Starry Hades
恐らくは気付かぬうちに疲労を溜め込んでいたのかもしれない。
蒸し暑さの続く天候や、間断無く押し寄せてくる雑務、そしてなによりは己が持つこの特殊な能力の酷使。
全て納得尽くとはいえ決して愉快とはいえないその任務は、精神的にも肉体的にも確実に負担を強いてくるものだ。
だから普段通り千家と共に自動車で帰宅する途中、次第に気分が悪くなってきたのもその所為だったのだろう。
初めは胸の辺りが多少むかむかする程度だったのが、不快感はみるみる増して全身から冷汗が吹き出してきた。
どうやら乗り物酔いらしい。
なんとか邸に到着するまでは耐えようとしたのだが、どうにもそれまで持ちそうになかった。
「……すみません」
発した声は我ながら驚くほどに弱々しく、もしや千家に届かなかったのではと思ったがそんなことはなかった。
隣りで車窓を眺めていた彼はこちらを向くと、すぐに異変に気づいて京一郎の顔を覗き込んだ。
「どうした、京一郎」
「少し……気分が、悪くて……」
「おい。車を止めろ」
千家が運転手に停車を命じる。
程無くして車が路肩に止まると、京一郎は自らドアを開けて転げるように車から降りた。
そのままよろよろと縺れる足取りで道端に立つ街路灯に縋りつき、胃のあたりを抑えながら深呼吸を繰り返す。
こんなところで粗相をしたくないという一心で、込み上げてくる嘔吐感にきつく目を閉じ、歯を喰いしばって耐えた。
「……大丈夫か」
気付けば千家の声がすぐ傍から聞こえてきて、京一郎はうっすらと目を開ける。
後を追って車を降りてきてくれたらしい。
それでも顔を上げることまでは出来ず、滲んだ視界には千家の軍服の革帯と、長い黒髪の先が揺れるのが映るばかりだった。
「ええ……。もう少し休めば……良くなると思います……」
「そうは見えんな。お前、震えているぞ」
「あはは……」
実際、車の振動から解放されたことと外の空気を吸ったことで気分はやや良くなりはじめていた。
まだ冷汗は引かなかったし、出来れば蹲ってしまいたかったけれど、とにかくもう暫く時間が経ちさえすればなんとかなるだろう。
そう思いながら苦痛を堪えていると、不意に千家に肩を抱き寄せられた。
「あっ……」
縋っていた街路灯から引き離され、まだ力の入らない身体は呆気なく千家の胸に飛び込んでしまう。
こんな場所でと抵抗を覚えたものの、その温もりと嗅ぎ慣れた千家の香りに包まれると不思議なほどに落ち着いた。
だから京一郎は心の中で「今の私は具合が悪いのだから仕方がない」と言い訳をして、素直に身を預けることにした。
「すみません……少しだけ……」
「無理をするな」
いつになく優しい口調で言われ、背中を軽く撫でられる。
その仕草に深い情愛を感じて、こんなことならば偶には具合が悪くなるのも捨てたものではないなと、京一郎は口元を緩ませた。
そのまま京一郎は暫く千家の胸に寄り掛かり、千家もただ黙って京一郎の身体を抱き続けた。
街路灯のぼんやりとした灯りの下、静かに寄り添っていると互いの鼓動まで聞こえてくるような気がする。
五分、十分。
どれぐらいそうしていただろうか。
徐々に不快感は遠ざかり、胸のむかつきも治まっていった。
いつの間にやら汗も引いて震えも止まり、ようやく回復したと感じられたところで、京一郎は名残惜しさを振り切って千家の腕からそっと離れた。
「……もう、大丈夫です。お手数をお掛けしました」
「本当か。まだ顔が青いようだが」
「本当に大丈夫ですよ。ただ……」
京一郎はちらりと車を見る。
吐き気は既に治まったとはいえ、やはり今夜はもう自動車には乗りたくなかった。
此処からならば歩いて帰宅したとしても、然程時間は掛からないだろう。
それならば、ひとり夜の散歩と洒落込むのも悪くない。
京一郎は千家に言った。
「伊織。申し訳ないんですが、私は此処から歩いて帰ることにします。車に乗ると、また気分が悪くなりそうなので」
「車でもあと十五分掛からないと思うが」
「ええ。ですから、どうか貴方は先に帰っていてください。三十分もすれば私も戻れると思いますから」
「……」
千家は一瞬、不服そうに眉間に皺を寄せてから京一郎にくるりと背中を向けた。
そして車の傍で所在無さげに立っていた運転手に歩み寄ると、何かしら言葉を掛けてから再び京一郎の元に戻ってくる。
「伊織……?」
どうしたのだろうと首を傾げた京一郎の視線の向こうで、運転手が車に乗り込む。
そしてそのまま二人を置き去りに、誰も乗せることなく走り去ってしまうのを千家の肩越しに見た京一郎は、呆気に取られて目を丸くした。
「え? 伊織? どうしたんですか? 車……」
「歩いて帰るのだろう? なら、行くぞ」
千家はそれだけ答えて歩き出す。
まさか一緒に歩いて帰ってくれるとは夢にも思わず、京一郎は戸惑いながらも千家の後を追った。
