熱帯夜
熱い。
焦熱地獄にでも堕とされたか、はたまた煉獄の炎で炙られているのか。
否、その熱は身を焼くような類のものではなく、もっとずっしりとした確かな質量を伴っていた。
皮膚に纏わりつく、粘ついた熱の塊のような。
京一郎はそれから逃れようと暗闇の中を必死に這いずり回るも、呆気なく捕らえられ、動きを封じられてしまう。
熱い。
どろり、ぬるり、と絡みついてくる。
どれだけもがいても、喚いても、決して逃れることは出来ない。
熱くて熱くて、このままでは死んでしまいそうだ。
焼かれてしまう。
溶けてしまう。
爛れてしまう。
熱い。
アツイ―――。
「……ッ!」
喉の奥からひゅっ、という奇妙な音を立てながら、京一郎はなんとか空気を肺に送り込んだ。
心臓は激しく鼓動を打ち、苦しさに胸は大きく上下している。
恐怖に見開いた目には、朝の訪れはまだ遠いことを知らせる暗い天井が映るばかり。
「はっ…ぁ……はぁ…はぁ……」
乱れた呼吸はなかなか整わず、海底から無理矢理引き上げられた深海魚のように喘ぐ。
酷い悪夢を見ていたことだけは確かに記憶していた。
灼熱の炎に焼かれる夢―――違う、炎は無かったのだ。
ただ、とにかく熱かった。
熱くて熱くて、息苦しくて……。
「……?!」
そのとき京一郎は己が何故そんな悪夢を見る羽目になったのか、その原因に漸く気がついた。
熱いのではなく、暑いのだ。
あと数日で八月に入ろうとしているのだから当然といえば当然なのだが、今日は気温も湿度も殊更高かったように感じる。
それは昼間だけではなく陽が沈んでからもたいして変わらず、今もまだ部屋の中にはじっとりと蒸し暑い空気が満ち満ちているのだった。
加えて、原因は他にもあった。
寧ろ、こちらのほうが影響は大きいだろう。
ベッドの中、ただでさえそのように暑い夜だというのに、京一郎はもうひとつの体温にしっかりと抱き竦められていたのである。
もうひとつの体温の主というのは無論、千家伊織だ。
今宵もいつもどおりに身体を重ね、素肌も露わなままに抱き締め合いながら眠りについた。
しかしやはりこの暑さには勝てなかったのであろう、京一郎は我知らず千家の腕の中から逃れようとしたらしい。
ちょうどベッドの中央辺りで眠っていたはずが、いまやそこから落ちる寸前。
一方で千家もまたそんな京一郎を眠りながら無意識に追ったのか、結局京一郎はいまだ千家の腕にすっぽりと収まっていた。
それだけではない。
汗ばんで湿った京一郎の肌には、千家の長い黒髪までもが絡み、貼り付いている。
胸に、首に、頬に。
それはさながら蜘蛛の巣に捕らえられた虫のごとく。
悪夢の正体はまさしくこれに相違なかった。
「うぅっ……もう……!」
彼に塵ほどの悪意も無いことぐらいは、よく分かっている。
分かってはいるが今はとにかく暑さと汗でべとつく肌が気持ち悪くて、京一郎は半ば八つ当たりのように己に纏わりつく千家の髪を振り解いた。
それから身体に巻き付いている腕も乱暴に引き剥がす。
千家は瞼を閉じたまま一寸だけ不快そうに眉を寄せたが、幸い目を覚ますまでには至らなかった。
そうして京一郎はベッドを下りると、千家の向こうに広く空いた領域、すなわち今まで眠っていたのとは反対側へと移動する。
改めて横たわったシーツは僅かにひんやりとしていて気持ちがいい。
少し離れた隣りには、こちらに背を向けて眠る千家の姿があった。
(ごめんなさい、伊織。でも暑いんです)
ほんの少しの罪悪感を胸に、京一郎は程無く再びの眠りへと落ちていった。
しかし京一郎の安眠はまたしても長くは続かなかった。
突然、背中と頭の後ろ辺りにドン、という鈍い衝撃を感じて目を覚ます。
今度の視界にはなにやら見慣れぬ光景があった。
長い毛足の布と、あれは……テーブルの脚だろうか。
そういえばあの長椅子にも見覚えがあるが、何故己はあれらを見上げるようにしているのだろう。
しばらくぼんやりとしているうちに、はたと気づく。
どうやらここは千家の寝室に変わりないが、京一郎の目線だけが異常なまでに低くなっているのだった。
「あ、れ……?」
痛む頭を擦りながら、京一郎は起き上がる。
なるほど己はとうとうベッドから落ちたらしい。
既に白々と明るくなりはじめている部屋の中、床の上に呆然と座り込んだままで、なんとは無しにベッドの上に視線を向けた。
