灯火
ふと目が覚めたとき、部屋の中はまだ薄闇に包まれていた。
時刻でいえば午前四時頃だろうか。
起床するにはまだ少し早かったが、普段から睡眠が不規則であるのが当たり前な千家にとって、それは取り立てて珍しいことでもない。
但し己の置かれている場所が現世なのか常世なのかすぐには判断がつかないことも多かったが、今は隣りにある温もりのおかげで確かに眠りから覚めたのだと自覚出来ている。
いつものように千家の腕の中で眠っている京一郎に目を向けると、剥き出しになった裸の肩が規則正しい呼吸に合わせて僅かに上下しているのが見て取れた。
瞼はひたと閉じられたままで、白い頬に落ちる睫毛が動く気配は無い。
掌はまるで縋るように千家の胸の辺りに乗せられており、千家はその上に己の手を重ねると、しばらくそうして京一郎の寝顔を見つめ続けていた。
身体を繋げているときには濃艶ともいえる表情を見せる彼も、こうして眠る顔はまだあどけなくさえある。
その落差につい苦笑を漏らしたとき、ひたすら静かだとばかり思っていた窓の向こうから、さあさあと音にもならぬ音が聞こえてくることに気づいた。
雨だ。
そういえば昔は、夜に雨の音を聞くと安堵したことを思い出す。
幼い頃は眠ることが酷く恐ろしかった。
眠ってしまえば二度と目覚めることはないかもしれないという恐怖があったからだ。
意識が離れ、現実での肉体の自由が利かなくなるという意味において、千家にとって眠りと死は限りなく同義に近かったのである。
まして命あるものの多くが羽を休める夜ともなれば、既に命を失ったもの達がここぞとばかりに我が物顔で蠢きはじめる所為もあった。
暗い部屋、一人で眠るには広すぎる寝台に横たわっていると、何処からともなく囁きとも呻きともつかぬ何かの声が聞こえてくる。
耳を塞いだところで意味が無いと知ってからは、それが何を伝えようとしているのかなどと決して意識を傾けることのないよう、気を張るぐらしか対処のしようもなかった。
次には何か得体の知れないものが傍から覗き込んでくる気配。
千家はきつく目を閉じ、固い意志をもって心と五感を閉じる。
そうしてから満を持して魔を祓う為のまじないを唱えれば、死霊のほとんどは悲しげな声を上げながら遠のいていったが、中には想いが強すぎる故にしつこく纏わりついてきて恨みつらみを訴えかけてくる者もあった。
―――早く夜が明ければいい。
その頃既に神職十四家筆頭の血を継ぐ者としての矜持を植えつけられていた千家は、母や姉に助けを請うことなど考えもしなかった。
黄泉路へと引きずり込まれぬよう、そればかりを願いながら耐えていれば、やがて空が白み始める頃になってようやく眠りへと落ちていく。
しかしそれさえも柔らかな真綿の海へと身を預けるような優しいものではなく、底の見えない泥沼に足を取られ、なんとか這い上がろうとするも叶わず、精も根も尽き果てた後にとうとう沈んでいくような絶望を伴っていたのだった。
―――眠りたくない。
それは「死にたくない」という魂の叫びでもあった。
しかしその叫びは決して届かず、たとえ眠れたからといって恐怖から解放されるわけでもない。
寧ろ、それは更に近づいてくるのだ。
その恐怖がほんの僅か和らぐのが、雨の降る夜だった。
雨音に耳を澄ませていれば、死霊の声も薄れる気がした。
闇の中で目覚めても、窓を叩く雫の音が聞こえればそこが現世であるとすぐに分かった。
けれど、毎夜雨が降るわけでもなく。
そんな風だから千家にとって眠りはどう足掻いても休息とはならず、その為に寝付きも悪ければ寝起きも悪いという悪循環を繰り返すばかりだったのだ。
それなのに、京一郎と初めて共に眠った夜はまるで違っていた。
悪夢を見ることも、死霊の声を聞くこともない夜を千家は初めて過ごした。
完全なる静けさと、何者にも脅かされない眠りというものが、あれほどまでに安らかであることを千家は初めて知った。
先に目覚めていたにも関わらず、無粋な部下に扉を叩かれるまで京一郎の身体をしっかりと抱き締めたまま目を閉じていたのも、そんな安眠の余韻に浸っていた為だったのだ。
