陽炎
もう九月に入って一週間を過ぎたというのに、その日はまるで盛夏を思わせるような暑さだった。
漸く眩暈坂の下まで辿り着いた頃には私は既に汗濁で、
手にした小さな荷物さえも砂袋を運んでいるかのように重く感じられた。
周囲はやけに静まり返っている。
蝉はとうに息絶えているのだろうな、などと当たり前のことをぼんやり思う。
私はじっと爪先を見つめながら、坂を上り始めた。
爪先を見ながら歩くのは私の癖である。
単に猫背な所為もあるが、性格的なものもあるのだろうか。
地面には何一つ面白いものが落ちているわけでもなく、
ただ強い陽射しに照らされた石の上に、私の影が黒く映るばかりだった。
上り始めて早々に私は足を止めた。
あとどれぐらい上ればいいのだろうかと坂の上を見上げると、そこには陽炎が立っていた。
ゆらゆらと波打つ透明な膜の向こうで、僅かな家並みと樹々が揺れている。
幼い頃、初めて陽炎を見たとき私はそれに恐怖した。
道の先に見えるそこには本当に蛇腹で透明な壁があって、それを越えてしまえば、もうこちらには戻ってこられないような気がしたのだ。
私は母の手を泣きながら引っ張って駄々を捏ねたが、母がそんな私の考えを察するはずもなく、
私はずるずると引き摺られるようにして、陽炎へ向かって歩くことを余儀なくされた。
当然、いくら歩いても私がそれに近づくことはなく、触れることも、越えることもなかったのだが、それがかえって私には怖かった。
あの陽炎の向こうに京極堂の店がある。
私は溜息を吐いて、再び坂を上り始めた。
開け放したままの店の入口をくぐると、ひんやりとした空気が額に纏わりついてきた。
薄暗い店内にすぐには目が慣れず、私はよろよろと頼りない足取りで中を進んでいった。
「なんだ、君は」
京極堂の声がした。
しかし疲労しきっていた私には、その声に答えることが出来なかった。
「どうすればそんなに汗をかけるのだ。水でも被ったようじゃないか。それに酷い顔色をしているぞ。
ちょっとそこに座って待っていたまえ」
いつもならば罵倒か嫌味の言葉で出迎えられるはずなのに、今日は珍しくそれがない。
私は余程酷い有様なのだろうか。
近くにあった椅子に腰掛けると、湿った下着が肌に密着して気持ちが悪かった。
私は荷物を足元に置いて、だらりと身体を弛緩させた。
いつ来てもここは静かで好きだ。
けれど慣れてくると店の中はちっとも涼しくなかった。
すぐ目の前に立つ本棚には、くすんだ背表紙が数限りなく並んでいる。
汗が目に入って、私は目をしば叩かせた。
「そら」
一瞬、差し出されたコップが何の為なのか分からなかった。
「ああ」
ありがとう、と続けたかったのだが、それすらも億劫だった。
私はコップを受け取ると、その中になみなみと注がれている水を一息に喉の奥へと流し込んだ。
食道から胃袋へと、水が通っていくのが分かった。
「本当に君は手のかかる男だな」
京極堂は空になったコップを私の手から奪い取ると、今度はそれと引き換えに手拭いを握らせてきた。
「早く汗を拭きたまえ。商売道具の上に落とさないでくれよ」
私は言われるがままに手拭いでごしごしと顔を拭う。
何度も目の辺りを擦り、朦朧とした意識を呼び覚まそうとするが、なかなか上手くいかない。
頭がぐらぐらする。
「こんな暑い日に何故わざわざ出歩くのかね。
ただでさえ君は危なっかしいのだから、こういう日は家でじっとしていたほうがいいのだ」
京極堂の言うことはもっともだった。
私は何故ここへ来たのだろう。
なにか目的があった気がするのだが、暑さにやられてすっかり忘れてしまったようだ。
私はぼんやりとしたまま、京極堂のほうを見た。
彼はいつもの場所に座り、もう読み止しの本に戻っている。
私は視線を店の入り口へと動かした。
まるで暗い洞窟の中にいるようだ。
表までの距離がやけに遠く感じられる。
この店はこんなに奥行きがあっただろうか?
外は眩しすぎるほどに白く照らされていて、なにも見えない。
きっとあそこにも陽炎が立っているのだろう。
そしてその向こうには、私が焦がれている場所があるのだ。
私はもう一度、京極堂の横顔を盗み見た。
それでも私がここにいるのは、この男がいるからだ。
彼はこれからも決して向こう側に行くことはないのだろう。
そしてそんな彼がここにいるからこそ、私は何度でも陽炎を越えようとする。
それに向かって歩き、何度も引き戻されることを願う。
何度も。
何度でも。
いつかは見捨てられてしまうかもしれないと思いながら、それはそれで構わないとも思っている。
京極堂が私の手を離したとき、私は彼に感謝するだろう。
そして行ったきりになった私を、きっと彼は憎むのだろう。
そんなことを考えながら、私はなんとなく笑った。
「……なんだね」
京極堂は視線に気づいて、不機嫌に私を睨みつける。
その険しい眼差しに、私は漸く今日ここに来た目的を思い出した。
「……思い出したよ」
「なにをだ」
「これ」
私は足元から荷物を拾い、京極堂に差し出した。
「豆大福を貰ったんだ。お裾分けしようと思って」
私は微笑んだつもりだったのだが、京極堂は一気に不機嫌さを増したようだった。
「そういうことは早く言いたまえよ、君」
彼はそう言って腰を上げると、顎だけで私を家に上がるよう促し、さっさと座敷へ向かってしまった。
私も重い腰を上げ、それからふと店の中を振り返った。
なんのことはない、いつもの店構え。
さっきまであんなに離れて感じた外の光も、よく見ればすぐそこにあった。
陽炎は立っていない。
あの透明で歪んだ世界は、遥か遠くで私を待っているのだ。
- end -
2002.09.19
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