フラストレイション


玄関が開閉する音に続いて、苛立ちと焦りの色を帯びた足音が屋敷内に響く。
出迎えた家僕の一人はその足音を追いながら、慌ただしげに何かを告げていた。
その只事では無い空気を感じるやいなや、広い屋敷内の其処彼処に勤めていた他の家僕達は一斉にその手を止めて身を控える。
最近たびたび起こる同様の事態に、彼らも対応の仕方をすっかり心得たらしい。
その一、主に異変が起きた場合は、速やかに状況を柊京一郎に知らせるべし。
その二、その後の全ての対処は柊京一郎に一任すべし。
その三、許可が出るまで主、及び柊京一郎の私室のある棟には何人たりとも近づくべからず。
それほどまでの権限を与えられている柊京一郎という男が、この屋敷の主―――千家伊織にとってどのような存在であるのか、その真実を本当の意味で知る者はこの屋敷にさえいない。
けれども京一郎に無礼を働くことが、主に歯向かうことと同等の罪になることだけはよく分かっていた。
だからそれらを既に命じるまでもなく実行するようになった賢明な家僕達の間を、顔色を変えた京一郎がほとんど小走りで擦り抜けていく。
こんなときばかりは、この屋敷の広さが恨めしかった。
「伊織……!」
千家の私室の扉を勢いよく開けた京一郎は、その惨状に思わず顔を顰めた。
いつも整然と片付けられている部屋が、今は見る影も無い。
苦痛にのた打ち回ったのか、寝台は乱れ、引き裂かれた枕からは白い羽が食み出している。
長椅子も卓も常の位置からは移動して、その有様はまるで物盗りにでも入られた後のようだった。
この時刻であればきちんと閉じられているはずのカァテンが半開きになっていたのも千家が縋った所為なのだろう、 覗いた窓からは青白い月明かりが射し込んでいて、照明もつけないままの薄暗い部屋の中を辛うじて照らしている。
その部屋の片隅から獣が唸るような押し殺した呻き声が聞こえてきて、京一郎は慌てて声を発している黒い影に駆け寄った。
「……伊織! 伊織!」
月明かりを避けるような暗がりに、長い髪を乱し、頭を抱え、背中を丸めた千家が蹲っている。
京一郎は膝をつき、千家の背中を掻き抱きながらその耳元に呼びかけた。
「伊織! しっかりしてください、伊織!」
「っ……ぐ………」
しかし千家は床に額を押し付けたまま動かない。
ただ荒く乱れた呼吸に、その背中が大きく上下するばかりだった。
京一郎が彼のこのような激しい苦悶の姿を見るのは、無論初めてのことではなかった。
日本軍がとうとう大陸への上陸を果たした今、諸外国より向けられる我が国への憎悪の念は日増しに強くなっている。
数日前からはいよいよ大陸東北部にて交戦が開始されたため、千家の身体は著しく不調を訴えだしていた。
それにより千家は自宅待機を余儀無くされていたのだが、本日交戦中の八師団より我が軍優勢との報告があったことから、 彼がより一層激しい痛苦に見舞われているであろうことは、作戦本部にて千家の代理を務めていた京一郎には容易に想像がついた。
だからこそ、急ぎ帰宅したのだが……それにしても最近は千家の受ける禍害が大きすぎる気がする。
それが怨念の増大の所為なのか、それとも千家の身体が疲弊してきている為なのかは分からない。
否、両方なのだろう。
そのことを考えるとき、京一郎は暗澹たる気持ちになる。
いったい何時まで彼は苦しまなければならないのだろうか。
この戦いに真の終着点はあるのか。
世界中から一国に向けられた憎悪の全てを、たった一人で受け止めている人間がいるなど誰が想像するだろう。
人前では常に冷酷で、尊大で、傲然としているこの男が、暗い部屋の片隅で苦痛に呻いている姿など。
「伊織、私です。京一郎です! すぐに、私の血を……」
「…っ……」
京一郎と名乗る声に反応したのか、千家がゆるりと顔を上げる。
乱れきった長い髪の隙間から覗いた瞳が一瞬、京一郎を捉えたように見えた。
「ぐ……ぅ…っ…!」
しかし、それも束の間のことだった。
千家は決して叫ぶまいと奥歯をきつく噛み締めながら、指の先が白くなるほどに強く京一郎の腕を掴んだ。
立てた爪が皮膚に食い込み、血が滲む。
早く。
早く彼にこの血を与えなければ。
「伊織! 私の血を、早く! 伊織!」
京一郎は焦り、叫ぶ。
しかしどれだけ必死に訴えかけても、我を失っている千家の耳には届かない。
普段は冷笑を浮かべている頬には汗が流れ、焦点の合わない目は何処か虚空を見つめるばかりで、けれど京一郎の腕だけは決して放そうとしないのだった。
駄目だ。
このままではどうにもならない。
どうすれば彼に血を与えられる?
