恋波


その日は朝から体調が悪かったのだ。
原因は分かっている。
数日前から風邪気味だったにも関わらず、図書室で借りた本がとても面白くて、つい夜を徹して読み耽ってしまったからだ。
おかげで風邪に寝不足が加わり、私の足元はいつも以上に覚束ないものになっていた。
無理をして授業に出たものの、目眩と悪寒と吐き気は時間が経つにつれて酷くなり、昼休みにはとうとう限界が訪れてしまった。
「中禅寺……」
私は吐き気を堪えながら、中禅寺の席に近づいていった。
彼はいつものように眉間に深い皺を寄せながら、私を睨みつけた。
「なんだね」
「ちょっと具合が悪くて……」
私がそう告げた途端、中禅寺は怒りを露わにして吐き捨てた。
「自業自得だな」
そう。
昨夜も再三、彼には早く休むよう言われたのに、私はその忠告を無視し続けたのだ。
むきになって授業に出たのは、その後ろめたさからに他ならなかった。
だから中禅寺が怒るのも無理は無い。
彼は捲くし立てる。
「朝だって顔色が悪いが大丈夫なのか、と確認したじゃないか。だが、君は平気だと答えた。 それを今更、なんだ。君の具合が悪いことぐらい、僕はとうに知っている」
「だから」
「どうするんだ。医務室へ行くのか」
「いや……寮に戻りたいんだ」
今横になれば、間違いなく長時間眠ってしまうことだろう。
医務室はそれなりに人の出入りもある。
それならば寮の自分の部屋に戻って、落ち着いて眠りたかった。
中禅寺はまだ怒りが治まらない様子で、ふんと鼻を鳴らした。
「だったら、さっさと戻りたまえ。先生には僕から言っておく」
彼は私の顔も見ずにそう言うと、席を立って何処かへ行ってしまった。

よろよろと独り部屋に戻り、布団を敷いているうちに悲しくなってきてしまった。
中禅寺の怒りは最もだ。
けれど私は今具合が悪いのだから、もう少し優しくしてくれてもいいのではないか。
部屋まで送ってくれと頼んだわけではないし、頼むつもりもなかった。
そもそも私の具合が悪いからと言って、彼が怒る必要などないはずだ。
それなのに、あそこまで語気を荒くされるほど私は悪いことをしたのだろうか。
確かに私は彼の忠告を無視したけれど、それで彼に迷惑を掛けたわけではない。
それなのに―――。
次々に恨み言が浮かんできては、情けなさで一杯になる。
この吐き気は風邪の所為だけではないのではないかという気さえしてきた。
とにかく寝てしまおう。
私は布団を被り、嫌なことを頭から追い出すように強く瞼を閉じた。



目が覚めたのは真夜中だったから、時間にして半日ほど眠っていたことになる。
さすがに頭がぼうっとしていたが、体調は午前中よりもずっと良くなっていた。
起き上がり、首を軽く回す。
吐き気も悪寒もしなかった。
ふと枕元に何かが置いてあることに気づいた。
訝しく思いながら被せてあった新聞紙を取ると、そこには盆に載ったコップと水差し、 それから小さな握り飯が二つばかり置いてあった。
それを見て初めて、私は自分の喉がからからに渇いていることと、小腹が空いていることに気がついたのだ。
朝から飲まず食わずだったのだから当然と言えば当然だ。
コップに水を注いで一息に飲み干すと、握り飯を頬張る。
その握り飯はどこか不恰好で、少々塩気が強かったが、今の私には格別に美味く感じられた。

