IN VINO VERITAS
外はいまにも白いものがちらつきそうな曇天。
そんな中、暖炉の薪の爆ぜる音が時折聞こえるだけの静かな部屋にいると、まだ午後になったばかりだというのについ欠伸が出てしまう。
仕事に忙殺されているときには愚痴を零しておきながら、いざ休みとなると特別することもなく時間を持て余してしまうのはよくあること。
いい加減キルケゴォルにもうんざりした京一郎が二度目の欠伸を噛み殺したとき、傍で同じく寛いでいた千家がボォドレェルの詩集を閉じて言った。
「少し飲むか。お前も付き合え、京一郎」
どうやら千家もまた、京一郎と同じくらい退屈していたらしい。
こんな真昼間から飲酒など如何にもぐうたら者ではないかとやや抵抗を覚えたものの、折角の貴重な年始休み、少しは羽目を外しても罰は当たるまいと千家の提案を受け入れることにした。
而してテェブルに用意されたのは、濃いブラウンのボトルに入った値の張りそうな洋酒と水、そして二つのグラス。
琥珀色のそれを京一郎が注ぐと、二人は互いにグラスを軽く掲げ、それから口に運んだ。
「……」
正直に言ってしまえば、京一郎はこのウイスキィというやつがどうにも好きになれなかった。
物にも寄るらしいがなんだか煙臭いし、アルコォル度も強いので少し飲んだだけですぐに酔ってしまう。
これならば葡萄酒のほうが、欲を言えば日本酒のほうが良かったのだが、どうせ千家に却下されるであろうから黙っていた。
しかしその不満はしっかりと顔に出てしまっていたのだろう、千家は京一郎を見て嘲笑を浮かべた。
「ふっ、お前にこの酒はまだ早かったか」
「わ、私は何も言っていないじゃありませんか! 別にこれぐらい……」
揶揄われてむきになった京一郎は、勢いよく酒を煽る。
そして焼けるような熱が喉を一気に通った途端、激しく噎せてしまった。
「馬鹿。これはそんな風に飲む酒ではないぞ。そら」
「そんな、こと……ッ、知りません…よ……」
呆れた様子の千家に水を手渡されて、京一郎は咳き込みながら慌ててそれを飲む。
火傷したかと思った喉がすうと冷やされて漸く落ち着きを取り戻したものの、胃の辺りはまだカッカと火照ったままだった。
「はぁ……びっくりした……」
つい漏れてしまった本音に、千家がまたしても笑う。
「お前もまだまだ子供だな。酒の飲み方も知らぬようでは先が思いやられるぞ」
「はいはい、子供で悪うございましたね。その子供に何から何まで面倒見させているのは何処のどなたでしたっけ?」
「さぁ。知らんな」
「都合の悪いこととなると知らんぷり。まったく、どちらが子供染みているのか……。軍部の皆さんに教えて差し上げたいですよ」
京一郎の嫌味にも素知らぬ顔で、千家はグラスを傾けている。
その余裕綽々な仕草が矢鱈と様になっていて、つい見惚れそうになるのがまた癇に障るのだった。
京一郎は仏頂面になりながらも、それからは千家を真似て慎重にグラスを運ぶことにした。
「……お酒、どれぐらい飲めるんです?」
「さて、限界まで試したことが無いから分からんな」
「酔うとどうなるんでしょう。意外と陽気になったりして……」
己の口にした言葉ながら、明るく朗らかな千家を想像して、その気味悪さに京一郎は吹き出してしまう。
当然、隣りにいる千家は不快そうに顔を顰めた。
「おい、人を使って勝手な妄想に耽るのはよせ。お前こそ、もう酔い始めているのではないのか?」
「そ、そんなことはないですよ」
否定したものの、本当は一口飲むごとに視界が揺れ始めていた。
それでも他愛ない会話を交わしながら暫く飲み続けていたのだが、京一郎は矢張りこの酒を美味いとは思えなかった。
千家に言われた通り、これは己の味覚が未熟な所為なのだろうか。
