堂が玄関先で何度も呼びかけたのだ、ということにも全く気づかなかった。
部屋の襖が開いた時には、心底驚いたのだった。
京極堂は尚もぶつぶつと言いながら腰を下ろし、炬燵に身を差し入れた。
「けど、珍しいじゃあないか。僕の家に来るなんて」
「そうだよ。珍しく来たというのに、このざまだ」
京極堂は極端な出不精なのだ。
私が彼の家に行くことは頻繁にあっても、彼が私の家に来ることは滅多に無い。
京極堂は恨みがましい目で僕を見た。
「この寒い中、わざわざ僕が来たんだぞ。お茶ぐらい淹れてくれてもいいんじゃないのか」
「あ、ああ、そうだったね。ちょっと待っていてくれ。雪絵は今、いないから……」
「そんなこと解ってるよ。だから僕は勝手に入ってくる羽目になったんだ。
こんな礼儀に叶っていない真似をするのは本意ではないのだ」
「もう勘弁してくれよ」
京極堂の攻撃は一度始まったらなかなか終わらないのだ。
私はいそいそとお勝手に向かい、不慣れながら茶を用意した。
それでも恐らく京極堂が淹れてくれるお茶よりはだいぶましだったと思う。
京極堂は茶を啜り、漸くその仏頂面を僅かに緩ませた。
「……で、今日は本当にどうしたんだい?」
「特にどうというわけじゃあないんだ。ただ、昨日千鶴子が頂いてきた蜜柑がね……」
「蜜柑?」
自然、手元に置いてある風呂敷包みに目がいく。
炬燵の上にあげたそれの結び目を解くと、中から鮮やかな橙色の蜜柑が零れた。
「食ってみたらこれがとても美味かった。たくさん貰ってきたもので、千鶴子は持ってくるのが大変だったようだよ。
これで美味しくなければやっていられない、と言っていたからね」
「へえ。本当に美味そうだな」
「食ってみたらいい」
京極堂がひとつ私に手渡してくれた。
皮を剥き、一房口に入れる。
なんとも甘く、瑞々しい味がした。
「うん! 確かに美味いよ」
「そうだろう」
二人で黙々と蜜柑を食う。
ひんやりとしたそれを食べているうちに、淀んでいた私の気持ちまで次第に潤っていくような気がした。
それに、私は嬉しかったのだ。
京極堂が私に美味い蜜柑を食わせる為だけに、わざわざ私の元を訪れてくれたことが。
「ああ、美味いなあ。蜜柑は当り外れが大きいから」
「……どうだい。少しは気分転換になったのかい」
「え?」
「昨日、鳥口くんがうちに来てね。関口先生が原稿を書いてくれない。
ひいては僕になんとかしてくれ、と言うじゃないか。
どうせ君のことだからただ怠けているだけだろうとは思ったが、確かに君はここのところ僕のうちにも来なかっただろう?
だからこうして来てみたのだ」
「……そうだったのか」
「これでも僕は心配しているんだぜ?」
「う、うん……」
私が家に行くたびに悪口雑言を浴びせる彼だったが、少しは私に会えることを喜んでいてくれてたのだろうか。
私はどこかこそばゆい気持ちになって俯いた。
「なんだい、その顔は」
「えっ、な、なんでもないよ。その……あ、ありがとう」
突然、この場所に二人きりなことが実感される。
妙に落ち付かなくなって、私は二つ目の蜜柑に手を伸ばした。
「……関口君」
「え?」
蜜柑を掴んだ私の手に、京極堂の手が重なる。
ふいに顔が近づいてきて、私は接吻された。
「きょ……京極堂! なんだい、突然!」
「君が妙に可愛らしい反応をするからだよ」
「かっ………」
「ふふ。蜜柑の味がしたなぁ」
「京極堂ッ!」
その後、一時間ほど他愛もない話をして京極堂は帰っていった。
夕方になって戻った雪絵は、蜜柑を見て大層喜んだ。
「まあ、本当に美味しそうな蜜柑ですこと。今度お礼をしなくてはいけませんね」
「うん。そうだね……」
雪絵が嬉しそうに手にした蜜柑を見て、私の胸に甘酸っぱい痛みが広がった。
それは罪悪感という名の痛みだったのかもしれない。
- end -
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