いったい、どうすれば―――。
「伊織……」
方法はひとつしかなかった。
京一郎は意を決して息を吸い込むと、自らの唇に歯を突き立てる。
「ぐっ……!」
刺さる犬歯をそのままに唇を引き、深く噛みちぎった。
続いて熱い痛みと、口腔に広がる鉄錆の味。
「伊織……!」
そして強引に千家の唇にくちづけた。
血を擦り付けるように押しつけ、なんとかその歯列を開こうとする。
「……っ」
そこでようやく千家が反応を見せた。
固く閉ざされていた歯列が緩み、その隙間から舌先が差し出される。
我を失っていても、京一郎の血の味だけは分かったのだろう。
唇を舐め、それを確かめると、砂漠で水場に辿り着いた獣のように、千家は京一郎の唇から滴る真紅の液体を一心不乱に啜りはじめた。
腕に食い込んでいた指先も少しずつ解けていく。
(良かった……)
これでしばらくすれば千家も落ち着くだろう。
京一郎は夜着越しにも分かるほど汗に濡れた千家の身体を抱き締めたまま、血の味のするくちづけに身を任せていた。

その後は糸が切れるように眠りに落ちた千家を寝台まで運び、京一郎はといえば滅茶苦茶になった部屋の始末に追われた。
家僕に命じれば良かったのかもしれないが、この惨状を他の人間にはどうしても見せたくなかった。
勿論、千家自身にも。
くたくたに疲れ果て、京一郎がようやく千家の隣りで眠りにつけたのは、もう空が白み始めている頃だった。
それなのに―――。
「……おい、京一郎。いつまで寝ている。起きろ」
気づけば部屋はすっかり明るくなっていた。
乱暴に揺り起こされた京一郎は、不機嫌そうに毛布を頭から被る。
「もう少し……寝かせてくださいよ……」
「いいから、起きろ。京一郎」
毛布を引き剥がされ、京一郎は仕方なく目を開ける。
視界には昨夜の苦悩の面影すら無い、いつも通りの美貌を湛えた千家の顔が間近にあった。
どうやら千家はとうに起きて、湯を浴びてきたらしい。
ガウンに包まれた身体からは仄かに石鹸の香りがして、となれば一応は京一郎をもう少し寝かせておいてやろうという気遣いを見せてくれたのかもしれない。
いつもならば風呂の際もやれ髪を洗え、身体を洗え、着替えを持ってこいと散々こきつかわれるはずなのだから。
しかし京一郎がなかなか目を覚まさないので、さすがに痺れを切らしたのだろう。
兎にも角にも千家の顔色の良さに京一郎は寝惚け眼ながら心の内で安堵していたのだが、しかし今度は千家のほうが訝しげに眉を顰めているのだった。
「京一郎、お前……酷い顔をしているな」
「え?」
「まあ、いい」
なんのことかと尋ねる間もなく、千家にくちづけられる。
その途端、唇に走った激しい痛みに京一郎は声を上げた。
「んんっ……!」
思わず顔を背け、千家の身体を押し返す。
そのときには口元にやたらと違和感を覚えていたのだが、それはゆうべ千家に血を与える為に噛み切った唇の周辺が酷く腫れてしまっているからのようだった。
しかも今のくちづけで再び傷が開いてしまったのか、起き抜けには感じなかったはずの、ずきずきとした痛みまでもがある。
その痛みに顔を歪めながら口を覆い隠す京一郎に、千家は平然と尋ねた。
「痛むのか?」
「ええ。それは、まあ」
「そうか。だが、今までにも散々身体中に傷を負っているのだ。今更それぐらい、たいしたことはなかろう?」
薄く笑いさえしながらそう言って、千家は再び覆い被さってくる。
確かに痛みには随分と慣れた。
けれど、それを当たり前のように言われるのは何処か納得出来なかった。
決して感謝して欲しいとか、労わって欲しいとか思っているわけではない。
けれど千家が苦しみ、そして血を交わす為にまた傷がひとつ増えることは、幾ら回数を重ねたとしても京一郎にとって「たいしたことはない」と簡単に片付けられるようなものではなかった。
「……やめてください!」
京一郎は渾身の力を込めて、千家を突き飛ばした。
