パレイドリア


日暮れ頃から降り出した雨は次第に激しさを増し、夜半を過ぎた今もなお窓硝子を強く打ち続けている。
その湿度は屋敷の中にまで重く広がり、二人の居る寝室も漆黒の天鵞絨を思わせる空気で満たされていた。
京一郎は既に一糸纏わぬ姿で寝台の傍に立っている。
そして漸くシャツの釦に指を掛けた千家をじっと見つめていた。
無造作に脱ぎ捨てられた服は音も無く床の上に落ち、やがて暗闇の中に千家の裸体が浮かび上がる。
鍛え抜かれ、無駄なく筋肉のついた身体はまるで西洋の彫刻を思い起こさせたが、その美しさを台無しにするかのように肌の表面は数多の醜い痕で埋め尽くされていた。
まるで生き物が這っているかのように、何かの模様が描かれているかのように、痕は少しずつ増えて千家の肉体を浸食していく。
そんな千家の痕を前にするたび、京一郎は倒錯した悦びを覚えるのを禁じえなかった。
この無数の傷をつけたのは、紛れも無く自分なのだ。
千家を呪詛の苦しみから癒す為、血の力で支える為、京一郎は幾度も彼の身体に刃を当ててきた。
彼の身体に傷をつけることを許された唯一の存在である自分を、京一郎は誇らしくさえ思っている。
そんな京一郎の視線に何かを感じ取ったのか、千家は京一郎に一歩近づきながら僅かに微笑んだ。
その妖艶な笑みにともすれば歪な欲望を抱いてしまいそうになるのを押し殺して、京一郎は千家に尋ねる。
「……今日は何処にしましょうか」
あくまで淡々と、作業をこなすように。
上辺だけの笑みを浮かべながら刀を抜こうとした京一郎の手を、しかし千家がはたと止める。
「伊織……?」
「今夜はいい」
「え? ですが……」
「いいと言っている」
確かに今日の千家は顔色も然程悪くなかった。
身体の怠さを感じているとき特有の物憂げな表情も見られなかったように思う。
それでも寝室に入るなり服を脱げと命じられたものだから、てっきり血を交わすのだとばかり思っていたのに。
しかしどういうわけかと問い詰める間もなく、京一郎は千家に腰を抱き寄せられると、あっさり唇を塞がれてしまった。
「んっ……」
傷をつけ合わずに肌を重ねることは珍しくない。
けれどそれを苦手だと感じ始めたのはいつ頃からだろう。
二人が情交を重ねるのは千家を襲う呪詛の苦痛を祓うためであり、陰陽の力の調和を得るためだ。
もちろんそれに付随する快楽や生理的な欲の発散もあるだろうが、いずれにせよはっきりとした目的がある。
互いの身体を繋げることに、それ以上、それ以外の意味はない。
そう自覚しているはずなのに、血を交えずに肌を合わせていると、ときに錯覚してしまうことがある。
この行為には、何か別の意味があるのではないかと―――。
「京一郎……」
唇が触れ合ったままに名を呼ばれ、京一郎は閉じていた瞼を薄く開く。
睫毛さえも重なり合ってしまいそうな距離で、深い闇を湛えた千家の瞳が真っ直ぐに京一郎を射抜いていた。
「い、お……り……?」
「何を考えている? 上の空だな」
「……」
違う。
何も考えたくなんかない。
それなのに、あなたの所為で。
心の内の恨み言は音を成さず、京一郎はそのまま寝台へと押し倒された。
「ん、ふ……」
覆い被さってくる千家の重みもあって、京一郎は柔らかな布の海へと沈み込む。
接吻は深くなるばかりで息をつくのさえ難しかった。
蠢く舌は京一郎の口内を好き放題に蹂躙し、喉の奥を通る吐息さえ飲み込んでしまう。
そのうえ千家の長い髪が頬や首筋にはらはらと落ちてくるものだから、京一郎はそのまま己が蛇に巻かれるように千家に絡め取られる様を思い浮かべてしまった。
(蛇―――)
自ら思い浮かべておきながら、その存在にぶるりと悪寒が走る。
それは千家の持つ力の源であり、呪縛でもある禍々しい魂。
あれにいつか千家が連れ去られてしまうのではないかという恐ろしい予感がふと過ぎって、京一郎は思わず夢中で千家の背中を掻き抱いていた。
「……京一郎?」
不安はすぐに伝わってしまう。
身体を起こそうとする千家に京一郎は自ら首を伸ばして、離れていく唇を追った。
「伊織……」
嫌だ。
この人は何処にも行かせはしない。
誰にも奪わせない。
京一郎は必死に千家にしがみつき、二人はただ只管にくちづけを続ける。
(嗚呼、まただ―――)
次第、京一郎の中に得体の知れない感情が湧き起こってくる。
今や京一郎は互いの血が齎す快楽も、貫かれる悦びも充分すぎるほどに知っていた。
それでも、こうして抱き締め合っているときに覚える感情だけはよく分からない。
分からないのに、触れ合う胸と絡まる足が、伝わる体温と身体の重みがそれらを呼び起こしてしまう。
ただ強く抱き締め合い、唇を重ねていられるのなら、快楽など無くても構わないとさえ思ってしまう。
