忘却の泉


京極堂がお茶を淹れてくれている間、私は座卓に頬杖をついてぼんやりと外を眺めていた。
縁側の日溜りでは、この家の飼い猫である石榴が丸まって眠っている。
垣根の向こうに見える僅かな青空に、私は目を細めた。
「……ちょっと失敗したな」
後ろから京極堂が呟きながら、盆を手に入ってきた。
盆には湯呑みが二つ乗せてある。
「珍しいね。今日は出涸らしじゃないのかい?」
「ああ。千鶴子が出かける前に片付けていってしまったのだ」
言いながら京極堂は私の前に茶を置いた。
湯気と、お茶のいい香りが立ち昇る。
京極堂は自分の分も盆から取って置くと、向かい側に腰を下ろした。
「湯を沸かしすぎてしまったようだ。熱いぞ」
「うん」
私は湯呑みを手に取り、口元に運んだ。
「……熱ッ!」
本当に熱かった。
慌てて唇から離し座卓の上に置いたのだが、その拍子に湯呑みが倒れた。
「あッ!」
「馬鹿! 何をやってるんだ!」
お茶は座卓の上に広がり、そのまま端を零れてびちゃびちゃと畳を濡らす。
「あ、あぁ……」
「まったく……君はどうしてそうなんだ」
「……ごめん……」
私が途方に暮れている間に京極堂はやれやれと言いながら座敷を出て行くと、布巾を何枚か手に戻ってきた。
「熱いぞ、と言ったじゃないか。聞いていなかったのか」
「いや、聞いてはいたけど……あんなに熱いとは思わなかったんだよ……」
京極堂が零れて広がったお茶を拭き取る。
布巾はあっというまに水分を含んで使い物にならなくなり、その度にをれを盆の上に放り出しては、また新しい布巾を使う。
その間彼はずっと、鬼も逃げ出すような凶悪な面相をしていた。
「君が猫舌なのを知っているからこそ、注意してやったんだぞ。よほど熱いんだと思うのが当たり前じゃないのか。もう淹れてやらないからな」
「ご、ごめん……」
「大事な本を濡らされなくて良かったよ。……何処か火傷でもしてないだろうな?」
「あ、うん。強いて言えば唇が……」
京極堂がぱっと顔を上げた。
視線が私の唇に注がれる。
私は何故か気恥ずかしくなって、片手で口を覆った。
「い、いや、大丈夫だよ」
「……」
京極堂はごしごしと畳を拭き続けた。

「だいたい君は昔からそうだった」
京極堂の怒りは一向に治まりそうになかった。
いつもにも増して険しい表情のまま茶を啜る。
しかし結局、もう一度私に茶を淹れ直してくれたところをみると、怒っているというよりも呆れているだけなのかもしれない。
どちらにせよ、同じことだが。
「そこは危ないぞ、と言ってやったところで必ずこける。落とすなよ、と言った側から物を落とす。どうしてそんなに注意力散漫なのだ」
「そんなに酷いかな……」
今日ばかりは何を言われても止むを得まい。
私は身を縮めながら京極堂の説教を有り難く頂戴することにした。
「酷いなんてもんじゃないさ。学生時代もそうだったじゃないか。 やれ何を無くしただの何を忘れただのと言っては僕に泣きついてきて、いざ探すのを手伝ってやると、大抵はちゃんと抽斗に入っている。 落ち着いて探せばすぐに見つけられるはずのものばかりなのだ」
「そうだったっけ……」
確かにそうだったかもしれないが、具体的な出来事は思い出せない。
私が言葉を濁したのが気に入らなかったのか、京極堂は益々饒舌になる。
「そうだ、思い出したぞ。初めて寮の部屋で顔を合わせた時もそうだった。 入ってくるなりいきなり畳の縁に引っかかってよろめいて、風呂敷の中身をぶちまけたじゃないか。それも覚えてないのか」
「あ、それは覚えているよ」
本当は話を聞く直前まで忘れていたのだが、流石にそれは思い出すことが出来た。
あの粗末な部屋、呆れた中禅寺の顔、畳の上に散らかった私の荷物。
それらがまざまざと記憶に蘇る。

京極堂に自分の失態を次々と並べられているというのに、私はなんだか嬉しくなってきてしまった。
私はきっと他にもたくさんの事を忘れているのだろう。
言われて思い出すこともあれば、全く覚えていないこともある。
しかし忘れているだけで、本当は私達の間にはこんなにもたくさんの思い出があるのだ。
今になって共に過ごしてきた日々の長さを感じることが出来るのは、忘れていたからこそではないだろうか。
私の頬が緩んでいるのに気づいて、京極堂はぴたりと喋るのを止める。
「……何が可笑しい」
「え、いや」
例え忘れてしまうのだとしても、これからもたくさんの日々を積み重ねていきたい。
勿論、出来れば君との間に。
「その……今後ともよろしく」
私がそう言いながら頭を下げると、京極堂は一瞬驚いたような顔をして、それからぼそりと言った。
「……勘弁してくれ」
彼にしては歯切れの悪い言い方で、私は思わず笑ってしまった。

忘れることは失くすこととは違う。
記憶に無くとも、思い出は確かにそこにある。
積み重ね、やがてそれを忘れ、そしていつかまた思い出す。
君が側にいてくれる限り、その輪廻は続いてゆく。

そうやって私の中にある忘却の泉は、いつまでも澄んだ水を溢れさせているのだ。

- end -

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