月光


眩しい程の月明かりだった。
埃に汚れた硝子窓の向こうで、雲は青白い輪郭を浮かび上がらせ、枯れた木々は細長い影を地面に描いている。
その光の強さの為に、見える星は極僅かだ。
清廉ささえ感じさせる光を浴びながらも、私の中には醜く歪んだ欲望が満ちていた。
敏感になり過ぎた神経は、日常の取るに足らない瑣末な出来事をいちいち拾い上げては、私の中に堆積させていく。
理性で抑えられるのは行動のみだ。
ままならない感情の波が、気紛れに押し寄せては退いていく。
その度毎に八つ当たりのような言葉を浴びせかけては、臓腑に溜まった苦々しい想いから目を背け、冷静を装うのだ。
薄ら寒さを覚えて、私は襟元を合わせた。

昼間、教室で関口が指を切った。
ナイフで鉛筆を削っていたときのことだ。
左手の人差し指を傷つけ、当然の事ながら出血した。
しかし掌を伝う血を、関口は呆然と眺めていた。
気付いた私が叱りつけると、舐めておけば治るなどとぼんやり言ってのける。
関口は自分が宣言した通り、傷ついた指を口に含んだ。
しかし出血はなかなか止まらず、業を煮やした私は強引に彼を医務室へと連れて行った。
貰った絆創膏を巻いてやるも、血はすぐに表面まで滲んできた。
矢張り痛むのか、その後の関口は動きがいちいちぎこちなかった。

それがどうしたというわけではない。
ただそんなことがあったというだけの話だ。
けれど私は何故、さっきからそのことばかりを思い返しているのだろう。
彼は本当に世話の焼ける男だが、それは彼が子供のように幼いという意味ではない。
だらしないのとも違う。
なんというか、しゃんとしていないのだ。
他にどう言っていいのか分からない。
その捉えどころの無さに、私は堪らなく苛々する。
他人に気を使えないばかりか、自分のことにさえ無頓着な彼に対して苛立つのだ。
けれどそれさえも本当は、私にとってどうでもいいことのはずだ。
どうでもいいことなのに、私はそのことばかりを考えている。
そして中々訪れない睡魔を待つのにも飽きて、とうとう窓辺に座り込んでいる始末だ。
馬鹿馬鹿しいのを通り越して、滑稽ですらある。
私は長い溜息を吐いた。

私が溜息を吐くのと同時に、布団に潜り込んでいた関口の身体がもぞもぞと蠢いた。
起きるべき時刻には起きられない癖に、こんなときに限って起きてくるのはどういうことなのだろう。
しかし関口は私に気付いてしまった。
「中禅寺……眠れないの?」
掠れ声で尋ねてきたが、答えなかった。
窓の外の青白い風景に目をやったまま、 関口を見ることもしなかった。
本当に忌々しい男だ。
関口が布団を這い出してくる気配がする。
「……!」
暖かさに思わず振り返った。
関口が傍に放り出してあった私の褞袍を、背中に掛けてきたのだ。
目が合うと、怯えたように言い訳をする。
「そ、そんな格好じゃ風邪をひくよ」
彼もまた滑稽だ。
諦めにも似た気持ちになって、私は言った。
「人の心配より自分の心配をしたまえよ。君のほうが余程寒々しい格好じゃないか」
「あ、そうだね……」
そのまま布団に戻るのかと思いきや、関口は自分の褞袍を羽織ると、あろうことか私の向かいにぺたりと腰を下ろした。
私は嘆息する。
結局、避けて通ることなど不可能なのだ。
月光に照らされた関口の顔は、病的に白かった。
「何をしていたんだい?」
「見事な満月だと思って見ていただけだよ」
「え?」
関口は首を捻り、窓の外の夜空を見上げた。
「ああ、本当だ。凄いね。眩しいくらいだ」
「……」
それは衝動だった。
私は関口の腕を強く引いた。
そしてそのまま腕の中に収め、身体を反転させる。
「ちゅ、中禅寺?」
「こちら側からのほうが見易いだろう」
関口は口の中でもごもごと何かを言っていた。
暫くは居心地悪そうに体を捩っていたが、私は関口をしっかりと抱いて離さなかった。
そのうち諦めたのか、漸く私に背中を預けてきた。
「……よく見えるね」
「そうだろう?」
私が最初に此処に座った時よりも、僅かながら月は場所を変えている。
放つ光はそのままに、ゆっくりと窓枠の方へと近づいていた。
関口は少し首を傾け、自分に回された私の腕に指を掛けてきた。
指先に巻かれた絆創膏には、黒ずんだ血が染み付いている。
私はそれを、関口の肩越しに見ていた。
「……まだ痛むかい?」
答えるまでに間があったのは、既に忘れていたからなのだろう。
関口はううん、と小さく首を振った。
「中禅寺……ありがとう」
「何がだ」
「手当て、してくれて」
「……」
今頃、何を言っているのか。
しかも声音には全く感謝の気持ちなど込められていないように聞こえた。
この男はそういう奴だ。
「礼を言うぐらいなら、自分のことは自分できちんとしたまえよ」
関口は黙った。
私は彼の手を取り、自分の目の前まで運んだ。

―――君が傷つくと腹が立つのだ。
たとえ傷つけたのが君自身だとしても。
いや、寧ろその方が余計に腹が立つ。

こんなものは見たくも無い。
私は放り出すように彼の手を離した。
関口は矢張り黙ったままだった。

やがてすうすうという微かな寝息が、胸元から聞こえてきた。
眠ってしまったらしい。
さて叩き起こして自分で布団まで戻らせるか、それとも此処に放っておくが善いか、引き摺っていくのは相当大儀だ……などと 考えを巡らせているうちに、どうにも面倒になってしまった。
さっきまでの苛立ちが治まっていることさえ、どうでも良くなっていた。
体が温まった所為かもしれない。
ともかく私はこの月が視界から消えるまで、もう暫くこうしていることに決めた。

- end -

2005.02.28


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