邪恋


夏日の目眩坂は、殊の外険しく感じられた。
只でさえ疲労困憊していた私は、それでも行かねばならぬという使命感のようなものに駆られながら、 気力だけで坂を上りきろうとしていた。
強い陽射しはあちらこちらに反射して、私の気を遠くさせる。
やがて目の前が霞み、端から余り頼りにならない私の気力が尽き果てようとする直前、漸く京極堂の店に辿り着いた。
店は案の定閉まっていて、私は滴る汗を手の甲で拭いながら、おぼつかない足取りで庭へと回った。

京極堂は一言も喋らなかった。

視線だけで私が座敷に上がることを許すと、座卓に広げられた書物の世界へとすぐに戻っていった。
それから一時間近くが経つ。
私は無言のまま、勝手に淹れた出涸らしの茶を啜りながら時折京極堂の横顔を盗み見た。
時折鳴る風鈴の音と、無為とも呼べるような時間だけが私達の間を流れていく。
そんな中で、私はぼんやりと昨日のことを思い返していた。

帰りの列車内での私達は、ろくに言葉を交わすこともなかった。
いつもは人一倍煩いはずの榎木津も、まだ具合が悪いとかでずっと眠り続けていたし、元刑事の男も疲れ果てた様子で、ほとんどを寝て過ごしていた。
そして京極堂は―――私の隣りで本を読んでいた。
左肩に微かに感じるのは彼の体温、そして気配。
私は眠ろうにも眠れず、かと言って彼に声をかけることも出来ず、車窓を流れる風景を只管眺め続けていた。

彼と向き合うのが怖かったのだ。

向き合えば私は彼の中に、またひとつ増えたそれを見つけてしまっただろう。
その後に襲われる感情に、私は気づきたくなかった。
やがて私達は東京に着き、それぞれの家路を辿った。
私は最後まで彼の顔をまともに見ることが出来なかった。



今、私の斜め前にいる彼の横顔は、いつもと変わりなく見える。
彼の中に増えたそれは、一晩経って既に溶けて馴染んでしまったのだろう。
「きょうご……」
「今日は何の用なんだい?」
彼が問い掛けてくるのと、私が声を発したのは同時だった。
「よ、用があったわけじゃないけど」
出鼻を挫かれ、つい嘘を吐く。
そんなものは簡単に見破られてしまうというのに。
京極堂は私を横目で見ながら、厳しい口調で言った。
「あんなことのあった後だ、一週間は部屋に篭って出てこられないでいるはずじゃないのかい?  それをこうしてやって来るとは尋常とは思えないがね」
「……」
確かに京極堂の言う通りだった。
いつもの私ならば暫くは使い物にならず、布団を被って過ごしていたはずである。
けれどそうしなかったのは、どうしても京極堂の顔が見たかったからだ。
京極堂に会って、確かめたかったからだ。
「その……大丈夫……かい?」
深く考えずに放ってしまった私の問いに、京極堂は眉を顰めた。
「大丈夫、とは?」
瞬間、私は馬鹿なことを言ったと激しく後悔した。
京極堂の声音には怒りのようなものが感じられた。
「あ、いや、その」
「何を言いたいのか知らないが、君に心配されるようなことは今までも これからも僕には無いと思うがね」
「心配……?」
「大丈夫か、と聞いたじゃないか」
心配。
私に人の心配など出来るわけがない。
心配されることはあっても、する側に回れるほどの器は私には無いのだ。
私は彼を心配していたのではない。
私はただ―――。
「僕は、ただ……」
「ただ、なんだね?」
「ただ……君に会いたくて……」
「……」
京極堂に会いたかった。
昨日見ることの出来なかった彼の顔を、どうしても見たかった。
憑き物落としの仕事をひとつ終えるたび、彼の中に増える悲しみを見たかったのだ。

小さな擦れ違いや、底知れぬ人の欲。
それによって縺れた糸を解き、歪んだ構築物を解体していく作業。
その術を持ち、全てを俯瞰してしまう彼の憤りと悲しみは、誰に見えなくとも私には見える。
そして私はそれこそを、何よりも愛しく思ってしまうのだ。
京極堂にしてみれば、こんな仕事をせずに済むのならその方がずっといいはずだろうに、私は酷く残酷なことを望んでいた。

だから昨日、私はその感情から必死で逃げた。
逃げて、避けて、一晩中得体の知れぬ後悔に苛まれながら、私は結局逃げ切れなかった。
彼の中の悲しみが、心の奥底に仕舞い込まれてしまう前に、彼に会いたかった。
会いに来ずにはいられなかったのだ。
「関口君、君ね……」
「え……」
俯いていた私は、彼が暫し言葉を失っていたことに気づいていなかった。
顔を上げると、京極堂は困ったような表情でこめかみの辺りを掻いていた。
「はっきり言わなければ分からないようだから言ってやるが―――」
京極堂は本を閉じ、腕を組んで言った。
「僕はね、君にこれから先もずっと愚鈍で胡乱な人生を歩んでもらわないと困るのだよ」
「そ、それはどういう……」
「それに僕は案外この生活を気に入っている。君が思う以上にね」
「……」
京極堂は頬杖をついて、少しだけ笑んでいた。
私は彼の言った意味を理解しようと努めたが、どうしても自分に都合の良い解釈になってしまうのが情けなかった。
私の歪んだ想いは彼に赦されていると受け取ってもいいのだろうか。
私は恐る恐る切り出した。
「それじゃあ僕は……此処にいてもいいのかい?」
京極堂は呆れたように溜息を吐くと、栞の挟んであった頁を再び開いた。
「駄目だと言っても無駄だろう。君は意外と頑固だからな」
その言葉はどこか優しく聞こえて、私はとても気恥ずかしくなった。
そんな私を笑うかのように、縁側の石榴が一声啼いた。

- end -

2004.04.16


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