拒まれた千家はとくに気を悪くした様子も無かったが、ただやけに白けたような目で京一郎を見ている。
京一郎が何故、それほどまでに強く拒絶してくるのか理解出来ないといった顔だ。
京一郎と千家は互いに互いを半身であると認めておきながら、このように致命的に分かり合えないときが往々にしてあった。
その多くは二人の生い立ちや育った環境の違いなどに起因するものだから、大抵のことは仕方が無いと諦めることに京一郎はしている。
この状況で京一郎がいくら、千家の言葉に血の交わりそのものを軽んじられたような気がしたから、などと言ったとしても千家にそういった心の機微は理解してもらえないだろう。
だから今回も京一郎は寝不足で重たい身体を起こすと、感情的な部分を抜きにして千家に説明することにした。
「本当に痛むんです。それにいつもならば見えない場所ですから構いませんが、ここはどうしたって目立ちますから早く治さないと」
「目立つからといって、早く治さなければならぬという道理は無いだろう」
「好奇の目に晒されます。それは私にとっても、貴方にとっても面倒なことにしかならないと思います」
「ふぅん……それで?」
「それで、って……。で、ですから……しばらくは……しないで、ください」
私は何を言っているのだろう。
突然気恥ずかしくなって口ごもる京一郎に、千家は相変わらずの無表情で問い返す。
「しない? 何を?」
「ですから、その」
「なんだ。はっきりと言え」
「ですから……くちづけです! 傷が治るまでは何もしないでください! 私がいいと言うまで! 絶対に!」
恥ずかしさのあまり、京一郎は怒鳴るように捲くし立てた。
恥ずかしい。
途轍もなく恥ずかしい。
それを聞いた千家は一瞬だけ眉を顰めたものの、
「……分かった」
とだけ応えた。
そしてあっさり身を翻すと、寝台を下りる。
その立ち姿はいつもの毅然とした千家伊織中将閣下であった。
「さて、私はこれから三宅坂へ向かう。ここ数日の怠業を埋め合わさなければならないからな」
「あ、でしたら、私も……」
「いや、お前はいい」
京一郎の申し出はにべもなく却下されてしまう。
千家は背中を向け、ガウンを脱いだ。
「今朝方、例の東北部で敵軍の撤退が確認されたと知らせが入った。この隙に次の作戦に関して検討する必要があるが、暫く交戦は無いだろう。お前も少し休むがいい」
それだけ告げると、あとは京一郎など目に入らぬ様子で身支度を整える。
そしてそれが終わるといつも出掛けに交わす軽いくちづけさえもせずに千家は部屋を出て行った。
くちづけはするな、と言ったのだから当然だ。
それなのに残された京一郎は妙に落ち着かず、なにやらもやもやとした苛立ちを抱きながら毛布に潜り込むしかなかった。



しかし、やがてその苛立ちは本格的に京一郎を責め嘖むこととなる。
あれ以来、千家はくちづけどころか京一郎に指一本触れてこなくなったからだ。
そうなってみて初めて、京一郎は己が今までどれだけ千家と触れ合っていたのかを思い知ってしまった。
思い返せば千家は隙あるごとに京一郎にくちづけ、手を取り、頬を撫でていた。
夜は夜で閨にて肌を重ね、京一郎をきつく腕に抱いたまま眠る。
恋人同士でもあるまいに、もしかしたらそれ以上に密接で依存しあった関係に見えても不思議は無いほどだった。
それは恐らく京一郎と触れ合うことで千家の氣が安定するからなのだろう。
だとすれば、これほどまでに距離を置かれる日が続くと千家の身体が心配になってしまう。
ここ数日の千家の様子を見るからに特に具合が悪そうには見えなかったが、しかし彼は己の不調を隠すことは得意であったし、自ら祓いをしている可能性もあった。
もしもそうならば、これ以上彼に無理はさせたくない。
それになにより自分がここにいる意味が無くなってしまうようで不安だった。
