そんな休日。


もう、限界だ―――。
朝食を終えてすぐに京一郎はそう感じた。
本音を言えば、ずっと己を騙してきたのだ。
たいしたことではない、我慢出来るはずと欲求が湧き上がるたび自分に言い聞かせてきた。
時の流れはいつかそれを忘れさせ、やがてはそれこそが日常になってしまのうだろうとある意味楽観視さえしていた。
しかし、人の嗜好とはそう簡単に変えられるものではないらしい。
同じく食事を終えた千家と共に彼の私室へと戻ると、京一郎はいつどのようにその話を切り出したものかと心の内で思案した。
(どうしようかなあ……)
千家の留守中にでもこっそりと事を成せるのが最たる理想ではあったが、しかし今日は千家の公休日なので京一郎が一人きりになれる機会は無い。
もちろん千家が仕事の日であっても京一郎はそれに同行するのがほとんどなので、どちらにせよ最近は京一郎が一人で行動することは滅多に無いのだった。
かといって千家に行動を制限されているというわけではなく、外出したいと申し出さえすれば彼がそれを禁止することはないだろう。
だから京一郎が頭を悩ませている理由は、ただ一点―――その目的が余りに子ども染みている所為なのだった。
出掛けたいと言えば、何処へと尋ねられるだろう。
場所を答えれば目的を問われるに違いない。
答えを曖昧に濁してしまうことは容易いだろうが、それほどに勿体を付けるようなものでもない。
なにより京一郎は千家に嘘をつける気がしないのだ。
彼が己が半身であるからとかそんな大層な理由などなくとも千家は京一郎の空言など即座に見抜いてしまうだろうし、さりとて誤魔化そうとすればするほどに面白がって追究してくるであろうことも目に見えている。
嗚呼、面倒臭い。
そうだ。
それならば、いっそのこと―――。
「……京一郎」
唐突に名を呼ばれて、京一郎ははっと我に返った。
「は、はい! なんでしょう」
「お前な……」
長椅子に身を預けていた千家は大きな溜息を吐きながら足を組む。
それから本を選ぶ様子も無いくせに書棚の前に立ったままの京一郎を、呆れたように見上げて言った。
「なんでしょう、ではない。言いたいことがあるならば、さっさと言え。挙動不審が過ぎるぞ」
「えっ、そ、そうですか?」
「……自覚が無いのならば尚更、性質が悪いな。どうした。何があった」
「ええと、その……」
京一郎は言い淀む。
あの瞬間には確かに名案だと思えたのだが、いざ口にするとなると妙に照れ臭い。
それに冷静に考えれば、千家がそのような誘いにあっさり乗ってくるとも思えなかった。
そう考えた途端、京一郎は我ながら驚くほど気落ちしている己に気づく。
(そうか―――)
外出の申し出が躊躇われたのはその目的を白状しづらかった所為ではなく、折角の休みを千家と別々に過ごすのが嫌だったからだ。
出掛けたいのはやまやまだけど、一人きりでは出掛けたくない。
我侭な望みを持て余して黙り込んでしまった京一郎に、再び千家の急かすような声が投げ掛けられる。
「京一郎」
苛立ちも露わに眼光鋭く睨みつけられ、京一郎は自棄になってしまったのかもしれない。
知らず溜めていた息を大きく吐き出すと、勢いよく千家の隣りに腰を下ろした。
こうなったら開き直ってしまおう。
成るように成れだ。
長椅子は軋んで千家の身体までもが揺れたが、京一郎はお構いなしとばかりに正面を向いたまま千家の顔を見ることもせずに言った。
「少し、出掛けたいと思いまして」
「出掛ける? 何処へ」
「浅草まで」
「何の為に」
「……買い物が、したくて」
「買い物? 入り用な物があるのならば」
「自分で! 買いに行きたいんです」
「……」
如何にも子爵家当主が考えつきそうな提案がなされようとするのを遮って断固言い張ると、さすがの千家も口を噤んだ。
ここまでは予想通りの展開だ。
きっと、この後も同じく予想通りの展開が続くだろう。
それならば、それでもよい。
そこでようやく京一郎は千家のほうを向くと、思いきってその気恥ずかしいばかりの台詞を口にした。
「ですから、一緒に行きませんか?」
「……なんだと?」
「私と一緒に出掛けませんか? 浅草まで」
「―――」
千家が眉を顰める。
それは明らかに京一郎の誘いを厭わしく感じているように見えた。
覚悟はしていたつもりだったが、やはりこうもあからさまに態度に出されると少々傷つく。
しかし、それも致し方の無いこと。
そもそも千家にとって久方振りの休みを、己のつまらぬ用事に付き合わせようとしたのが間違いだったのだ。
(勿論、今の京一郎にとっては最重要案件ではあったのだが)
ここまでも含めて、予想通りの展開ではないか。
やはり馬鹿を言ってしまったと後悔した京一郎は、千家のほうから断りを入れられる前に、先周りをして言い訳をはじめた。
「……ま、まあ、あなたがこんな誘いに頷くとは端から思っていませんけどね! ただ今日は天気も好いですし、私もどうしても欲しい物がありましたから試しに言ってみただけで……。 とにかく私は出掛けますので、あなたはどうかゆっくりなさっていてください。それほど時間は掛からないと思いますから、戻るのは」
しかし京一郎がまだ話している途中であるにも関わらず、千家がおもむろに立ち上がる。
何事かと不安げに目で追う京一郎の前で、千家は壁に掛けてあったマントを手に取った。
「あ、あの……伊織?」
戸惑うあまり動けずにいる京一郎に向かって千家は手を差し伸べると、事も無げに言う。
「出掛けるのだろう? 行くぞ」