この気持ちはなんなのだろう。
指先に幾つもの痕を感じながら、幾度も角度を変えて口腔を深く探る舌に応えるうち、京一郎の意識は朧になっていく。
しかしそのまま沈みかけたところを強引に引き戻すかのように、千家の爪が京一郎の胸の尖りを引っ掻いた。
「んんっ……!」
思わず声が漏れ、身体が跳ねる。
その期待通りの反応に、千家が愉快そうに喉の奥で笑った。
「お前は本当にここが好きだな……」
「っ……誰の、所為で……」
「……ふ……私の所為だとでも?」
「当たり、前……!」
千家が喋りながらも乳首への愛撫を続けるので、京一郎は恨み言を言いつつも身悶えしてしまう。
そもそもがそんな場所で快感を得るような身体ではなかったのに、今では少し触れられただけですぐに硬く尖ってしまうのだから恥ずかしくて堪らなかった。
しかし京一郎の形ばかりの抵抗など、千家には甘い嬌態としか見えないのだろう。
千家の顔が胸元へと移動すると、今度はその場所に舌が伸ばされる。
「や、あっ……伊織……!」
いつものように歯を突き立てることもなく、舌の先で周囲に円を描かれればむず痒いような疼きが湧き起こる。
指先で弄られ続けた片方は、既に痺れたようになっていた。
与えられた快楽は次第に下肢へと広がり、京一郎の中心が頭をもたげはじめる。
それにつれて無意識に腰が揺れ、千家の足に擦りつけようとするも千家はわざと身体を離してしまう。
京一郎がどう感じていて、どうしてほしいと思っているかなど全て承知しているくせに、千家はなお楽しそうに京一郎の望みとは別の愛撫を続けるのだ。
「伊織……伊織……」
ついさきほどまで快楽など無くても構わないとさえ思っていたのに、慣らされきった身体は貪欲にその先を求めてしまう。
感じれば感じるほどに、京一郎は泣き出しそうな声で千家の名を呼んだ。
どうやらそれは千家の気に入りのようで、呼ばれるたび彼は満足そうに目を細める。
だから千家は京一郎がそうするように、わざと焦らすのだ。
肌の上に己と同じ数だけ刻まれた痕にも舌を這わせると、京一郎の身体は微かに震えながらその色を朱に染めていった。
「伊織……!」
もう我慢出来ないとばかりに京一郎は千家の首に腕を巻きつけて引き寄せる。
すっかり張り詰めて脈を打ち始めている京一郎の屹立が、千家の下肢に触れた。
その先端から既に透明な雫が滲み出ていることに気づくと、千家はそれを指先で掬い取って京一郎に見せつけながら笑う。
「京一郎、お前……。最近は血を交えないときのほうが我慢が利かなくなっているようだな。何故だ?」
「そんなの……知らな……っ……」
京一郎は顔を背ける。
そんなものは見たくない。
知りたくもない。
千家はそれ以上言わず、ただ濡れた指先をぺろりと舐める。
それから身体ごと更に下へと移動させると、あろうことかその京一郎の屹立の先端にくちづけた。
「あ、ぁっ……!」
驚きと羞恥に千家の行為を拒絶しようとしたときには、京一郎のものは千家の口にすっかり含まれてしまっていた。
熱く湿った口内で舌を絡められ、あまりの強い刺激に京一郎の腰ががくがくと痙攣する。
「だ、め……伊織……! 伊織!」
すぐにやめてほしいのに、太腿の内側を押さえつけられていて足を閉じることが出来ない。
京一郎は足を大きく開かされたまま、顔を左右に振ってその強すぎる快楽に耐えた。
千家は雨音にも紛れない卑猥な水音を立てながら、京一郎の屹立を口淫している。
半ば強引にさせられることはあっても、こんな風に一方的にされたのは初めてだった。
何故か酷く居た堪れなくなって、京一郎はとうとう懇願する。
「本当に、やめて……やめて、ください……伊織……」
京一郎の必死の訴えに、千家が漸く顔を上げてくれる。
けれど表情はあくまでも意地悪く、妖しい薄笑みを浮かべていた。
「お前は私のものだ。私のしたいようにして何が悪い」
「だって……」
「まったくお前は……。拒絶の言葉ばかりでなく、たまにはしてほしいことを強請ってみてはどうだ? そうすれば、少しは可愛げもあるものを」
クスクスと笑いながら千家は京一郎の首筋に顔を埋める。
してほしいこと―――。
もしも本当に望みを叶えてくれる気があるのなら、教えてほしかった。
私はどうしてこんなにも、あなたを失いたくないと思っているのか。
あなたはどうしてときどき、酷く優しい目を私に向けてくるのか。
本気の恋をする前にあなたと出会ってしまった私には分からない。
共犯者だから。
半身だから。
本当に、それだけ―――?
「……どうした、京一郎?」
「あっ……!」
既に幾度も噛まれたことのある場所に軽く歯を立てられて、京一郎はそれだけで達してしまいそうになった。