そう考えたとき、ふと先日ある男に言われた言葉を思い出した。
「……あの」
「なんだ」
「私は実際の年齢に比べて、幼く見えるのでしょうか……?」
「……何を言っている?」
「あ、いえ」
言ってしまってから後悔した。
こんなことは千家に話すべきではなかった。
否、千家だけではなく他人に聞かせるような話ではなかったのだ。
それほど京一郎にとっては恥ずべきことだったのだが、つい口を滑らせてしまったのはこれも酒の所為だったのかもしれない。
しかし時既に遅し、その問い掛けは千家の関心を引いてしまった。
「何故、いきなりそんなことを言い出す」
「それは、その……貴方が私を子供扱いするので」
「ふぅん……?」
反応の鈍さに横目でチラリと千家を見れば、こちらの言い分などまったく真に受けていないと一目で分かる薄ら笑いを浮かべている。
隠し事の出来ない相手というのは心底面倒臭い。
京一郎は自棄になってまた酒を含んだ。
「もう、いいです。この話は終わりにしましょう」
「加藤大佐辺りに何か言われたか?」
「なっ……! 貴方、まさか」
一瞬、あの遣り取りを聞かれていたのかと焦ってしまったのが不味かった。
あのとき千家は間違いなく会議に出席していたのだから、そんなことあるはずがないのだ。
案の定、千家のしてやったりな表情は彼がただ鎌をかけてきただけだったことを証明していた。
「図星か。まあ、奴はお前に興味があるようだからな」
「興味、ですか……?」
「好意と言ったほうが分かりやすいか。……なんだ、気づいていなかったのか?」
「……」
確かに加藤大佐とは割と親しくしている。
千家の寵愛を受けていると軍部でも評判の京一郎は、その能力も含めて千家ともども恐れられている所為で他の者達からは遠巻きにされているのが常だ。
そんな中、気さくに声を掛けてくる大佐とはよく話をしたし、また彼は千家の唱える死霊兵の起用に関しても早くから理解を示してくれた数少ない人間だったから、京一郎もある程度は心を許していた。
しかし、どうやら千家はそこに別の下心を感じ取っていたらしい。
(そんな馬鹿なこと……)
京一郎はあのときのこと思い返してみた。
二階へ下りる階段の踊り場で大佐に会って、少し立ち話をしていたときのことだ。
現在、死霊兵が更に増えた為に軍の再編成を急遽行っていて、そのことについてだったのだが……話している途中に大佐の腹が盛大に鳴ったのだ。
真面目な話をしていたのに、その音があまりに間が抜けていて京一郎は思わず笑ってしまった。
すると大佐がはにかみながら言った。
―――君が笑うところを初めて見た。随分と可愛らしい顔をして笑うのだな。
そのときの京一郎は己が無礼を働いてしまったと思い慌てて謝罪をしたのだが、大佐は怒った様子もなく、二人は和やかなままにその場を後にしたのだった。
(……まさか、ね)
成人している男として「可愛らしい」などと言われるのは恥ずべきこと。
きっと大佐にも幼稚で頼りない人物のように思われたからこその、あの言葉だったはず。
矢張り千家の指摘は邪推としか思えず、京一郎はそれを鼻で笑い飛ばした。
「何を仰るかと思えば。貴方らしくもない妄言だ」
「妄言で済んでいるうちに、加藤とは距離を置け。いいな」
「どうしてですか」
「どうしてもだ」
千家はいつもこうだ。
肝心なところになるとだんまりを決め込んでしまう。
苛々して再び酒を煽れば、頭がくらりと揺れた。
グラスの中の酒はいつの間にか空になっていて、京一郎はボトルを手に取り更に酒を注ぐ。
最早、この酒が美味いも不味いもどうでもよくなっていた。
「だいたい私が誰に何を言われようと貴方に関係無いじゃありませんか。放っておいてくださいよ」
「お前は私の物だ。関係無いなどということはない」
