朔の夜
「……なんだか、寂しくなりましたね」
夜も更け、千家と共に漸く三宅坂から帰宅した京一郎がふと、そう零した。
二人を出迎えた家僕にもう下がって良いと伝えた直後のことだった。
「寂しい?」
「ええ。私が来たばかりの頃に比べて、随分と人が減ったでしょう? 広いお邸だけに、がらんとしてしまったような」
二階への階段を上る途中で足を止め、京一郎は階下を振り返る。
以前は神職十四家の者が大勢出入りしていた為に軍服姿の男たちが年中邸内をうろついていたのだが、
京一郎が軍に所属するようになってからは千家の命で次々と側近の任を解かれ、彼らはここから離れざるを得なくなってしまった。
ついでに千家の身の回りの世話をする役目さえ京一郎がほとんどを担ってしまった為に、家僕の人数も減ったのだ。
すっかり人の気配が感じられなくなった邸の中はしんと静まり返っていて、今の夜遅い時刻とも相俟ってやたらと物寂しく感じられた。
「こんなに立派なお邸なのですから、傷まないようにしなくてはなりませんね」
当然、使われない部屋や場所も増えた。
人が住まなくなると家はすぐに傷んでしまう。
この邸を維持することは千家の立場に鑑みても重要なことだろうし、なによりここは千家にとって家族との思い出がある大切な場所のはず。
だからこその言葉だったのだが、返ってきた千家の反応はそんな京一郎の気持ちをまったく理解していないものだった。
「この家のことは、お前の好きにすればいい」
「……は?」
「使い道に思い当たることがあるのなら、改築しても構わん。売り払うのは流石に私がいなくなってからにしてもらいたいものだが、どうせいずれはお前のものになるのだからな」
「……」
それを聞いて、京一郎の顔が強張る。
まただ。
最近の千家はこういった無神経なことを度々口にするようになった。
具体的に言えば千家がこの世を去った後の、京一郎の身の振り方に関してだ。
土地、邸宅、会社の株やその他諸々の名義と権利。
有形無形を問わず、千家家が所有しているあらゆる財産のほぼ全てを京一郎に残すと千家は言う。
それに加えて京一郎が軍に残るも退役するも、引き継いだものをどう処理するかも、何もかも京一郎の自由だと。
今後、生まれ育った村に帰ることも、新たな家庭を築くことも出来ないであろう京一郎が生涯衣食住に困らぬようにという、
それらは千家にしてみれば京一郎に与えるべき当然の権利であり、また京一郎を安堵させる為の気遣いに他ならなかったのかもしれない。
しかし京一郎にとってはただ只管に激しい憤りと深い悲しみを覚えさせるものでしかなかった。
何故、千家が去ったこの世で己一人が生き続けなければならないのか。
初めから私を置いて独りで逝くことが前提なのか。
私は貴方の共犯者ではなかったのか。
それなのに、今更どうしてそんなことを―――。
幾ら京一郎が拒もうとも既にそういった手続きが済んでいるものもあるらしく、千家には軽く流されてしまう。
どうやらそのことがどれだけ京一郎を傷つけているのかにはまったく思い至らないらしい。
それはある意味千家らしいことでもあったが、この遣り取りが繰り返されるたびに京一郎の心は少しずつ疲弊していった。
「……」
京一郎は項垂れる。
ここに来て一年近く、ようやく千家伊織という人間を解り始めたつもりでいた。
己の野望の為ならば平気で冷酷非道になれる一方で、心の奥底には確かに温かな情を秘めている人なのだと知った。