車を下り、そこからは歩いて向かうことにした。
意外にも千家はあれ以上何処へ行くのかも何を買うのかも問わず、黙って京一郎についてくるのだった。
そのうち目指す大黒屋の看板が近づくにつれ、焦げた醤油の香ばしい香りがしてきて京一郎は思わず顔を綻ばせる。
「はぁ……いい匂い……。これですよ、これ」
久し振りに訪れたその店は、相も変わらず大繁盛の様子だった。
入口から覗いた品台の前では、大勢の客が押し合いへし合いしながら怒鳴るように注文をしている。
これは今日も買うのに苦労しそうだ。
しかし、ここの煎餅は多少の苦労をしてでも買う価値があるのだ。
なんと言ってもこの匂いを嗅いでしまったからには、早く食べたくて堪らない。
さて、いざ戦いに赴かんと京一郎が腹を括ったとき、それまで黙っていた千家がぽつりと呟いた。
「……お前が入り用だと言っていた物は、これなのか」
その口調には決して京一郎を揶揄する響きは無かったのだが、子ども染みた欲求を知られて恥ずかしく思うあまり、京一郎はぶっきらぼうに答えてしまう。
「そうですよ。いけませんか?」
「いけないことはない。お前はこの店の菓子が好きなのか」
「え、ええ。……洋菓子も嫌いではありませんが、やはり日本人ですからね。どうしてもお煎餅に番茶が恋しくなるんです」
「ふぅん……」
至って平静に尋ねてくる千家に、無駄に突っ掛かってしまったことを京一郎は心の内で反省する。
しかし僅かに抱いた罪悪感も、次の千家の言葉で吹き飛んでしまった。
「ならば、いっそこの店ごと……」
「伊織!」
馬鹿なことを考えないでください、と千家の思惑を一刀両断にして、京一郎は目的を果たすべく店の中へと突入していった。

