振り子


声をかけられたのは、眩暈坂を半分ほど上って来たところでだった。
「関口さん、こんにちは」
「あ、えと、どうも……」
京極堂の細君は淡い色目の和服の上に、上品な鶯色の道行きを羽織っている。
うららかな陽気の今日に、それはとても良く似合っていた。
いつも以上に綺麗にめかしこんでいる千鶴子さんを前にして、私は碌な挨拶も出来ぬまま頭を下げた。
「主人のところに行かれるんですの?」
「あ、はい」
彼女は私の胡乱な返事など気にした様子も無く、微笑みながらちらと坂の上を見上げる。
そこには私がこれから向かおうとしている、京極堂の店があった。
「なんだか今日は気が乗らないとかで、お店も開けようとしないんです。困ったものですわ」
「そうなんですか」
いつもの事ですよ、と言いかけて止めた。
口元に手を当ててくすくすと笑う彼女が、とても幸せそうに見えたからだ。
理由にもなっていない気がするが、そう感じたのだから仕方が無い。
「主人のこと、宜しくお願い致します」
私達は軽い会釈をし合って別れた。

今と似たような言葉を初めて千鶴子さんに言われたとき、私はどうしようもない違和感を覚えたものだ。
『主人がいつもお世話になっております』
京極堂は僕は世話になどなっていない、寧ろ逆だ、などと抗議したが、私の感じた違和感はそれとは違った。
この手の台詞は、その人により近しい立場の側が言うものなのだと思う。
私はその時、何故この人にそれを言われなければならないのだろう。
私の方が彼と過ごした時間は多いはずなのに。
私の方が彼とは親しい間柄のはずなのに。
そんな風に思ったのだ。
まさか自分がこんな馬鹿げた自負、否、自惚れを持っていたとは夢にも思わなかったものだ。
無論、今は何とも思わない。
慣れてしまったからなのか、それとも実際に私と京極堂の距離が広がってしまったからなのか。
恐らくは後者なのだろう。
千鶴子さんが家族であるのに比べ、私は京極堂に言わせれば単なる知人なのである。
今更ながらにそれを思い知った私は、京極堂に辿り着いた頃にはすっかり意気消沈していた。

店は開いていないと分かっていたので、私は勝手に裏へ回り縁側から座敷に向かって声をかけた。
「京極堂。いるんだろう?」
暫くして障子が開くと、いつも通り不機嫌そうな顔をした男が姿を現した。
「一体君はなんだってそんな所から入ってくるのだ。まさか今更うちの玄関が分からなくなったわけではないだろう。 それともまたお得意の物忘れかい? だとしたら、よく迷子にならずに来られたものだ」
例の如く京極堂は、一に対して十言わなければ気が済まないようだ。
特に私には。
「ご、御免。千鶴子さんに会って、店は開けていないって聞いたから……」
しかし私が千鶴子さんの名前を出した途端、京極堂の表情がふと緩んだ気がした。
「ああ。そういえばつい今しがた出たばかりだからな」
それは私の気の所為だったのかもしれない。
それでもそんな些細な事にさえ、今の私は敏感になってしまっていた。

「お茶ならそこにある。勝手に淹れて飲みたまえ」
私は漸く座敷に上がることを許され、京極堂は読み止しの本に戻った。
私はいつもの位置に座り、言われた通り勝手に茶を淹れた。
京極堂の横顔を眺める。
あの頃私がよく知っていると思っていた彼と、今ここにいる彼はどれぐらい違っているのだろうか。
私は、私を一番良く知る人間は京極堂だと今でも思っている。
雪絵と結婚した今も、だ。
けれど彼は違うのだろう。
私の知っている京極堂というのは、京極堂の極一部に過ぎない。
そもそも一緒にいる時間の一番長かった学生時代でさえ、私は自分の事で手一杯だったのだ。
私は京極堂を知らない。
何も知らないのだ。
「……どうしたんだ」
ふいに声をかけられて、私は我に返った。
「え、え? 何が?」
「何かあったのか」
「いや、別に……何も」
「……そうか」
やはりそうだ。
私はいつでも京極堂に己を見抜かれているというのに、私には京極堂の事などちっとも分からない。
何を考えているのか。
何を思っているのか。
いつでも彼の言葉に煙に巻かれて、翻弄されて、みっともなく堕ちていくばかりじゃないか。
「……何かあるのなら、はっきりと言いたまえ。 すぐ側でそんなに憂鬱な顔をされていたのでは、気にするなと言う方が無理がある。 何か僕に言いたい事があるのだろう?」
京極堂は私の『何もない』という言葉を、全く信じてはいなかった。
少し強い口調で言われ、私は益々萎縮した。
「関口」
私は渋々口を開いた。
「……抱いてくれないか」
京極堂は激しく咳き込んだ。
自分でも訳の分からないことを言っているという自覚はあった。
しかし私はまだ希望を捨て切れなかったのだ。
京極堂と私との距離は、私が思うほどに離れてはいないはずだと。
「……何を言っているんだ」
京極堂は呼吸を整えると、そう言って私を睨みつけた。
「可笑しな意味じゃないよ。言葉の通りだ。……駄目かな」
「駄目に決まっているだろう。何故、こんな真昼間から中年男を抱いてやったりしなければならないのだね。馬鹿も休み休み言いたまえ」
「……」
彼の言う通りだ。
馬鹿なことを言った。
京極堂は、そんなことより―――と話題を変えて喋り始めた。
私はほとんど聞いていなかった。
適当な相槌を打つのが精一杯で、それでも暇を告げる気にはなれなかった。

結局、私は夕刻まで居座った。
こんな状態で話が弾むわけもなく、やがて京極堂は黙って本を読み始め、私は温くなった茶をいつまでもちびちびと啜っていた。
帰りぐらいは表から出ていけと言われたので、私は縁側から靴を拾って玄関先へと向かった。
「じゃあ、また……」
それだけ告げて京極堂に背を向けたとき、ふいに後ろから抱き締められた。
「……京極堂……?」
「……君が言ったんだろう。抱いてくれと」
「でも……」
私は混乱した。
京極堂の吐息を首筋に感じる。
「だって……さっきは馬鹿な事を言うなって……」
「当たり前だ。あんな場所で抱いたりしたら自制出来なくなる」
「……」
私は呆然としながら、背中に押し当てられた熱を感じていた。
諦めようとすれば腕を引く、彼は卑怯だと思う。
それでも、このままでいたい。
このままで―――。
しかし京極堂はすぐに腕を緩め、振り返ろうとした私の背中を軽く押した。
「……気をつけて帰りたまえ」
私は振り向く事が出来なかった。

私達は振り子のように、同じ距離を行ったり来たりしているだけなのかもしれない。
永遠に定まることはない。
変わることもない。
そして時だけが刻まれてゆく。
眩暈坂を下りながら、私はただ悲しくて悲しくて仕方が無かった。
寂しくてどうしようもなかった。
夕暮れの街並みが、視界の中で滲んだ。

- end -

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