傲慢な態度と素っ気ない物言いの中に、素直でない優しさや労わりを感じられるようにもなった。
それは血の交わりによる同調の所為だけではなかったはず。
けれどこの話になるといつも、千家の真意を肝心なところで見失ってしまうのだ。
もしかすると試されているのかもしれない。
何も残してくれなくていい、貴方が死ねば後を追うという言葉を引き出したいが為の千家なりの駆け引きなのかもしれない。
それだけ不安なのか、それとも心からは信用されていないということなのか。
―――だが、もうどうでもいい。
千家の真意がどこにあろうと、もう何もかもがどうでもよくなってしまった。
決して通じ合うことのないやりきれなさに疲れたのかもしれない。
だから京一郎は力無く呟いた。
「……そうですね」
少し先を行っていた千家が足を止め、僅かに京一郎を振り返る。
「貴方を失くした後、私が此処で余生を送ることを貴方が本気で望んでいるのであれば、考えておきましょう。私一人で暮らしていくには、この邸は広すぎますから……」
京一郎は一段、二段と階段を上がり、千家に近づいていく。
「……ねぇ、伊織。そこまで仰るということは、貴方はどうしても私を置いていきたいのだと……そういうことで宜しいのですね?」
「……」
真っ直ぐに、千家の瞳を覗き込みながら京一郎は問い掛ける。
千家はただ冷ややかな表情のまま、顔を寄せてくる京一郎をじっと見返していた。
応えは無い。
きっとどれだけ待っても千家は答えてはくれないのだろう。
そういう人だ。
京一郎は苦笑を滲ませながら千家の横を通り過ぎ、再び階段を上り始める。
そうして上りきったところで、全てを諦めたように吐き捨てた。
「……だったら、初めからそう言ってくだされば良かったのに」
その声が千家に届いたのかどうか、そのまま己の部屋に向かってしまった京一郎に確かめる術はなかった。
部屋に戻った京一郎はやるべき一通りのことを済ませると、早々にベッドに潜り込んだ。
いつもならば着替え次第、千家のもとに行って一緒に遅い食事を摂ったり、湯を使ったりするのだが今夜はもう全てが面倒臭い。
さっさと眠って、全部忘れてしまいたかった。
「はぁ……」
久し振りに一人で眠るベッドはやけに広くて、落ち着かない。
気が抜けてしまって意識はぼんやりとしているのに、目を閉じても一向に眠気は訪れそうになかった。
頭の中で繰り返されるのは、さきほどの千家の言葉ばかり。
私がいなくなってから―――。
千家を失ってからも、一人生き続けるなど考えたくもなかった。
しかし、千家にとってはそうではないらしい。
それならば何故、千家はあんなことを言ったのだろうか。
魂はひとつだと、お前は私のものだと何度も何度も繰り返したくせに。
京一郎とて初めこそ無理矢理ではあったけれど、最終的には自らの意志でそれを受け入れ、腹を決めたのだ。
千家と共に罪を背負い、共に天命を果たし、その後は共に黄泉比良坂を下るのだと。
それとも、そのつもりでいたのは己だけだったのか。
必要なのは千家が生きている間だけだったのか。
彼が天命を果たすことさえ出来れば、後は用済みだと?
血を交わして呪詛の苦痛を祓い、陰の気に囚われて暴走してしまわぬよう見張り、万が一のときにはその命を奪う。
求められていたのは、その役目だけだったのだろうか。
(私が早合点していただけ……?)