唇の傷はほとんど癒えて腫れも引いているし、まだ瘡蓋はあるが既に痛みはない。
そもそもくちづけをしないでほしいと言っただけで、何処にも触れるなと言ったわけではないのだ。
それなのに丸三日もの間、ほんの指先を絡めることもせずにいれば寧ろ京一郎のほうこそが落ち着かない心持ちになってしまっていた。
昼は軍本部の執務室で顔を合わせ、それ以外は同じ屋敷で過ごしているにも関わらず、 しかし千家は京一郎のことなどまるで興味無いと言わんばかりに素っ気無い態度を取り続けているのだった。
「……」
その夜、二人は階下の食堂で向かい合って晩食を摂っていた。
いつもながら千家の食事における作法は流れるように美しく、見よう見まねで京一郎もだいぶ洋食の作法を身につけたとは思うが、千家のそれには到底及ばない。
だからその所作に京一郎は暫し見惚れていたのかもしれなかった。
千家がナイフで切った分厚い牛肉は表面だけが焼かれていて、中はまだ赤い。
その肉が千家の口に入り、咀嚼される。
次はスゥプが、その次にはパンが。
食事を続ける千家の口元に、いつしか京一郎の視線は釘付けになっていた。
あの形の良い唇が意外なほどに柔らかなことも、そしてあの冷徹な表情からは想像もつかないほどの熱を持っていることも京一郎は知っている。
その奥にある蠢く舌も、綺麗に並んだ歯列も。
ときに互いを喰らい合うかのように激しく、ときに戯れのように啄ばんで。
数え切れないほどのくちづけは、身体中ありとあらゆる場所に落とされた。
頬に、瞼に、首筋に、そしてきっと自分でも目にしたことのないような箇所にまで……。
「……なんだ、人の顔をじろじろと見て」
「―――!」
いきなり千家と目が合ってしまって、京一郎はうろたえる。
「あまり見るな。食事がしにくい」
「す、すみません」
千家に咎められ、京一郎は顔を赤くして俯いた。
今、自分はどんな顔をしていたのだろう。
千家とのくちづけを思い出して恍惚としていたところを見られるなど羞恥の極みだった。
恥ずかしさと気まずさで料理の味も分からなくなってしまったけれど、なんとか食事を終える。
それから二人は階段を上がり、部屋へと向かった。
京一郎の私室は千家の部屋の隣りだ。
内装は千家のそれと同様に洋風で、わざわざ新調された立派な文机や本棚だけでなく、きちんと寝台も設えられている。
今までほとんど使用されることのなかったこの寝台が、ここ数日は漸く役に立っていた。
(やはり、今夜も……?)
今夜もまた別々に眠るつもりだろうか。
千家のほうに目をやると、いつもならば当然のごとく手を差し伸べてくるはずが、今は千家自身の部屋の扉を開けようとしているだけだ。
(どうして―――)
やりきれない想いがして、気がつけば京一郎は千家を引き留めていた。
「あ、あの……伊織!」
千家が手を止め、京一郎を振り返る。
「なんだ」
「その……身体の具合はどうですか?」
「そうだな。今のところ、特に問題はないが」
「そう、ですか……」
千家の体調が良いことは喜ばしいことであるはずなのに、内心落胆している己は醜いと京一郎は思った。
今はお前の出る幕は無い、そう言われたようで落ち込む。
けれど、それで分かってしまった。
自分がここにいるのは我が国の弥栄の為、千家の野望を叶える為、そして千家の暴走を食い止める為だ。
その為に人生を賭け、命を賭けると誓った。
千家は言ったではないか、私は彼の稚児ではないのだと。
万が一の際には、私は千家を殺さなければならない。
私の全ては既に千家のものであるのだから、私が何かを望むのは無意味なのだ。
それなのに、いったい何を勘違いしていたのだろう。
「用件はそれだけか?」
千家にそう問われれば、京一郎には頷くよりほか無かった。
「……ええ、それだけです。おやすみなさい、伊織」
なんとか笑顔で答えると、京一郎は自分の部屋に入る。
弁えなければいけない。