「へぇ……」
後で思えば、このとき既に千家も酒が回っていたのかもしれない。
そして京一郎はと言えば、確実に酔っていた。
普段にも増してしつこい千家がなんだか可笑しくなってきて、京一郎はとうとう肩を揺らして笑い出した。
「ふふ……もしかして、伊織。貴方、妬いているんですか?」
「……」
「あれっ、まさか図星ですか? へえ、貴方でも人並みに嫉妬したりするんですね。あはは……可笑しい……」
「……黙れ」
千家にどれだけ凄まれても、酔っている京一郎には一向に気にならない。
それどころかかえって舌が回るようになってきて、けれど己が何を言っているのかはよく分からなくなってきてしまった。
もうどうにでもなれとばかりに開き直って京一郎は喋り続ける。
「嫉妬じゃなければ、どうして大佐と距離を置けなどと言うんです? 理由は?」
「京一郎……お前、本当に酔っているな」
「酔っていたっていいじゃありませんか。そんなことより、質問に答えてくださいよ。……ねえ、伊織」
京一郎は挑発するような微笑みを浮かべながら、千家にしなだれかかる。
しかし頭の片隅には未だ素面の己がいて、この愚問をせせら笑っていた。
千家が嫉妬などするはずがない。
彼の苛立ちは、ただ気に入りの玩具に手を出されたくない子供の我儘と同じだ。
だからきっと素気無く撥ね退けられるはず。
千家は暫く京一郎を睨みつけていたが、グラスの酒を一口含むとそのまま京一郎の身体を抱き寄せ、唇を押しつけてきた。
「……っ」
濃いアルコォルと一緒に忍び込んできた千家の舌が、乱暴に京一郎の口内を掻き回す。
いつもより高い熱に蹂躙されて、頭の芯が痺れていくようだった。
飲み込みきれなかった酒が唇の端から溢れて、顎を伝う。
不思議なことに、さっきまで不味いだけだった酒がやたらと甘く感じた。
酒に酔っているのかくちづけに酔っているのか分からなくなった頃、ようやくくちづけが解ける。
「……そうだ、と言ったら?」
「え……」
なんのことを言っているのか、すぐには分からなかった。
けれど少しの間の後、それがさきほどの問いに対する答えなのだと気づいたときにはかっと顔が熱くなった。
きっとみっともないほどに赤くなっていたのだろう。
それを千家にフと笑われて、ますます酔いが回る。
揶揄われたのだ。
「……っ」
悔しさを誤魔化すために今度は京一郎自らくちづけた。
唇を重ねたまま千家がグラスをテェブルに置いた音がする。
腰を抱えられ、ソファに倒された。
「ん、っ……」
昼間から酒を飲んで情交に興じるなど堕落しきっている。
けれど、今はそれでもよかった。
どうせ神をも恐れぬ罪深き所業に身をやつした者同士、今更恥じることもない。
「伊織ッ……」
首筋をきつく吸われて、京一郎はたまらず千家の髪を掻き乱す。
千家の掌が着物の襟を割って忍び込んでくると、京一郎はぶるりと身体を震わせた。
アルコォルで高くなった体温に、その感触はあまりに冷たかった。
それなのに肌に掛かる吐息はやはり熱くて、それが胸の尖りに掛かると京一郎は喉を見せて喘いだ。
「あっ……は、あ……伊織……」
「随分と敏感になっているな。酔うと淫乱になる性質か?」
「ち、が……」
弱々しく否定したけれど、千家が欲しくて堪らなくなっているのは事実だった。
けれどそれは酒の所為ではない。
千家が妙なことを口走るから。
彼の言葉はいつでも京一郎を狂わせる。
冗談とも本気ともつかないそれは京一郎を煽り、翻弄して、京一郎の全てを飲み込んでいってしまう。
「伊織……早く……」
「ふ……そう急かすな」
千家の指が躊躇いなく京一郎の下衣を剥いでいく。
それから自身の下衣も。
血を交える為でなく、陰陽の調和の為でもなく、ただ快楽を求めて。
