金魚
いつものように勝手に京極堂の座敷に上がり込むと、部屋の中にいつもとは違うものがあるのが目に止まった。
「あれ? なんだい、これ?」
私は座りかけたまま膝を進め、床の間の手前に置かれた小さな桶を真上から覗き込んだ。
中には水が張られていて、小さくて赤い金魚が二匹ばかり泳いでいた。
「金魚じゃないか。あ、この間の……?」
京極堂は座卓の上に本を広げ私の行動など見ないふりをしていたが、そこで漸くこちらに視線を投げてよこした。
「そうさ。自己管理の出来ない関口先生が、夏風邪をひいた為に行けなかった縁日で買ってきたんだよ」
「う……」
何もそこまで言わなくとも。
だが、否定は出来ない。
この夏初めての縁日に行けると思って楽しみにしていた雪絵をがっかりさせてしまった私は、この件については少々反省していた。
しかし私とて、ひきたくて風邪をひいたわけではないのだ。
私はこっそり京極堂の癖を真似て眉を吊り上げながら、横目で彼を見た。
「仕方が無いだろう。僕は身体の造りが繊細だからね。ここのところ急に暑くなったから、身体がついていかなかったのだ」
「ほぅ。その割には学生の頃、黴の生えた饅頭をうっかり食ってしまったのになんともなかったと自慢げに話していたじゃないか」
「ど、どうしてそんなこと覚えているんだ!」
「僕は君と違って記憶力には自信があるからね」
京極堂はしてやったりとばかりに笑みを浮かべる。
本当にこの男は侮れない。
私は気を取り直して、何気なく話題を摩り替えた。
「しかし、こんなところに置いておいて大丈夫なのかい? この家には猫がいるというのに」
「ああ、アレなら大丈夫だ。餌は人から与えられるものだと、すっかり思っているからな。獲物を取って食べるような野性すら無いよ」
「ふぅん……」
私は改めて桶の中を眺める。
細くて赤い二匹の金魚は、すいすいと狭い桶の中を行きつ戻りつしていた。
いったい、何を考えているものやら。
眺めていると何処か微笑ましく、また涼しさをも呼んでいる気がした。
「そういえば……」
金魚を見ているうちに、私はある出来事を思い出した。
京極堂がぴくりと反応したのが、背中越しにも感じられた。
学生時代のことだった。
例の如く榎木津に誘われた私と中禅寺は、その日縁日に出かけることになっていた。
しかし、その時も私は矢張り夏風邪をひいてしまったのだ。
当日、暑いのに布団を被って寝込んでいる私に、中禅寺は呆れたように言った。
「しかし何とかは風邪をひかないというが、あれは嘘のようだね」
病気の友人に向かってなんという言い草だろう。
しかし、その時の私には反論する気力さえなかったのだ。
「……いいよ。僕のことは気にせず、行ってきてくれ……」
「言われなくとも気になどしないさ。まぁ、精々養生することだ」
そう残して、中禅寺は出かけていった。
私は飲んだ薬の効き目でとろとろとまどろみ、やがて眠ってしまった。
夕飯も食べずにぐっすりと眠り、目覚めたのは日付が変わる頃だっただろうか。
眠る前に比べると、身体はずっと楽になっていた。
寝間着がぐっしょりと湿っているところを見ると、汗を掻いたせいで熱も下がったようだ。
ただそのままでは気持ちが悪かったので、寝間着を着替えようと私は起き上がった。
部屋では既に帰っていた中禅寺が、机にぼんやりと灯りを灯して本を読んでいた。
「……なんだ、起きたのか」
「うん……帰ってたんだ?」
「当たり前だろう」
私はその言葉を聞き流すと、何とは無しに視線を窓の外に向けた。
どうも明るいような気がしていたのだが、夜空には白い月が煌煌と浮かんでいた。
そしてその窓枠から少し下がったところに、何かが月の光を反射しながら揺れているのが目に入った。
「……?」
よくよく見れば、それは金魚玉だった。
風鈴のように窓枠に吊り下がった硝子玉の中を、赤い金魚が一匹ゆらゆらと泳いでいた。
「中禅寺、あれ……」
中禅寺は私がどれのことを言っているのか、すぐに察したようだ。
振り向くこともしなかった。
「ああ。……土産だ」
「え……」
私の意外そうな返事に、ばつが悪くなったのだろうか。
中禅寺は捲くし立てる。
「どうせ君のことだ。後々、やれ病人を置いて縁日に行くなど薄情者だとか、
帰ってきて僕が死んでいたらどうするのだとか言い兼ねないだろう。
それに榎木津がやれやれと言って煩いから、仕方なくやったのだ。土産というのは口実に過ぎない」
病み上がりの胡乱な頭では、中禅寺が何故そこまで言い訳がましくなるのか全く解らなかった。
それよりもその時の私は金魚掬いに興じる中禅寺の姿を思い浮かべて、笑いを堪えるのに必死だった。
「……君が掬ったのかい?」
「ああ、そうだが。……何か可笑しいか?」
「い、いや、可笑しくはないけれど……」
しかし、矢張り可笑しい。
何処をどう取っても似合わない。
彼のことだから、掬えるものも逃げ出すような形相で、金魚を睨みつけながら挑んだに違いない。
結局私は堪え切れず、くつくつと笑いを漏らした。
「……可笑しくないのなら、なにを笑っているんだ」
「ご、ご免、矢張り可笑しいよ……」
そして中禅寺は「もう二度と金魚掬いなどやらない」と、不機嫌に言い捨てたのだった。
金魚玉は銀色の月を硝子の向こうに映しながら、中を泳ぐ赤い金魚と共にいつまでも窓枠で揺れていた。
「京極堂、矢張りこれは千鶴子さんが掬ったんだろう?」
ああ、そうだ、と京極堂は仏頂面のまま答えた。
京極堂は自分で言った通り、あれきり金魚掬いは二度とやっていないはずだ。
その意固地な姿が、益々私の笑いを誘っているのだということに気づいているのだろうか。
私がその想い出を語って聞かせると、京極堂は溜め息をついて本を閉じた。
「君という奴は、よくもくだらないことばかり覚えているものだ。
だいたい君は気づいていないかもしれないが、毎年この時期になるとその話を僕にしているんだぜ?
物忘れは君の専売特許のはずだろう。早くそんなことは忘れたまえ」
「否、忘れないね。こんな面白い話を忘れられるはずがないだろう」
京極堂は眉間の皺を更に深くして、私を睨み付けた。
それでも私には、忘れてしまう気など毛頭無かった。
今なら解るが、あの時笑ったのは可笑しかったからだけではない。
そんな不似合いなことをしてまで私に土産を持ってきてくれた、京極堂の気遣いが嬉しかったからだ。
それに今の彼なら、どんなに言われたとしても金魚掬いなどやらないだろう。
若かった、と思う。
「また来年も、この話をしてやるよ」
僕の言葉に京極堂は忌々しげに鼻を鳴らすと、煙草に火をつけた。
これからも、夏が来る度に私は思い出すだろう。
あの透明な硝子玉の中を泳ぐ、愛らしい魚を。
すると、この耐え難い暑さがほんの少しだけ和らぐような気がするのだ。
- end -
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