叶えぬ恋
廊下の一角に立っていた数人の上級生達は、私の顔を見るなり「ちょうどいい奴が来た」などとのたまった。
こちらにしてみれば単にその場所は教室から校舎を出るまでの通り道だっただけであり、
さっさと寮に戻って昨日借りてきた本の続きを読まなければならなかった私にとっては、「ちょうどいい」ことなど何一つ無かった。
少々不愉快ではあったものの足を止めないわけにもいかずにそうすると、
隣りに居たはずの関口は何故か二歩ほど後退りして、私の背後に隠れるようにした。
「また、藤牧さんをからかっているんですか」
私が言うと、彼らは心外だとばかりにそれを否定する。
白々しい限りだ。
上級生は皆、榎木津絡みで知り合いになった連中だった。
その中の一人、藤野牧朗―――通称藤牧という男は、現在恋煩いの真っ最中なのだ。
初心な彼の恋心は、何かにつけて彼らの冷やかしの種になっていて、
傍から見ていても時折気の毒になるぐらいだった。
そして今も藤牧氏は堪らなく恥ずかしそうな顔をしながら、無言で突っ立っているのだった。
「こいつに何か助言をしてやってくれよ、中禅寺」
ひとりがにやにやと笑いながら言った。
私は恐らく、露骨に厭な顔をしただろうと思う。
今の私に出来る助言と言えば、冷やかしなど相手にすることはない、どうせ彼らは無責任な第三者として面白がっているだけなのだから、ということぐらいだ。
しかしそれを実際口にすれば、藤牧氏をかえって困らせる事になり兼ねない。
だから私は、
「考えておきますよ。行こう、関口君」
とだけ答えて、後ろにいた関口の腕を引いた。
関口は少しよろけながら、必要も無いのに妙な角度で彼らに小さく頭を下げると、
私に引き摺られるようにしてその場を後にした。
去り際に藤牧氏の縋るような視線を見取ったが、私は敢えて気づかぬ振りをした。
部屋に戻ると、敷いたままの布団が目に飛び込んできた。
今朝、寝坊をした関口のものだ。
「だらしがないなあ、君は」
私が言うと、関口は首を縮こまらせた。
その仕草が亀そっくりで、私は不本意ながら少し笑ってしまった。
それでも関口は布団を畳む気は無いらしく、荷物を置くなり、その煎餅布団のうえに胡坐をかいて座り込んだ。
「……それで、どうする気なんだい?」
「何がだ」
「藤牧先輩のことだよ。助言をするのだろう?」
「するわけがない」
「えっ」
私は早速机の前に座り、読み止しの本を開いた。
驚いたことに、関口はさきほどの私の発言を真に受けていたらしい。
本当に浅慮な男だ。
「だって、君は考えておくって」
「あのね、関口君。どうして僕があの人に助言などしなければならないのだ。
本人から直接相談を受けたのなら考えなくも無いが、僕まで唆されてどうする」
「それは……確かにそうだけれど」
どうやら関口は納得がいかない様子だ。
恐らく関口は、おとなしくて気弱な藤牧氏に何処かしら同調するものを感じているのだろう。
だからと言って今の段階で、私や関口があの人の力になれることなど、何一つ無い。
私は本を読みながら、後ろに居る関口に向けて言い放った。
「そもそも助言と言うからには、本人がいったい何を望んでいるのか分からなければならない。
そうでなければ、こちらも考えようが無いだろう。少なくとも僕は先輩がそれらしい事を口にするのを、聞いたことが無いんだ。
君はあるのか?」
「いや、僕も無いけれど」
「そうだろう」
実際藤牧氏は、あの鬼子母神で出会った女性に恋をしてしまったと白状しただけで、
それ以上の事はまだ何も言っていなかったのだ。
それなのに周囲が勝手に焚き付けて、騒いでいるだけなのである。
しかし関口は、「でも」と食い下がった。
こういう時の彼は、存外しつこい。
「でもそんな事は聞くまでも無く、分かる事じゃないか。先輩は想いが成就することを望んでいるんだ。当たり前だよ」
「それは君の決め付けだろう。想っているだけで充分だ、という可能性だってあるじゃないか。
勿論、それはただの臆病者だと言ってしまえば、そうなのかもしれないがね」
臆病者、という自分で発した言葉に、私はひっそりと苦笑した。
それは私自身のことでもあったからだ。
私は活字を追うのを中断して、関口の方を振り返った。
「とにかく誰がいい助言をしようと、結局は本人が動かないことには如何ともし難いことだからね。
もしも本人から相談があれば、その時に何か提案すればいいことさ」
