霧雨
またか―――。
中禅寺は心の中で舌打ちする。
関口は半分ほど開いた窓の窓枠に凭れて、ぼんやりと外を見ていた。
部屋の中には重力の無い細かい水滴がはらはらと吹き込んで、関口とその周囲の畳をしっとりと濡らしている。
彼の呆けっぷりは今更呆れることでもないが、相部屋の自分としては流石にこれは堪らない。
「関口君」
声を掛けてみるが、関口は何の反応もしない。
まるで部屋中に霧がかかっているようだ。
隅の方の暗がりに湿気を帯びた空気が溜まっている気がして、中禅寺は故意に目を逸らした。
窓の外の薄鼠色をした風景には、遠くの灯りが小さく滲んで揺れている。
関口の輪郭までが、儚く消えてしまいそうにぼやけて見えた。
「関口君」
もう一度呼んでみる。
矢張り返事は無かったが、今度は何故か聞こえているはずだという妙な確信があった。
踏み締める畳が軽く沈み込む。
「関口君、窓を閉めてくれないか。雨が入ってきているじゃないか」
軽く地面を打つ雨音と、時折軒から垂れる雫の短い音が混じる。
関口の短く刈った髪の先に、無数の水滴が付いて光っていた。
「……綺麗なんだよ」
掠れた声で関口が言う。
うっとりと口元に笑みを浮かべ、何かに見惚れているようだ。
「……何を見ている?」
中禅寺は関口の隣りに座ろうとして手をついたが、畳の不快な湿り気にすぐに手を引っ込めた。
仕方なく関口の背後から窓枠を支えにしてしゃがむと、彼の視線の先にあるものを見ようと顔を並べた。
「ほら。あそこ」
促すようなことを言いながら、その実指を差すわけでも顎で示すわけでもない。
中禅寺は目を細めて、くすんだ風景の中に関口が興味を示しそうなものを探した。
窓のすぐ外には禿げ掛けた植え込みがある。
残った僅かな葉も力無く項垂れていて、今にも落ちてしまいそうだった。
よく見ると、細い枝の間に大きめの蜘蛛の巣が張られている。
細かい雨が銀色の糸に点々と降り注いで、美しい模様を浮かび上がらせていた。
「……あれか」
巣の主は何処かへ行っているのか、姿は見えない。
微かな雨にふるふると揺れる度、水の玉が光る。
一体どうしてあの小さな体で、これだけ正確な絵を描くことが出来るのか。
こんな時、人が地球上で最も賢い動物であるというのは嘘のような気がしてくるものだ。
「綺麗だよね……」
関口はうわ言のように呟く。
また鬱に入りかけているのだろうか。
濡れて体に張りついたシャツはさぞ冷たかろうに、それを気に留める様子も無い。
彼は間違い無く植え込みに張られた蜘蛛の巣のことを言っているのだろうが、その視線は何処か別の場所を見ているように思えた。
「綺麗なのは分かったが、もういい加減にしてくれ」
しかし関口はまるで中禅寺を煽るかのように、更に窓枠に顔を傾けてそこに頬を押し付けた。
「綺麗だ……」
まるで夢見心地だ。
しとしとと降り続ける雨が、関口の頬を濡らしてゆく。
中禅寺は軽い苛立ちを覚える。
僕らは同じ景色を見ているようで、本当は違うものを見ているのだろう。
例え同じ方向を向いていても、例え視線を合わせようとも、君と僕とが同じものを見ることはない。
どうしてもそれを望むならば、愚かな錯覚と妥協を自分に許すしかないのか。
背中に僅かに触れているこの腕で君を抱き締めたとしても、それは叶わないのか。
中禅寺はついと立ち上がり、部屋の隅に置いてある物入れから手拭いを取り出す。
それからまた関口の元に戻ると、ぴしゃりと窓を閉めた。
「……風邪をひくぞ」
未だ濡れた硝子窓の向こうから視線を外さない関口の肩を強引にこちらに向ける。
そして無表情のまま項垂れる彼の頭を、手拭いで乱暴に拭いた。
布越しに、じんわりと湿り気が染み込んでくる。
ぐらぐらとされるがままに体を揺らしていた関口が、掠れた声で呟いた。
「雨が降らなければ、気づかなかっただろう……?」
中禅寺の手が止まる。
夢想の世界から引き戻したことを責められている気がした。
それは多分、中禅寺の穿った捉え方だ。
それでも苛立ちは押さえきれず、言葉が喉まで出かかった。
君だって、僕の気持ちに気づかないじゃないか―――。
「……後は自分でやりたまえ」
中禅寺は手拭いを放り出して、自分の文机の前に座る。
喉に焼き付いた言葉は、時が経てば再び飲み込まれるだろう。
取り残された関口は畳の上にぺたりと座ったまま、また窓の外を見た。
彼の見ようとしたものは、そこからはもう見えなかった。
ただ、雨が強さを増しただけだった。
- end -
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