冷たい雨
報告する義務なんて、無かったのかもしれない。
「雪絵さんと……結婚するよ」
雪絵のことはここに連れて来た事もあったから、中禅寺も中禅寺の細君も知っている。
特に千鶴子さんとは気が合っていたようだ。
二人とも、私達がいずれ結婚すると思っていたことだろう。
中禅寺は一瞬、手を止めて答えた。
「……そうかい」
それだけだった。
指先が頁を捲り、彼は読書に戻った。
何か言ってほしかった。
大笑いするのでも、罵るのでもいい。
何か。
部屋が静まりかえり、雨が降っていることに気づく。
さあという雨音の中に、本を捲る乾いた音が時折混じる。
私は座卓の向こうにいる中禅寺を見続けていた。
まるでこれが彼の姿を見る最後の時であるかのように。
冷えた座敷の空気が静けさを深めていった。
カチッ。
時計の針音がやけに大きく聞こえて、私は意識を引き戻した。
午後五時。
軒を打つ雨音が、僅かに強くなった気がした。
「……帰るよ」
私が言うと、中禅寺は漸く顔を上げた。
玄関先で、貸してくれと頼む前に傘が差し出される。
私はそれを受け取り、表へ出た。
吐く息が白かった。
「じゃあ……」
「ああ」
眩暈坂の風景は一様に薄灰色がかっていた。
白いはずの油土塀もくすんで見える。
流れる雨水が、濡れた坂に奇妙な模様を描き出していた。
私は雨音だけを聞きながら坂を下る。
いったい何をしに来たのだろう。
自分の結婚を告げに?
そうじゃなかった。
中禅寺に何かを言ってほしかったのではない。
私が中禅寺に何かを―――言いたかったのだ。
それに気づくと、坂の途中でぴたりと足が止まってしまった。
前に進むことも、後に戻ることも出来ない。
僕は言いたかった。
僕は、君に。
振り返ると、そこに中禅寺がいた。
ゆっくりと私に近づいてくる。
いつもの不機嫌そうな表情で。
雨の糸に、微かに遮られながら。
「ど、うして………?」
「君こそ……何故、立ち止まっている」
何故、追ってきたんだ。
君が現れなければ、僕はこのまま帰ることも出来たのに。
私の手から傘が離れて落ちる。
そのまま、私は中禅寺の胸にしがみついた。
「ちゅうぜ……っ」
目の奥が熱くなり、涙が溢れる。
中禅寺が私の背中をそっと抱いた。
その腕の中はとても暖かかったけれど、私の身体の震えは決して止まることはなかった。
どうして今頃になって気づいてしまったのだろう。
あの頃からずっと、君は側にいたのに。
ずっとずっと長いこと、君は僕を救ってくれていたのに。
いっそ永遠に気づかなければ良かった。
君がいつも言う通り、僕は本当に愚か者だ。
冷たい雨が降り続ける。
それはやがて雪になって、全てを白く覆い尽くすことだろう。
私の許されぬ想いはその雪の中で、深くて永い眠りにつくだろう。
- end -
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