恥じらいも何も無く、身をくねらせて京一郎は強請った。
「伊織…っ……」
「……なんだ。すっかりその気だな」
「あ、あぁっ……!」
既にひくひくと脈打っている屹立を千家に強く握り込まれて、京一郎は思わず悲鳴のような声を上げる。
「だ、駄目……そんなに、したら……!」
すぐにも弾けてしまう。
そんなのは嫌だ。
けれど千家は意地悪く笑みながら、ゆるゆると焦らすように手を動かしていたかと思うと、いきなり鈴口に爪を立てた。
「痛っ……! や、だ……!」
「……ふん、お前は痛いぐらいのほうが好きなのではないのか?」
「そんなこと…ない……! やめ……」
「ふぅん……」
「いや、だ……やめて、伊織……!」
それでもぐりぐりと指先で小孔を抉られ、京一郎は痛みと恐怖に慄いてやめてくれと懇願する。
それなのに先端からは次々に雫が溢れ、千家の手を濡らしていた。
「……やはり感じているのではないか。嘘吐きめ」
「違う……ち、が……」
「何が違う。厭らしい顔をしてよがっている癖に……。さては、あれにもそうやって色目を使ったのではないのか? なあ、京一郎」
「……!」
それが大佐のことを言っているのだと理解した途端、今度は快楽ではなく悔しさに頭の芯がかあっと熱くなった。
何故、そんな言い掛かりをつけられなければならないのだ。
千家は何を言っているのか。
「違う……私は、そんなことはしていない……!」
怒りのあまり、声が震えた。
鼻の奥がつんと痛んで、一気に視界が滲む。
よくもそんなことが言えたものだ。
以前、千家の部下から男娼扱いされたときに京一郎がどれだけ屈辱を覚えたか知っているはずなのに。
悔しくて悔しくて、我慢しようとしたのに目尻から溢れた涙が一筋こめかみを伝う。
こんなにも簡単に涙が出るのも、矢張り酒の所為だったのだろうか。
情けない顔を見られたくなくて、京一郎は唇を噛みながら腕で己の顔を隠した。
「……」
不意に京一郎の屹立から千家の手が離れる。
解放された安堵に、ほんの僅か身体から力が抜けた瞬間、顔を隠していた腕は強引に剥がされてしまった。
「……っ」
咄嗟に顔を逸らしたけれど、じっと見下ろしてくる千家の視線はしっかりと感じていた。
怒りと悔しさと、こんなことで泣いてしまったことへの恥ずかしさとで頭の中はぐちゃぐちゃだ。
やはり酒など飲むのではなかった。
酔って調子に乗って、言わなくてもいいことまで言ってしまって、言い掛かりまでつけられて。
碌でもないことばかりじゃないか。
「もう、いい……! 離せ……!」
頭に来た。
掴まれた腕を振り払おうとして京一郎は闇雲に暴れる。
拳は千家の頬を掠め、足先は千家の膝のあたりを蹴りつけた。
「っ、よせ、京一郎……!」
「煩い! 離せ!」
「京一郎!」
しかし千家に組み敷かれている体勢では、京一郎が圧倒的に不利だった。
暫く格闘していたものの手首に食い込む千家の指は決して緩むことはなく、体重に任せて圧し掛かられればすっかり動きを封じられてしまう。
やがて逃れることを諦めた京一郎は、乱れた呼吸に胸を上下させながら、せめてもの抵抗にと千家を睨みつけた。
けれど、今の己はきっと酷い顔をしているはずだ。
泣いて暴れるなど滑稽極まりない。
これでは子供扱いされて当然だ。
きっとどうせまた揶揄われるのだろうと京一郎は覚悟したが、千家はそうしなかった。
「……」
「伊織……?」
突然、濡れた目元にくちづけられて京一郎は戸惑う。
それから頬にも、唇にも。
くちづけは啄むように優しく、幾度も繰り返された。
「伊織……」
「……泣くな、馬鹿」
「あ、貴方が悪いんじゃないですか……」
囁きに乗じて、唇が重なる。