すぐ傍で千家がこちらを向いて眠っている。
そう、反対側で背中を向けていたはずの千家がすぐ目の前にいるのだ。
まさに京一郎に続いてベッドから落ちそうなぎりぎりのところで、京一郎以外には決して見せたことがないであろう穏やかな寝顔を晒して。
「伊織〜……」
京一郎は脱力した。
暑さゆえに京一郎が逃げる。
そして、それを千家が追う。
眠りながらの追いかけっこを繰り返して、とうとう京一郎はベッドから落ちたのだろう。
どうせ追ってくるならば、せめて落ちることだけはないようにそれこそしっかりと抱き締めておいてくれればいいものを。
その怒りが矛盾したものだと自覚しながら、何も知らず眠っている千家がやはり腹立たしくて堪らない。
京一郎はすっくと立ち上がると、千家の肩を揺さぶりながら耳元で怒鳴った。
「伊織! 貴方の所為でベッドから落ちましたよ! ちょっと、聞いてるんですか?!」
早朝からの大声に、さすがの千家も目を覚ます。
「……なんだ、京一郎……喧しい……」
「喧しい……じゃありませんよ! ベッドから落ちたんです! 貴方の所為ですからね!」
「……」
御門違いな非難を浴びせかけられ、千家の眼が半分ほど開く。
そうして傍で仁王立ちしている京一郎をしばらくぼうっと見つめていたが、ようやく事情が飲み込めたのか突如ふっと破顔した。
「落ちたのか……? ベッドから」
「そうですよ! 逃げても逃げても貴方が追いかけてくるから……わぁっ?!」
いきなり腕を引っ張られて、京一郎は勢い千家の胸に倒れ込む。
千家はクスクスと笑い続けながら、京一郎を再びベッドへと引きずり込んでしまった。
「ちょっと、伊織……! なにを……」
「くく、落ちたのか……馬鹿だな、お前は……」
「……」
もしかすると千家は未だ寝惚けているのかもしれない。
そうでなければこの男がこんなにも素直に、楽しそうに肩を揺らして笑うはずがなかった。
その柔らかでいかにも優しげな声と表情に、京一郎はついつい毒気を抜かれてしまう。
抵抗する気も失せておとなしく千家の腕の中に収まると、その胸に頬をすり寄せた。
「まったく……笑い事じゃありませんよ」
「そうだな。怪我は無いか? 何処か痛むところは?」
「い、いいえ。そこまでではありません」
「そうか」
そんな風に労わられると本当に調子が狂ってしまう。
どうにも気恥ずかしくなって、京一郎は話題を変えることにした。
「……暑くないんですか?」
そもそもがこんなことになった原因は其処にあるのだ。
いくら常人とは思えぬ振る舞いばかりする千家とて、暑い寒いぐらいは感じるであろうに。
その証拠にこうして触れている千家の肌もまたうっすらと汗ばんでいる。
京一郎の問い掛けに千家は事もなげに答えた。
「暑いな」
「でしたら、離れて眠ればいいではありませんか。私は自分の部屋に行っても構いませんし……」
「駄目だ」
「何故です」
「……」
暑いと確かに感じていながら、千家は京一郎を離さない。
それどころか、追ってくる。
その理由が京一郎には分からなかった。
「……眠れん」
「え?」
千家はぽつり呟いて、京一郎の頭を胸に抱え込む。
そうして髪に顔を埋めると、やがてまたしても規則正しい寝息を立てはじめてしまった。
それがまるで縋られているように感じて、京一郎の胸は甘い痛みに疼く。
(仕方ありませんね……)
そういえば千家は京一郎を得て初めて、心穏やかに眠れるようになったのだと言っていた。
最近では共に眠っていても、あの禍々しい呪詛体儀式の夢を見ることも少ない。
眠る間にも求められているのだと思えば、少しの暑さぐらいは我慢出来るような気がした。
「だったら私の抵抗なんかに負けず、ちゃんと抱いていてくださいよ……」
もうベッドから落ちたりしないように。
これからもずっと、決して離れることのないように。
京一郎は目を閉じて、己も千家の背中に腕を回す。
眠っているはずの千家がそれに応えるかのように、京一郎を抱く腕に力を込めた。
二人が起床しなければならない時間までは、もうあと僅かだった。
- end -
2014.07.16
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