「そんな……貴方まで付き合ってくださらなくても良かったんですよ」
「具合の悪い人間を独り置いていくほど、私は冷血漢ではないつもりだが」
「そうでしたか? それにしては相変わらず私が買ってきた煎餅を一緒に食べてはくれませんよね」
「……何故、ここでその話が出てくる」
「だって、結局いつも私一人で味わうことになるんですよ。それがどれだけ寂しいことだか分からないんですか? 嗚呼、伊織。貴方は本当に冷たい人です……」
「随分と元気になったようだな。さっさと帰るぞ」
「あっ、ちょ……どうせなら、ゆっくり帰りましょうよ」
「煩い」
千家の歩調が速まり、京一郎も慌ててそれに合わせる。
己が先程までの不快さなどすっかり忘れて、恥ずかしいほどに浮かれているのを自覚しながら、京一郎は千家の横に並んだ。
人通りも無く、街路灯もまばらになりはじめた暗い道に二人の足音だけが響く。
昼間の蒸し暑さも引いた夏の夜気は何処か清々しくさえあって、京一郎は何気なく夜空を仰いだ。
濃紺の空には幾つもの星が散りばめられ、それぞれが儚げに瞬いている。
「あ……あれは織姫星でしょうか」
そんな星の群れの中でもひときわ輝いているそれを見つけて、京一郎が言う。
実家である桃木村では、此処よりももっとたくさんの星が見えた。
いつの年だったか、やはりこれぐらいの時期に縁側で夜空を見上げながら、妹の櫻子に七夕の話をしてやったことを思い出す。
織姫と牽牛の言い伝えを聞いた櫻子は、「一年に一度とはあまりにも可哀想」と目に涙を溜めて怒ってしまい宥めるのが大変だったのだ。
京一郎の呟きに、千家も隣りで同じように空を見上げた。
「あれか……。そうだな、ベガともいうが」
「ギリシャ神話でしたか」
「ああ」
「確か、オルフェウスの……」
ベガはギリシャ神話に登場するオルフェウスの持つ竪琴が星になったものと言われている。
オルフェウスは妻のエウデューリケが死んだことをどうしても受け入れられず、冥土まで彼女を取り戻しに行くのだ。
彼の奏でる竪琴の音色の美しさとその熱意に打たれた冥王ハデスは、「元の世界に戻るまで決して後ろを振り向かない」という条件をつけてその望みを叶えてやることにする。
しかしながら後ろをついてきているはずの妻の気配が感じられないことに不安を覚えたオルフェウスは、地上を目前にして後ろを振り返ってしまう。
その瞬間、エウデューリケは再び冥土に引き戻され、結局彼女を元の世界に連れ帰ることは叶わなかったという。
「……あれって、伊邪那岐と伊邪那美の話によく似ていますよね」
「そうだな」
日本神話に描かれた、この日出づる国を生んだ夫婦神。
これもまた先に命を落とした妻を諦めきれなかった夫が、黄泉の国まで迎えに行く話だ。
ギリシャ神話と少しだけ違うのは、夫である伊邪那岐が愛する妻の変わり果てた醜い姿に恐れをなして自ら逃げ出したことか。
京一郎はその二つの伝説を思い浮かべ、ぽつり呟く。
「でも、どちらも死者を連れ戻すことには失敗しているんですよね……」
「……」
古の神々でさえも望んだことだった。
愛する者を失った悲しみを受け入れることが出来ず、この世の理に逆らってでも取り戻そうとした。
しかし、それは叶わなかった。
死者を甦らすことは出来ない。
否、してはならぬことなのだと。
けれど今、千家と京一郎はまさにその禁忌を犯している。
今更ながらその罪深さに京一郎が知らず身を震わせたとき、千家が静かに言った。
「―――私ならば、絶対に仕損じはしない」
「伊織……」
そう。
きっと千家ならば必ずや遣り遂げるのだろう。
大切な者を奪われることを黙って許すような人ではない。
それがどれだけ人の道に悖る行為だとしても、微塵も躊躇わず、完璧に遂行するはずだ。
見上げた千家の横顔はいつもと同じ冷たく無表情だったけれど、その瞳は昏くも強い、決して揺るがぬ意志を湛えていた。
「……そうですね。貴方ならきっと出来ると私も思いますよ」
「お前とて同じだろう。その異能があれば、出来ぬことではない」
「そういう話ではないと思いますけど」
「では、お前ならどうする? 諦めるか?」
「私ですか? 私なら……無理に連れ戻すよりも、そのまま共に黄泉に居ることを選ぶかもしれませんね」
お道化た口調で言ってはみたが、内心本気だった。
京一郎にとっては常世であろうと現世であろうと、何処へ行っても同じこと。
逃げもしない。
諦めもしない。
ただその人の在る場所こそが、己の在る場所だから。
二人は互いを見つめ、ふっと微笑みあう。
千家が京一郎に手を差し伸べ、京一郎はその手を取った。
煌く星空の下、絡み合う指先は決して離れることはないと告げていた。
- 了 -
2015.08.06
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