身体を震わせながらなんとかそれに耐え、京一郎は呟く。
「そんなの……言えるわけがない……」
「何故だ?」
千家が聞き返す。
そうだろう。
この人にはきっと分からない。
でも、分からないままでいい。
私の望みなんて聞かなくていい。
京一郎は千家の身体をきつく抱き締め、その耳朶を甘く噛みながら言った。
「伊織……もう、いいから……早く……」
「ふ……それだけか? つまらん奴だな」
笑みを含めた声で言いながら京一郎の涙の滲む目尻にくちづけて、千家は京一郎の足を抱え上げる。
期待に震える後孔は千家の猛りがほんの僅か触れただけで快楽に跳ねた。
ぐっと腰を落とされ、貫くのか飲み込むのか焼けるような熱が京一郎の中を穿っていく。
「あぁっ……あ……!」
千家の冷酷な相貌からは思いも寄らないほどの熱。
京一郎だけが知る熱だ。
血も肉も何もかもがひとつになろうとして、全身が千家を求めて絡みついていく。
京一郎は霞んでいく視界の中にそれでも千家の顔を見上げた。
「伊織……」
根元まで飲み込むと、京一郎は千家の頬に触れた。
やはり綺麗な人だと思う。
けれどこの人が恐ろしいまでに美しいのは、想像を絶する孤独と恐怖の果てに力を得て生きてきたからなのだ。
感情を殺し、心を殺し、ただ己に課された天命の為だけに。
その深淵を京一郎が本当の意味で理解出来ることはきっとないだろう。
それでも彼が自分を必要としてくれる限り、ついていこうと思う。
千家と同じように感情を殺し、心を殺し、千家伊織の半身であるという天命の為に。
もはや京一郎にもそれ以外の選択肢は残されていないのだから。
「……京一郎」
千家の声に、繋がった場所が甘く疼く。
早く。
もっと奥まで来て。
やがて千家の律動が始まると京一郎は千家の腰に足を絡め、その身体を強く引き寄せた。
内壁を激しく擦られ、奥深くを突かれるたびに声が漏れる。
「あっ、はぁ……伊織……伊織……!」
もう、雨の音さえ耳に入らない。
千家のものは京一郎の中を掻き回し、弱いところを的確に突き上げる。
身体のことならば全て知られている。
心は―――きっと、千家はそんなものなど必要としていない。
だから知ろうとも思っていないだろう。
睦言を真似て交わされる言葉はいつも戯れのようで、あとはただ互いの瞳の中に見える心の欠片を繋ぎ合わせて推し量るばかり。
だから、言ってはいけない。
求めてはいけない。
きっと、それは錯覚なのだから。
あまりの肌の暖かさに、触れる手のあまりの優しさに、貫かれることのあまりの快楽に―――錯覚している。
こんなにも感じるのは、血を交えた者同士だからだ。
もっとひとつになりたいと願うのは、相反する力を持つ半身だからだ。
それ以外の理由などない。
無いというのに。
「伊織……!」
千家が更に律動を速めると、京一郎は恐怖を覚えた。
これ以上は本当に我を忘れて、決して口にしてはならない言葉を叫んでしまうかもしれない。
だから京一郎は千家の身体から手を離すと、己の手の甲をきつく噛んだ。
「んっ……! ん、うぅッ……!!」
寝台が軋み、身体の奥から激流が上ってくる。
もうあと少しも耐えられそうにない。
京一郎の全身に緊張が走り、後孔が千家のものをきつく締め付けた。
「う……ふ、うぅっ……―――!!」
己の皮膚に歯を立てたまま、京一郎は吐精した。
びくびくと跳ねる屹立から白濁した精が迸り、平らかな腹の上に散る。
それと同時に、震える体の奥で千家のものが注がれるのをも感じた。
「くっ……!」
最奥を突き上げながら千家が達する。
それでもまだ京一郎の中は千家を離すまいとしていた。
幾度も腰が震えて精が放たれ、やがて京一郎の耳に雨の音が戻ってくる。
乱れた呼吸もそのままにしばらく息を弾ませていると、ふと千家が京一郎の手を取った。
「……血が出ている」
「あっ……」
千家が京一郎の傷に舌で触れた。
舐められたそこはじんと熱を持ち、恍惚の余韻に溶けていく。
「お前の血は一滴も無駄にはせんよ」
「伊織……」
京一郎が半ば呆れたようにくすりと笑うと、そのまま千家は再び京一郎に覆い被さり二人はくちづけを交わす。
自らの血の味が微かにするくちづけ。
雨の音は更に強くなり、遠雷が聞こえた。
「伊織……」
汗ばんだ千家の肌を抱き締めながら、京一郎は不意に泣きたくなる。
こんな感情は不毛だ。
殺さなければならない。
必要ないのだ、千家を愛しいと思う心など。

―――私の全てがあなたのものならば、この心ごと貰ってくださるのですか?

違う。
全ては愚かな錯覚。
それは愛ではない。
恋でもない。
ここにあるのは、ただ天命のみ。
それだけなのだから。

- end -

2013.07.03


Back ]