漸く人心地ついて、私は隣りで眠る中禅寺の背中をじっと見つめていた。
あの握り飯。
賄いの小母さんが握ったものとは到底思えなかった。
だとしたら矢張り、彼が握ってくれたのだろうか。
それ以外は考えられない。
けれどそんな彼の姿は、私の想像力では思い浮かべることすら出来なかった。
結局、全ては彼の予想通りだったというわけだ。
私がこんな風に体調を崩すだろうことも、 そして夜中に腹を空かせて目を覚ますだろうことも。
だから彼は私に忠告をしたのだし、水と握り飯を用意しておいてくれたのだ。
いつもこうだ。
馬鹿なのは私ひとり。
自業自得にも関わらず、彼を「冷たい」と心の中で罵った。
彼の怒りはいつだって、彼の優しさからくるものだと知っているくせに。
けれど私は馬鹿だから、その瞬間はそこまで考えることが出来ないのだ。
冷たくされれば悲しくなるし、優しくされれば嬉しくなる。
そうしてただでさえ不安定な私の精神は疲弊しきって、更に胡乱なものになっていくのだ。
これは、いったい何なのだ。
こんなものに、なんの意味がある。
「……食ったのなら、もう少し休みたまえ」
「……!!」
振り向くこともせず、突然中禅寺が呟いた。
まただ。
また彼は私を翻弄しようとしている。
「……狡いよ、君は」
「何がだ」
「だって、そうじゃないか」
本意ではないのに、堰を切ったように言葉が溢れた。
「冷たく突き放したと思ったら、こんな風に優しくする。その度にオロオロとする僕を、君は馬鹿だと思っているのだろう?  僕はいつも君に振り回されてばかりだ。こんなのは、もう嫌だ」
八つ当たりだと分かっていた。
中禅寺はいつの間にか布団の上に起き上がって、私の方を見ている。
その視線を避けるように私は俯き、唇を噛んだ。
「……君だって同じじゃないか」
「え?」
私は驚いて顔を上げた。
暗闇の中に浮かび上がった中禅寺の顔は、苦痛に歪んでいるように見えた。
「君だって、いつも僕を振り回している」
「僕は、そんな」
「そう、君にはそんなつもりは無いのだろうな」
「……」
身に覚えの無いことを言われ、私は言葉を失っていた。
私が彼を振り回している、とはどういうことなのだろう?
中禅寺の吐いた溜息が、やけに大きく聞こえた。
「確かに君の言う通り、僕は君を振り回しているのだろう。その自覚はあるさ。 だが君は無意識に僕を振り回し、僕は故意に君を振り回しているのだから、お互い様だとは思わないか?」
「そんな……」
中禅寺は私を振り回していることを認めたのだ。
それも故意だという。
唖然としている私を見て、中禅寺はふっと苦笑した。
「……それとも、自分だけが苦しいとでも思っていたのかい?」
「あっ」
突然、首筋を引き寄せられた。
彼の乾いた唇が、私の唇に重なる。
すぐに舌が忍び込んできて、私は考える間もなく捕らえられてしまった。
呼吸さえ飲み込まれ、私はやがてその接吻に夢中になっていった。
背を撫でる中禅寺の掌に甘い痺れが走り、彼にしがみつく指先が震える。
幾度も角度を変え、私達は長いこと接吻を続けていた。

やがて中禅寺の体は私から離れ、彼は矢張り怒ったような顔で私に言った。
「……朝まではまだ時間がある。もう少し休みたまえ。何度も同じことを言わせないでくれよ」
そしてまた布団に潜り込む。
私もまるで彼の言葉に操られるかのように横になった。
くちづけの余韻が消えないままに、部屋の隅の暗がりをただぼんやりと見つめる。

これが恋というものなのだろうか。
こんなものが恋だというのなら、恋にうつつを抜かしたがる輩の気持ちなど到底理解出来そうにない。
こんなものの、何処がいいのだ。
悦びはいつもほんのひと時だけで、胸に覚える消せない孤独と不安は、大海原で漂う小舟になったような気分だ。
きっと私は彼に翻弄されているのではなく、私自身の心に翻弄されているのだろう。

唇に触れる。
あんなにも長く重ね合ったというのに、それはとうとう現実感を伴わないまま、既に冷たくなっていた。



それにしても私はどんな風に中禅寺を振り回していると言うのだろう。
具体的に訊いてみたい。
今度、彼に尋ねてみよう。

- end -

2005.07.03


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