それでも常よりはずっと遅い時刻まで眠ることが出来た。
しかしその一方で無理矢理に身体を開かされ、心身共に傷を負った京一郎はひっきりなしにうなされていた。
千家と血を交えたことで、千家の持つ記憶までもが京一郎の中に流れ込んでしまったらしい。
恐怖と嫌悪から顔を歪めている京一郎は酷く苦しそうだった。
―――自分も、あんな顔をしていたのだろうか。
己に施された儀式についての記憶を、千家はほとんど持っていない。
覚えているのはただ繰り返されるまじないの声と血の匂い、そして揺れる蝋燭の炎だけ。
自分が覚えていない自分自身の過去を、京一郎が知っているというのはどうにも可笑しな気分だった。
「……」
千家は京一郎の手に指を絡めた。
眠る京一郎の様子は今やすっかり無防備になり、あの頃の警戒心は微塵も見えない。
無垢としか言いようのない安心しきった表情は、微笑みさえ浮かべているようだった。
信頼、安寧、情。
それは千家が今までの人生の中で誰かから求められたことも、与えられたこともないものだった。
当然、己が求めたこともなければ、誰かに与えたことも無い。
それらは千家にとって家族でもない赤の他人と、交わしたり、委ねたり出来るようなものでは決してなかったのだ。
だからそれがどんなものなのかも千家にはよく分からなかったけれど、それでも京一郎とこうして眠るようになってからは己の中で何かが変わっていくのを感じていた。
京一郎の力を欲していただけのはずが、いつの間にかそれだけでは無くなっていたこと。
傍で聞く京一郎の寝息に眠気を誘われ、たとえその向こうに雨風の音が聞こえたとしても、それは静けさを更に演出してくれるものでしかなくなっていたこと。
そうしてゆっくりと、柔らかな眠りへと落ちていけば、いつからか千家は悪夢ではない夢を見るようになった。
いつも真っ暗闇だったはずの場所に、小さな灯りが燈っている夢。
千家は導かれるように、その灯火へと近づいていく。
また、あの恐ろしい儀式が始まるのだろうか。
しかし、それは儀式で使われる蝋燭の炎ではなかった。
空に漂う灯りは本当に小さく、けれど確かにそこにあって穏やかに揺れている。
暖かい、と千家は思った。
そして千家はその灯火が消えてしまわぬよう、そっと両手を伸ばし―――。
「ん……」
そのとき、京一郎が微かに身を震わせた。
寒いのだろうか。
そう思った千家は京一郎から手を離すと、彼の肩に布団を掛けてやろうと身じろぎした。
しかしその途端、京一郎が千家の身体にひしとしがみつく。
しっかりと腕を巻きつけ、身体を摺り寄せてくる仕草はまるで幼子が母に甘えているかのようで、千家は半ば呆れつつも我知らず微笑んでいた。
京一郎は己が抱き締めているものを何だと思っているのだろう。
記憶の中の誰かなのか、それともただ暖かな枕を逃したくない一心なのか。
なんにせよ目覚めてその正体を知ったならば、顔を真っ赤にして飛び退くに違い無い。
彼は甘えた態度を見せることを、人一倍恥と感じる性分だ。
ましてや相手が千家となれば尚更。
しかしそのあと京一郎の唇から零れた掠れ声に、千家は思わず耳を疑った。
「……い、お……り……」
それは確かに千家の名であった。
京一郎は更に聞き取れないほどの小声でなにやらもごもごと呟きながら、千家の胸に頬を押し付けてくる。
どうやら己の縋っているものがなんであるのか、きちんと分かっていたらしい。
確かに眠っているにも関わらず、自分を置いて何処へ行く気かと咎めでもするかのように千家にしがみついていた。
「馬鹿……」
苦笑交じりに千家は呟き、愛おしそうに京一郎の頬を撫でる。
それから彼の身体をそっと抱き締めかえすと、もう一度目を閉じた。
闇の中に燈る小さな灯火を、決して消すまいと守るべく。
雨はまだ降り続けている。
- end -
2013.09.19
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