妙な気を起こしてはならない。
灯りもつけぬままの部屋の中、京一郎は目を閉じて己を戒める。
千家からの無駄とも思える睦言や接触は、所詮彼の気紛れによる戯れでしかないのだから、決して真に受けてはならなかったのだ。
余りにもそれが繰り返され、日常となっていた所為で心得違いをしてしまっていた。
けれど今ここで、それを自戒出来たのは先々の為にも良かったと思う。
そうしてようやく己を納得させることが出来た、そう思ったのに―――。
「京一郎」
後ろ手に閉めた部屋の扉が、向こう側から開いた。
千家だ。
何故。
「……なんでしょうか? 私はもう休みますので、用が無ければ出て行って頂きたいのですが」
千家の顔を見たくなくて、京一郎は振り返りもせずに言う。
しかし千家はそんなことお構いなしとばかりに部屋に入ってきた。
「随分と機嫌が悪いようだな。私に何か言いたいことがあるように見えたから来たのだが」
「別に、何も……」
気づいて欲しくないことにはあっさり気づく癖に、肝心の気づいて欲しいことにはさっぱり気づいてくれない。
この男は、そういう男なのだ。
もう、いいから放っておいてほしい。
京一郎がそれ以上何も言わずにいると、すぐ後ろに千家が近づいてくる気配がする。
けれどいつもならばすぐに触れてくるはずの手が、やはり伸ばされることはなかった。
その代わり、耳元に唇が寄せられる。
触れそうで触れない距離で、吐息だけが掛かる。
身体が震えそうになるのを必死で耐えている京一郎に、千家が甘い声で囁いた。
「本当に何も無いのか? そろそろ欲求不満なのではないかと思ったのだが」
「なっ……!」
直接的な言葉に、頭にかっと血が昇る。
やはり、意図的だったのか。
私を弄び、揶揄う為にわざと距離を置いたのか。
約束を交わし、全てを捧げ、既に身も心も千家のものになったというのに、それでもまだ飽き足らず依存心を育てようとしたのか。
京一郎は千家から飛び退き、怒りに任せて怒鳴った。
「そ、そんなわけがないじゃないですか! 貴方は、何を言って……」
「違ったか? では、不満を感じていたのは私だけということか」
「だから……! は……?」
今、なんと言った?
思いも掛けぬ千家の言葉に、京一郎は怒りも忘れて固まってしまう。
その京一郎の反応に、千家もまた訝しげに首を傾げた。
「何を驚いている? 三日も独り寝を強いられれば当然だろう」
「わ、私はそこまで強いてなどいません! 寧ろ三日も私に触れてこなかったのは、貴方のほうじゃありませんか」
「お前が言ったのであろう。いいと言うまで、何もするなと」
「えっ……」
確かにくちづけはしないでくれと言った。
しかし、『何もするな』などと言っただろうか。
分からない。
あのときは恥ずかしさのあまり勢いで捲くし立ててしまったから、詳細な言葉までは記憶に残っていなかった。
「何もするな、と……私が言ったのですか?」
「言ったな」
「だから、何もしなかったと?」
「そうだが?」
京一郎があまりにも意外そうに幾度も確認してくるのが心外だったらしく、千家はやれやれとばかりに小さく肩を竦めた。
「私とて、事と次第によってはお前の意志を尊重する気はある。今回は確かに酷い傷だったからな。言わなかったか? 私はお前の顔を存外気に入っているのだよ。 だから傷が癒えるまで、お前の言い分に協力することにした。そういうことだ」
「……」
そういうことだと言われても、いったいどういうことなのだ。
京一郎の意志を尊重する気はあるなどという言い草は、今までの千家の言動からすると甚だ胡散臭かったが、 結局のところ千家は京一郎に言われたから触れてこなかっただけで、しかも内心はそれを不満に思っていたということなのか。
傍若無人を絵に描いたようなこの男が、あんな勢いに任せて吐いた京一郎の言葉におとなしく従ったと?
本当にそんなことがあるのだろうか?