その直前に覗いた千家の瞳に確かな悔悟の色を見ていた京一郎は、そのくちづけに素直に応じた。
角度を変えながら舌を絡め合い、吐息を交わす。
京一郎の腕を解放した千家の指先が、労わるように京一郎の髪を梳く。
京一郎もまた解放された腕を千家の背中に回し、抱き締めた。
完璧な美貌と誰よりも明晰な頭脳を持ち合わせているこの男に、これほど不器用な一面が隠されていると誰が信じるだろう。
やはり千家も酔っているのだ、きっと。
「伊織……」
やがて千家が京一郎の足を抱え上げた。
剥き出しになった後孔に千家の熱が宛がわれる。
いつもの粗暴さはなく、それはゆっくりと京一郎の中を穿っていった。
「う…あっ……」
京一郎は千家の腰に足を絡めて、その身体を引き寄せた。
少しずつ満たされていくもどかしい感覚に腰が揺れて、堪らずに自ら求めてしまう。
もっと奥まで、もっと深く欲しい。
全身を重ねて、きつく抱き締めてほしい。
すっかり千家の容に慣れた京一郎の奥は、その熱を待ちきれずに震えている。
「京一郎……」
囁いた千家の吐息が微かに乱れていて、それだけで興奮してしまう。
やがてすべてを収めた千家の律動が始まった。
「京一郎……」
「あ、はぁっ……あぁっ……!」
中を掻き回され、奥を突かれるたびに、京一郎は甘い声を漏らした。
身体も頭の中も酷く熱い。
雪が降りそうなほどの寒い日であるにも関わらず、じわりと汗が浮かび上がってくる。
千家の長い髪が揺れて肌を掠めるだけで快楽が高まっていく。
「あぁ……伊織…は、あ……」
「…っ……」
身体を重ねるたびに魂ごと溶けていく二人だから、どうすれば感じるかなど知り尽くしていた。
言葉にせずとも全てが伝わってくるのだ。
何を想い、何を欲しているのか。
知ってほしいことも、知られたくないことも。
何ひとつ隠すことは出来ない。
髪の一本が、吐息の一呼吸が、どちらがどちらのものかも分からないほどになっていく。
千家の屹立が京一郎の中を突き上げるたびに、二人は少しの違いもなく欲望の解放に向かっていった。
「もう……伊織…っ……」
「分かって…いる……」
千家の動きが激しさを増す。
込み上げてくる吐精の予兆に微かな恐怖を覚えて、京一郎は千家の腕にしがみついた。
「あっ……伊織……伊織…っ…イく……あ、あぁッ……――――!!」
「……っ…!」
その瞬間、身体の一番深い場所に迸る熱を感じた。
同時に京一郎自身も弾けて、白濁した精を互いの肌に散らす。
頭の中が真っ白になって、乱れる呼吸さえも重なって、二人は暫くその余韻に浸っていた。
「……今日でひとつ年を取ったとは云え、やはりお前はまだまだ子供だな」
「……!」
暫くして不意に呟かれた千家の言葉に、京一郎は息を飲んだ。
またしても子供扱いされて悔しかったからではない。
今日が京一郎の誕生日であることを千家が覚えていたからだ。
(もしや珍しく酒に誘ってきたのも、その為―――?)
京一郎は恨みがましい目で千家を見やった。
「……狡いです」
「何がだ」
「覚えているなんて……」
「……」
そんなもの、どうせ忘れてしまっていると思っていたのに。
寧ろ忘れてくれて良かったのに。
すると千家の指が何処か躊躇いがちに、京一郎の乱れた前髪を掻き上げた。
「……祝って欲しかったか?」
問い掛けに、京一郎は左右に首を振る。
「いらない……」
そして千家の首に腕を回し、抱き寄せた。
「貴方とこうしていられれば……それで、いい……」
囁きは唇に奪われる。
今欲しいものは、ただこの温もりだけ。
今日は全てをアルコォルの所為にして戯れていたかった。
- end -
2015.01.28
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