孵化


中禅寺が私に辛辣な言葉を浴びせかけてくるのは今に始まったことではない。
出会った頃から幾度も繰り返されてきたことだ。
馬鹿だ、愚鈍だと言葉尻りは様々だったけれど、罵倒されていることに変わりはない。
勿論、私も初めは少しばかり傷ついたりもした。
しかし今やそれは私達の日常会話の中にすっかり定着していて、 言う側の彼はともかく、言われる側の私でさえ慣れきってしまっていたのだ。
私は常に精神的に不安定で、まともな時でさえ旨く喋れないような男だから、それは仕方が無いことだともう諦めていた。
そして同時に、ひとつ気づいたことがあった。
きっと今まで私に関わってきた人達も皆、言わなかっただけで、中禅寺と同じように私を思っていたのだろう。
そう考えると酷く恥ずかしくなるが、そのことに気づかせてくれた彼には感謝している。
だから彼ほどはっきりと口にしてきた人間は初めてだったけれど、それでも私はそういう彼を不快に感じることはなく、寧ろ好ましくさえ思っていたのだ。

しかしいつからか私は、どうやっても拭いきれない蟠りを抱くようになった。
真夜中にふと、彼に詰られたことを思い出す。
君は本当に馬鹿だな。
君は面倒な男だ。
彼の言葉が暗闇からポトポトと落ちてきては、私の中にある淀んだ沼に沈んでゆく。
そして私は考える。
そう言いながら、彼は何故私と居るのだろう。
考えると胃の辺りが締め付けられるように痛んで、私はぎゅっと目を瞑る。
悲しいのだろうか。
分からない。
ただ日を追って次第に重苦しくなっていく胸の内を、私は自分のことながら不可解なものに感じていた。



授業が終わってからも、私はぼんやりと席に着いたまま動けずにいた。
昼休み、数人で飯を食いながら話をしているときに彼が言った言葉が頭から離れなかった。
―――君と居ると、本当に疲れるな。
何故そんな風に言われたのかは、よく思い出せない。
覚えているのは、彼以外の級友達が苦笑いを浮かべて私を見ていたことだけだ。
食いかけの握り飯はなかなか喉を降りていってはくれず、私はそれきり口を噤み、彼の顔を見ることもなかった。

「何をしているんだ」
威圧的な声に体が竦む。
ちらと横目で見ると、すぐ傍に彼が立っていた。
「帰らないのか? 帰らないのなら、僕は先に行くぞ」
「……いいよ」
まだ彼の顔を見る気にはなれなかった。
私が答えると、彼は大きな溜息を吐いた。
「いったい、どうしたと言うんだ。昼休みが終わってから、少し可笑しいじゃないか。 何かあったのなら言いたまえよ」
「……」
私は唇を噛んだ。
言ってもいいのだろうか。
いや、言えるはずがない。
私にはその勇気が無かった。
黙り続ける私の様子に業を煮やした彼は、怒りの混じった声で告げた。
「分かった。僕は先に帰る」
離れていく気配に、私は漸く顔を上げる。
中禅寺は振り返りもせず、教室を出ていこうとしていた。
私は苛立つ。
そして思わず立ち上がり、叫んでいた。
「君が言ったんじゃないか……!!」
彼は振り返り、足早に私の元へ戻ってきた。
眉間に皺を寄せて、私を睨みつけている。
「僕が何を言ったって?」
「だから……君が……」
「なんだい」
「僕と居ると……疲れるんだろう……?」
彼は暫く黙り込んでいた。
恐らく、記憶を辿っているのだろう。
そうでもしなければ思い出せないほどに、彼にとっては些細な科白だったのだ。
それは私にとってもそうであるはずだった。
ずっとそうであってほしかったのだ。
それなのに、今は。
「……確かに僕はそんなことを言ったかもしれないな」
惚けるような言い方が、珍しく私の感情に火をつけた。
「かもしれない、じゃない! 言ったよ、君は!」
「だとしたらどうだと言うんだ? いったい何を怒っているんだい、君は。僕が疲れることに腹を立てているのか?」
「そうじゃないよ! そうじゃ……」
「訳が分からないな。君は何が言いたい?」
「……」
私は彼を突き飛ばすようにして教室を飛び出した。

