放熱
漸く区切りのいいところまで読み終わって、中禅寺は本から顔をあげた。
脇に置かれた懐中時計を覗く。
関口が部屋を出てから、三十分は経ったろうか。
戻るのが少し遅いなと思いながら、中禅寺は風呂へ向かう準備を始めた。
部屋を出てすぐに、ばたばたと廊下を走る騒々しい足音が聞こえてきた。
それだけでもう中禅寺はうんざりしていた。
厭な予感がする。
そしてその予感は必ず当たるだろうと確信もしていた。
「あっ、中禅寺!! いいところへ!!!」
矢張り。
期待を裏切ることなく、先輩の榎木津が角を曲がって姿を現した。
いったい何処から走ってきたのか、髪も息も乱れている。
しかし榎木津の奇行に慣れきっている中禅寺は、いつもの仏頂面をあからさまに険しくしただけだった。
「何がいいところへ、ですか。廊下を走るのはおよしなさい」
下級生とは思えない態度で嗜めるが、榎木津がそんな指摘に耳を貸すはずもない。
彼は殴りかからんばかりの勢いで中禅寺の胸倉を掴むと、信じられないような言葉を吐いた。
「関君が風呂場で、血を流して倒れている!!!」
瞬間、中禅寺の顔色が変わった。
榎木津の不愉快な笑い声がまだ耳に残っている。
出来るものならこの耳を取り外して、洗い流したいぐらいだった。
中禅寺は腕を組み、眉間に幾つも皺を寄せて、目の前の布団に横たわる関口を睨むように見下ろしていた。
「……ごめんよ……」
関口が謝罪を口にするのは、いったい何度目だろうか。
中禅寺は苛々した手つきで彼の額に乗せてある手拭いを取ると、枕元の洗面器に放り込んだ。
「もう謝らなくていいと言っているだろう。何度言えば分かるんだ」
「……ごめん……」
「だから」
「あ……ごめん」
中禅寺は大きく溜息を吐く。
冷たくなった手拭いを絞り、額にまた乗せてやった。
結局は榎木津にまんまと一杯食わされたということだ。
彼は決して嘘をついたわけではない。
中禅寺が青くなって風呂場に駆けつけると、長湯に逆上せて鼻血を出した関口が脱衣場でひっくり返っていたのだから。
榎木津の言葉を聞いて、関口が足を滑らせて怪我をしたに違いないと思い込んだのは、中禅寺の勝手だ。
間抜けな姿の関口を前に、中禅寺は脱力するしかなかった。
そして榎木津は「あんなに慌てるお前を初めて見た」と言って、大喜びしたというわけだ。
「全くあの人は性質が悪い」
中禅寺は醜態を晒してしまったことがよほど悔しかったらしく、さっきからぶつぶつと文句を繰り返している。
その苛立ちはやがて、関口への八つ当たりへと変わっていった。
「そもそも悪いのは君なんだぞ。どうしてこんなに逆上せるまで風呂に入っていたんだ?
まさか風呂の中で鬱になったわけでもあるまいし、それともそんなに風呂が好きだったのかい?
どちらにせよ、本当に君は世話の焼ける男だよ」
中禅寺に捲くし立てられ、関口はまだ赤い顔を布団で半分隠してしまった。
そのしょんぼりとした様子を見て、中禅寺も少しばかり反省する。
一応、今はまだ具合が悪いのだから、あまり責め立てるのも酷だろう。
「……何か考え事でもしていたのかい?」
中禅寺が僅かに口調を和らげると、関口は漸くおずおずと口を開いた。
「君が来ると思ったんだ……」
「は?」
「後から来る、と言っていたから」
「……」
思い返してみる。
関口から風呂に誘われたとき、中禅寺は本を読んでいた。
だから区切りのいいところまで読んだら行くよ、と答えたのだ。
とすると関口はそれを馬鹿正直に受けとめて、後から来るであろう中禅寺を待っていて逆上せたということか。
「あ、いや。勿論、単にぼうっとしていた所為もあるんだけどね」
責任を押しつけるような言い方になってしまったことを悔いたのか、関口が慌てて付け加える。
しかし当の中禅寺のほうは、まったく別のことを考えていた。
「馬鹿か、君は……」
中禅寺は目頭を押さえて呟く。
彼は心底呆れていた。
だって、そんな言葉を真に受ける奴があるだろうか。
否、本当は期待していたのではないか。
関口がどれぐらい自分を待っていてくれるのか、試したいとは思っていなかっただろうか。
意地の悪い気持ちになって、わざと行くのを遅らせはしなかっただろうか。
今の関口の言葉を聞いて、少しも喜んではいないだろうか。
中禅寺に、きっぱりと否定出来る自信は無かった。
「……僕のことなど、待たなくていいんだよ」
中禅寺の呟きに、関口は不安そうな顔をする。
居た堪れない想いで、まだ熱い頬に触れた。
冷たい指先が気持ち良かったのか、関口は少し目を細めた。
胸が痛んだ。
関口から余りにも無防備な信頼や好意を寄せられるのは、酷く据わりが悪かった。
何故なら中禅寺はこれから、彼にたくさんの嘘を吐かなければならないことを覚悟していたからだ。
そうしなければ自分の抱いている想いは必要以上に関口を縛りつけ、傷つけてしまうだろうと思えた。
それは中禅寺が最も恐れ、最も避けたいと思っている事態だった。
だから少しぐらい嫌われているほうが丁度良かったのだ。
その為になら、どんな嘘でも吐けると思った。
それなのにこんな関口を見ていると、つい愛しさが勝ってしまいそうになる。
恐れを忘れて、ただ抱き締めてしまいそうになる。
中禅寺は関口の乾いた唇を、そっと指でなぞった。
「あの……」
「ん?」
「水を貰ってもいいかな」
「ああ」
中禅寺は傍にあった水差しから、湯呑みに水を注いだ。
それを関口に渡そうとして、少し考える。
それからおもむろにその水を自分の口に含むと、寝ている関口の上に覆い被さった。
「んっ……」
関口が驚いて目を見張る。
重ねられ、僅かに開いた唇から、冷たい水が流れ込んでくる。
後を追って忍び込んできた中禅寺の舌先を味わいながら、何とかそれを飲み込んだ。
やがて水が無くなってしまってからも、二人は暫く舌を絡め合い、唇を啄ばみ合っていた。
「は……」
漸く解放されたとき、関口はさっきとは違う種類の熱を帯びて、顔を赤くしていた。
瞳を潤ませ、微かに息を乱しながら、恨めしそうに中禅寺を睨みつける。
「……これじゃあ、また逆上せてしまうよ」
「君の所為じゃないか。君の逆上せが、僕にも遷ったのだ」
我ながらなんという言い訳だろう。
中禅寺は自分自身に、苦笑するしかなかった。
- end -
2003.04.03
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