「……では、やはり体調が悪かったのですか?」
「いや? この数日、体調はすこぶる良い」
「でしたら、共寝の相手など私でなくても良かったでしょうに」
「それはそうだな。だが、今更お前以外を抱く気にならなかったまでだ」
「……そう、ですか」
その返答を、どう判断すれば良いのだろう。
戸惑い、俯く京一郎を見て、千家が呆れたように笑った。
「どうせ私が他の者に触れれば悋気を起こすくせに、面倒な奴だ」
「悋気など起こしません! 貴方こそ、どうしてそうやってすぐに……」
「ああ、分かった。それで? もう許可は下りたと思って良いのか?」
「え……」
もう触れてもいいのか、と聞いているのだろう。
何故、こんなときばかりこちらの意志を確認するのか。
いつも京一郎の都合など無視して好き放題横暴に振舞うくせに、千家伊織とは本当に卑怯な男なのだ。
本当に、本当に卑怯だ。
「いい……です」
僅かに顔を赤らめながら京一郎が頷くと、千家がクスリと笑った。
それからすぐさま千家の右手が伸びてきてぐいと腰を引き寄せられると同時に、唇を塞がれる。
その久し振りの熱と感触に京一郎はすぐに己の体温が急激に上がるのを感じた。
「…あ……っ」
噛みつくような荒々しいくちづけは、千家も欲求不満だったというのもあながち嘘ではなかったのかもしれないと思わせるほどのものだった。
歯列がぶつかるのも構わずに口腔の奥深くまで舌を差し入れ、絡めてくる。
息が出来なくて唇をずらそうとしても、すぐさま追ってきて塞がれてしまう。
絡まる舌の水音と交わる呼吸の音が耳の奥に直接響いて、早くも京一郎の頭はぼうっとしてきた。
(無理……だ)
こんなくちづけを長く続けられたら、そのままここにへたりこんでしまうだろう。
京一郎は千家の背中にしっかりと手を回すと、そうならぬよう必死に縋りついた。
それでも圧し掛かられ、喰らいつかれ、その甘さと激しさに理性が飛びそうになる。
「い、お……り……」
助けを求めるように喉の奥から途切れ途切れに名を呼ぶと、千家はようやく少しだけ唇を離してくれた。
「京一郎……」
千家の声にも熱が篭っているように聞こえて、京一郎は軽い目眩を覚える。
唇は既に痺れたようになって感覚を失っていた。
そのまま千家に担がれるようにして、京一郎は寝台へと運ばれる。
柔らかなシーツの上に倒されると、千家が傍で服を脱ぎはじめた。
シャツを脱ぎ、革帯を外して京一郎に覆い被さってくる。
「伊織……」
待ちきれず手を伸ばせば、そのまま腕の中に千家の身体が預けられた。
乱暴に襟元を肌蹴られ、首筋に顔を埋められると千家の長い髪が落ちてきて、その感触が擽ったくも心地好い。
首筋から鎖骨へとくちづけと同時に舌が這い、それから強く吸われる。
いつもならば跡が残るのを気にするところだったけれど、今夜ばかりはどうでも良かった。
「あっ……伊織……伊織……」
うわ言のように呼びながら、京一郎は千家の長い髪を指に絡め、掻き乱す。
下衣を解かれ、裾を肌蹴られ、その間に割って入られれば無意識に足を絡めていた。
胸を撫でる掌が、触れる髪が、官能を呼び起こす。
肌を重ねる理由など、どうでもよくなっていく。
「京一郎……」
囁かれるたびに粟立つ肌が、しっとりと汗ばむ。
高まりすぎて恥ずかしいぐらいだったけれど、もはやそれすら省みることが出来なくなっていた。
千家の膝に屹立を押されると、それだけで腰がびくりと跳ねる。
常に無い京一郎のあまりの反応の良さに、千家が喉の奥で笑った。
「面白いな。お前がこれほどまでによがるとは……」
「……っ…」
羞恥に頭の奥が熱くなる。
けれど、今はどれだけ揶揄われても構わなかった。
それよりも早く千家が欲しくて堪らない。
この身体はいつからこんな風になってしまったのだろうか。
千家に出会うまでは自慰すら気が咎めて滅多にしないほどの初心だったというのに。
それなのに今は求める刺激が与えられないことに焦れて、狂いそうになっている。
千家が少しでも身体を離そうとすると、京一郎は千家にしがみつき引き寄せる。