死ぬまで、否、死んでも離れぬと誓ったのは単なる自己満足に過ぎなかったのかもしれない。
たとえ魂はひとつでも、肉体がひとつになることは決してない。
千家と己はあくまで別の人間なのだという頗る当たり前のことを、京一郎は今更思い知っていた。
「……」
気づいてしまえばただ虚しく、京一郎は眠れぬ身体を起こしてベッドを抜け出すと、窓辺に立った。
外は風が強いらしく、窓硝子がカタカタと音を立てて震えている。
月でも見上げれば気も紛れるかと、京一郎はカァテンを開けてみた。
しかし何処までも真っ黒い空に月は無く、薄い雲が広がっているのか僅かな星の光さえも見ることは叶わなかった。
その空はまるで彼の心のようで。
月は確かにそこにあるはずなのに、手も届かず、姿も見えはしない。
どれだけ目を凝らしてみても、映るのは果てしのない闇だけ。
「伊織……」
けれど、京一郎はふと思う。
それは月にとっても同じなのではなかろうか。
確かにそこにいるのに誰からも見つけてもらえず、光を得ることも出来ず。
誰にも触れてもらえることのない暗闇の中、途方も無い孤独を抱えて。
「……」
京一郎は自分自身に問い掛けてみる。
生きている間に役目を果たしさえすれば後は京一郎など用済みだなどと、それこそが千家の真意なのだと本気で思うのか。
千家は本当にそんな人間だろうか。
もしも己が千家の立場であったなら。
互いの境遇が反対のものであったなら。
そうしたら同じように考えるのではないのか。
千家には生きていてほしい―――と。
負わされた使命から解放されたときには、今度こそ自分自身の為の自由な人生を送ってほしい。
それは酷く身勝手な願いかもしれないけれど、きっと偽りの無い気持ち。
「……伊織」
京一郎はくるりと踵を返し、千家の寝室へと向かう。
恐らく彼はまだ眠っていないはず。
京一郎が眠れていないのに、千家が一人で眠れているはずがないのだから。
足音を忍ばせて寝室の前に立つと、京一郎は出来るだけそっと扉を開けようとした。
万が一にも千家が既に眠っているのであれば、それを確認出来るだけで良かったからだ。
それなのにドアノブを少し引いた途端、大きく空気が揺れて扉は強く引っ張られてしまう。
どうやら寝室の窓が開いていたらしく、ひゅうという音と共に勢いよく風が吹き抜けていった。
「……京一郎?」
暗闇の中から千家の声がした。
開かれた窓の傍らでカァテンがバタバタとはためき、その傍に立つ千家の長い黒髪をも大きく靡かせている。
これではもう隠れようもなく、京一郎は開き直って返事をした。
「……まだ起きていらしたんですか」
「ああ」
後ろ手に扉を閉めると、ようやく風が緩む。
それでもまだ開かれたままの窓の所為でカァテンは揺れ、千家の髪も戯れるようにゆらゆらとその頬を撫でていた。
京一郎は千家の隣りに立ち、彼の横顔を眺める。
千家は何処までも暗いだけの夜空を、ただぼんやりと見上げていた。
「……月もない空を眺めても、面白くないのでは?」
いつもの癖で少しばかり嫌味染みた物言いになってしまったが、心の内では千家が己と同じことをしていたのが妙に嬉しくて、頬が緩みそうになるのを必死で堪えていた。
千家はそれには答えず、横目で京一郎を一瞥する。
「……何をしにきた」
「別に何も」
「もう眠ったものと思っていたが」
「これから眠りますよ」
「なら、早く眠ればいい」
「貴方こそ眠ればいいじゃありませんか」
「……」
「……」
黙ってしまった千家に、京一郎はクスリと笑う。
「一人で眠ることも出来ないくせに、私を置いていこうだなんて……まったく困った人ですね」
「……」
ほんの僅か、京一郎でなければ気づかないであろうほど一瞬だけ。
千家が眉を顰め、その冷たい横顔に不快感を浮かべる。
本当に仕方のない人だ。
これでは私が折れるしかないじゃないか。
「伊織……」
京一郎は千家に身を寄せた。
小首を傾げ、その肩先にそっと頭を乗せる。
「貴方が何を考えていようと、私は絶対に貴方から離れるつもりはありませんから……。それは生きている間も、死んでからも同じこと。これだけは譲れません」
「京一郎……」
「だから、伊織……」
京一郎は微笑んで、千家の胸に掌を当てた。
「だから、どうか貴方も……私を一人にしようとしないで……」
そう、ただそれだけが願い。
貴方を独りに出来ないなどと格好をつけてみても、本当は同じぐらい己自身が独りになりたくないのだから。
やがて千家の手が京一郎の肩を抱き寄せる。
吹き込む風から庇うように抱き締められて、その温もりに少しだけ涙が出そうになった。
千家の唇が、囁く声と共に京一郎の耳に触れる。
「ああ……そうだな、京一郎……」
嗚呼、月の無い夜で良かった。
もしもあの煌々とした月明かりに照らされていたなら、こんな風に想いを伝えることは出来なかったかもしれない。
そして千家の心を知ることも。
強かったはずの風が止む。
あとは何処までも優しい闇だけが、二人を静かに包んでいた。
- end -
2015.05.30
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