時間にして、ほんの四、五分だったろうか。
なんとか煎餅を数枚買って、その紙袋を手に店から出てきたとき、外で待っていた千家の姿は周囲の風景から甚だ浮いて見えた。
それもそうだろう、昼日中の賑やかな街に千家は如何にも不似合いである。
今日は軍服こそ身につけていないとはいえ、黒い外套に包まれたその長身の体躯も、艶やかに長い黒髪も、造り物の如き相貌も圧倒的な迫力を持っており、尚且つそれは酷く現実味に欠けてもいた。
道行く人達の中には千家に好奇の目を向けてくる者もいるほどで、しかしそれに気づいているのかいないのか、当の千家は京一郎を待つ間、よほど退屈していたのかすっかり仏頂面になっている。
そして京一郎が戻るやいなや、その不満を隠すこともせずにぶつけてくるのだった。
「……遅い」
「すみません。お待たせしてしまって」
京一郎が素直に詫びると、千家はふんと鼻を鳴らして京一郎の抱えている袋に視線を落とす。
だから京一郎は袋の口を少し開けて、千家に中身を示して見せた。
「お煎餅です。あなたの分もありますからね」
「私は食うと言っていないが?」
「ええ。でも、一人で食べるのは味気ないですから。……食べたくありませんか?」
「さあな」
千家ははっきりと答えなかったけれど、きっと京一郎がいつもしているように細かく砕けば食べてくれるような気がする。
それでも駄目なら、口元まで運んでやれば―――まったく、この男は存外世話が焼けるのだ。
そんな御立派な、皇后陛下の覚えも目出度い千家少将閣下を煎餅屋の前で立ったまま待たせるなど、なんと不遜なことだろうか。
しかしそれこそは己が千家にとって特別な存在である証のようで、京一郎はついフフと笑いを漏らしてしまう。
当然、その笑みは千家の不興を買った。
「何が可笑しい」
「いいえ。別に」
「お前は可笑しくも無いのに笑うのか」
「可笑しいんじゃありません。嬉しかっただけです」
そう、確かに京一郎は嬉しかったのだ。
まさか、こんな風に二人で出掛けることがあるとは思わなかった。
夜毎互いの血を交わし、唇を重ね、肌を重ねてはきたけれど、明るい陽の下をただこうして並び歩いたことなど無かったから。
それはまるで恋人同士の逢引きのようで―――。
「それで? もう用件は済んだのか」
「ええ、そうですね……」
千家に問われて、京一郎は考える。
滅多に無い機会なのだから、もう少し何か……。
「……あっ、そうだ!」
京一郎は思いつき、ひらりと千家の前に身を踊らせた。
「すみません! すぐに戻りますから、ここで待っていてください!」
そう言って、持っていた煎餅の紙袋を千家の手に押し付ける。
千家の顔が途端に険しくなった。
「何だと? また待たせる気か」
「すみません!」
「おい、待て! 京一郎!」
怒りを含んだ声で引き留める千家を尻目に、京一郎は一目散に駆け出す。
ぶつかりそうになる人波をなんとか掻き分けながら、記憶を頼りに路地の奥へと入っていった。
(確か、この辺りに……)
両脇に多くの店が連なる通りを小走りになりながら、京一郎は目的の店を探して目を凝らす。
やがて程無くして、その店は見つかった。
「あった……」
そこは京一郎が帝都に来たばかりの頃、通りがかった小間物屋だった。
妹への文をしたためるための紙を買ったのだ。
その思い出は束の間、京一郎の胸を痛くしたが、今は感傷に浸っている場合ではない。
これ以上、千家の機嫌を悪くしたくはなかった。
京一郎は店の奥に並ぶ色とりどりの組紐を見つけると、その棚に歩み寄る。
「わぁ……綺麗だなぁ……」
どれならば彼の人に似合うだろうかと逡巡していると、ふと背後に人の気配と焦げた醤油の良い香りを覚える。
「えっ……」
「何を買う気だ」
振り返ると、そこには煎餅の袋を持った千家が立っていた。
「伊織! あなた、どうして……待っていてくださいと言ったじゃありませんか」
「これ以上、待たされるのは願い下げだ。その組紐を買うのか」
「え、ええ……そのつもりなんですが……」
「ふぅん……。何処ぞの女にでも贈るつもりか?」
「ちっ、違いますよ! これは、その……」
「まぁ、いい。とにかく、早くしろ」
どうやら千家は京一郎の後を追ってきてしまったらしい。
折角の思惑が台無しになって、京一郎はがっくりと肩を落とした。
しかし、こうなってしまっては仕方が無い。
京一郎は幾つも並ぶ組紐の中から紅色をしたものを手に取ると、会計のため店の主人に差し出す。
その間も千家は京一郎の傍を決して離れないのだった。



ようやく車に戻り、帰路に着く頃にはすっかり陽も傾いていた。
京一郎は柔らかな背凭れに身を沈め、膝の上で煎餅の入った紙袋を抱えながら、車窓を流れていく景色を見つめる。
―――もう、こんなにも平穏な休日を過ごせることはないかもしれない。
そんな風に思えばやけにセンチメンタルになりそうで、京一郎は暮れゆく町並みから目を逸らした。
そしてさきほど買った紅色の組紐が入っている小さな袋を袂から取り出すと、隣りにいる千家に差し出す。
「……なんだ?」
「さきほどの組紐です。……今日、つきあってくださった御礼に」
本当は内緒で買って、あなたを驚かせたかったのだけれど。
否、どうせ千家はそれぐらいのことで驚きはしないかと思い直す。
案の定、千家はなんでもないかのようにそれを受け取った。
「女への贈り物ではなかったのか」
「そんな相手など、いるはずもないと知っているでしょう?」
「そうだったな。では一応、貰っておくとしよう。だが、どうせこれで私の髪を結うのはお前の役目だからな」
「分かっていますよ」
軽口を交し合う千家の表情がいつになく優しく穏やかに見えて、彼にとっても今日がよい気分転換になったのならいいと京一郎は思う。
今日はとても楽しかったから。
本当に、本当に楽しかったから。
「……何が可笑しい」
どうやらまた我知らずに笑っていたらしい。
さきほどと同じことを問い掛けてくる千家に、京一郎もやはり同じように答える。
「可笑しいんではなく、嬉しいんです」
「随分なはしゃぎようだな。それほどまでに、その煎餅が好きだったのか」
見当違いな千家の言葉さえ微笑ましくて、京一郎は更に笑みを深めながら言った。
「ええ、好きですよ。大好きです」
―――あなたのことがね。
京一郎はこっそり、心の中で付け加えた。

- end -

2013.06.25


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