「そうか、そうだね……」
それでも関口はまだ不満げな様子で、布団の上にごろりと横になる。
そして薄暗い天井を見上げながら、ぽつりと呟いた。
「……恋が叶うとは、どういう状態のことを言うのだろうな」
私は思わず眉を顰めた。
関口の口から恋などという単語を聞くのは、何処か座りが悪かった。
「……関口君はどう思うんだい」
卑怯な手段で、私は答える事から逃れる。
窓から差し込む夕陽が、関口の青白いはずの頬を染めていた。
それが眩しかったのか、彼は両腕を額の上で交差させる。
関口の表情が、見えなくなる。
「好きになった人から、好かれること……だろうか」
関口は暫く考えてから、自信の無さそうな口調でそう答えた。
私はその答えに半ば呆れ、そして苛立った。
それは決して間違いではないはずだった。
どうせ正解など存在しない問いなのだから、寧ろ単純なものである方が真実には近づくだろう。
しかしその時の私には、関口が何も知らぬ幼稚な男に感じられて仕方が無かった。
人の気も知らずに―――と、見当違いの憤りを覚えたのだ。
私はつい、厳しい口調で関口を問い詰めていた。
「随分とお気楽な答えだな。君らしいよ。しかしそんな単純なものだと、本気で思っているわけではなかろうね?」
「違うかな」
「それじゃあさっき僕が言った、『想っているだけで充分だ』というのと、たいして変わらない事になるじゃないか。
相思相愛であると互いが認識し合ってさえいれば、何らかの理由で交際が不可能、
もしくは中断されたとしても、その恋は叶ったのだと君は判断するのかい?」
「それは」
「違うのだろう? これは恋愛に限ったことではないが、人の欲求や願望など千差万別なうえにキリが無いんだよ。
結局はその過程において、どの時点で『恋が叶った』と判断するのかという問題になるわけだが、
それこそ人それぞれだ。一般論として定義することなど無意味だよ」
私が切って捨てるように言うと、関口は唇を僅かに尖らせて反論してきた。
「一般論ではなく、君の考えを聞きたいんだ」
それこそ答えられない問いなのだと、彼には分かっていない。
私は関口を睨みつけた。
「僕は『恋を叶えたい』などと、考えたことは無い。言っただろう。
欲求や願望は尽きることなど無いんだ。『恋が叶う』などという事は、無いんだよ」
「……分かったよ」
関口は不貞腐れたのか、寝返りを打つと、それきり黙り込んだ。
彼が私に背中を向けたので、私も再び読書の続きに戻った。
恐らく関口には、私の言っている事が理解出来なかっただろう。
私自身も苛立ちにまかせて、酷く乱暴な事を言ったと思う。
しかし嘘は吐いていなかった。
私にとって『恋が叶う』などという事は、永遠に有り得ないのだ。
だから私は、恋を叶えたいなどと思ってはならない。
思ってしまえば、私は彼の重荷となり、彼を傷つけることになるだろう。
しかし私とて、何も望んでいない訳では無かった。
ただ、ひとつだけ。
どうせ交わることの無い人生ならば、せめて平行線を保っていくことぐらいは許されてもいいだろうと。
近過ぎて見失う事も、離れ過ぎて見失う事も無く。
十年後、ああ彼は今頃生きているだろうか、などと思うような事にだけはなるまいと―――。
縁側で鳴った風鈴の音を追うように、石榴が啼いた。
目の前では関口が座卓に突っ伏して眠っている。
さっきまでひとりで勝手に喋っていたかと思えば、暢気に昼寝など始めるのだ。
毎度の事ながら、いったい何をしに来たのか。
彼の愚鈍さは、あの頃と全く変わっていなかった。
こんなつまらないことを思い出してしまったのも、全て彼の所為だと言うのに。
―――中禅寺。
関口が寝言で呼んだ、私の名前。
その名で呼ばれたのは、いったい何年振りだったろうか。
その響きは若かりし頃の思い出を呼び起こし、私の胸は少なからず痛んだ。
あの頃、私が彼に抱いていた感情が、本当に恋であったのかどうかは分からない。
しかし結果的に、私の望みは果たされたのである。
傍で生きる、という望み。
それは始末の悪いことに、十数年経った今も私の中にあるようだ。
そうでなければきっと、目の前に今の彼を見ているはずがない。
私は己の愚かさに苦笑しながら、眠る関口の髪にそっと触れた。
- end -
2006.10.14
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