腹を立てていたわけじゃない。
私は自分の気持ちを持て余しているのだ。
彼と過ごしているうちに、私の中に何かが産まれてしまった。
それは硬い殻に覆われたまま、永遠に閉じ込めていなければならないはずのものだった。
けれど彼の言葉はその殻に罅を入れてしまった。
閉じ込められていたそれは、あとほんの少しの力を加えるだけで、外に溢れ出してしまうだろう。
柔らかく、暖かな内部が不安と期待をもって、その時を待ち侘びている。
私にはそれをどうすることも出来ないのだ。
どうすることも。

何処をどう走ったのか分からない。
寮の部屋以外に行くあてなどあるはずもなく、私は再び學校へと戻ってきていた。
不気味なほど静まり返っている校内に、私の足音だけがミシリ、ミシリと響き渡る。
自分の教室に辿り着くと、暗がりの中を手探りで移動した。
中禅寺の席。
私はそこに腰掛けた。

薄い月灯りが汚れた窓硝子から射し込み、教室の中を辛うじて照らしている。
私は自分が何を望んでいるのか分かりすぎるほどに分かっていた。
これは私にとって大きな賭けだ。
どちらに転んだところで、苦しみは終わらないだろう。
しかも彼を道連れにしようとしているのだ。
私は卑怯だ。
とても卑怯だ。
あのとても冷たくて、とても優しい男は、必ず私を探しに来てくれるはずだと確信していながら。
「……呆れるな」
闇の中からした声に、息が止まるかと思った。
ゆっくりと近づいてくる気配に、鼓動が激しく鳴り始める。
私は自分が彼の席に座っていたことを思い出し、慌てて立ち上がった。
「随分と手間を掛けさせてくれるじゃないか。僕がここと寮とを何往復したと思っている?」
「……探してくれなんて、頼んじゃいないよ……」
僕のことなど放っておいてくれればいい。
そうすればこのまま暗闇に溶けてなくなってしまえるかもしれないのだから。
君にとってはその方がいいのだろう?
けれど、もしもそうでないのなら―――。
中禅寺は低く、静かな声で言った。
「狡いな」
私は凍りついた。
彼は分かっているのだ。
何もかも。
「自分から仕向けておいて、そういう言い草はないだろう。君は答えを求めている。違うかい?」
「そんなっ……僕は……」
「僕なら覚悟は出来ている。それでいいか?」
「……!」
いまや私の心臓は胸を破らんばかりになっていた。
逃げ出したくなるが、最早体のどの部分も自分の意志で動かすことは出来そうにもない。
中禅寺の大きな溜息が聞こえた。
「君は本当に面倒な男だな。こんなことは僕の予定にはなかったのだ。 それなのに、まったく……放っておくと何を仕出かすか分からない」
私は誰かに背中を押され、少しよろめいた。
それが中禅寺に抱き寄せられたのだと気づくまでに暫く掛かった。
「だから、しっかりと此処に居てくれたまえ」
そのとき、私の中で何かが壊れる音がした。
あんなにも激しかった鼓動が、次第に落ち着いたものになっていく。
本当にいいのだろうか。
これでいいのだろうか。
もう後戻りは出来ない。
溢れ出した想いを、もう一度仕舞い込むことなど出来ない。
もしかすると仕向けられたのは私の方だったのではないだろうか。
私は不安になり、おずおずと顔を上げた。
彼は応えた。
「……君といると本当に疲れるよ」
暖かいものが、私の唇に触れた。

- end -

2004.06.19


Back ]