それほどまでに求められることが千家には愉快で仕方無いようだった。
「伊織……」
「そう焦るな」
もどかしさに抗議の声を上げても、尚更焦らされるだけだと分かっているのに止められない。
下帯の中で張り詰めているものは今にも弾けてしまいそうになっていた。
「伊織……伊織……」
千家の顔を両手で挟むようにしてくちづけを強請る。
己の理性が崩壊しかけているのは分かっていたけれど、どうせ歪な関係なのだからそれでも構わないような気がした。
くちづけを交わしながら千家は下帯の上から京一郎の屹立を撫でる。
そして京一郎の唇の傷に甘く歯を立てたとき。
「……ふ―――ぅ、んっ……!!」
びくびくと大きく腰が震えて、堪える間もなく京一郎は下帯の中に吐精してしまった。
それにはさすがの千家も驚いたのか、京一郎の様子をじっと見下ろしている。
「……随分と早いな」
「うっ……く……」
恥ずかしくて、情けなくて腕で顔を隠すも、すぐに引き剥がされてしまう。
「顔を見せろ。恥じることはない」
「そんな……恥ずかしいに、決まってる…っ……」
「ふっ、いつもこれぐらい可愛げがあれば良いのだがな」
慰めているつもりなのか、千家は京一郎の頬に、唇にくちづけを繰り返す。
京一郎の屹立は一度達したもののまだ固さを保っていた。
濡れた下帯を外され、両足を大きく開かされる。
千家のものも既に猛々しく高ぶっていて、その先端が京一郎の後孔に押し当てられる。
薄く敏感な皮膚は悦びにひくひくと収縮を繰り返し、千家を迎え入れようとしていた。
「京一郎……」
けれど千家は酷くゆっくりと腰を沈めていく。
少し押し入れては腰を引き、それからまた少し進むのを繰り返した。
その熱が内壁を擦るたび京一郎の腰は無意識に揺れて、更なる刺激を強請る。
「伊織……もっと……!」
一息に奥まで来てほしい。
痛むほど、苦しいほどに貫いてほしい。
京一郎は千家の腰に足を絡めると、強く引き寄せた。
「……!」
さすがの千家も少々うろたえたのか、顔を顰める。
しかしすぐに腰を大きく動かして、京一郎の中を掻き回しはじめた。
「あっ……ああぁっ……!」
京一郎の背中が弓なりに反る。
これをずっと待っていた。
これが欲しかった。
千家の髪が律動に合わせて揺れる。
快感に歪む千家の顔を、京一郎は貫かれながらうっとりと見上げた。
「伊織……いお、り……!」
叩きつけるように突き上げられ、揺さぶられ、京一郎は己が満ちていくのを感じる。
千家にとって京一郎の血が必要であるように、京一郎にとっても千家が必要な存在になっていることを感じる。
京一郎が千家に全てを捧げたように、千家もまた京一郎に己の死を預けているのだ。
それはもしかしたら恋や愛よりも深い絆なのかもしれない。
そう思えば、触れ合いたくなるのは自然なことなのだろう。
肌を合わせるごとに、肉体も魂もひとつになっていく。
今まで別々に生きてきた事が信じられないほどに。
「京、一郎……」
千家の呼吸も乱れ、やがて絶頂が近いことを知らせる。
快楽の海に溺れてしまいそうになりながら、京一郎はその瞬間を夢中で手繰り寄せた。
貫く激しさが増して、己の中で千家がまた少し容量を増す。
どくどくと流れる血液を感じる。
「あっ! は、ぁっ…! あぁっ……!」
京一郎は声を抑えることもせず、感じるままに喘いだ。
千家の腕に捕まり、もっと深く繋がろうとする。
もっと。
もっと、欲しい。
貴方が。
(伊織……)
爪足が震える。
もう、すぐそこまで来ている。
「伊織……いお……あっ、もう……!」
「京一郎……」
「あっ……はぁ、あっ―――……!!!」
「―――……!」
二人の身体が殊更深い場所で繋がった瞬間、熱い精が迸った。
小孔を焼くような熱が噴き出し、飛び散る。
千家のそれもまた京一郎の身体の奥へ注がれていた。
それでもまだ京一郎は千家に足を絡めたまま離さない。
千家も同じように京一郎の中から出ていこうとしなかった。
「伊織……もっと……」
無意識にそう口走っていた。
まだ足りない。
貴方が足りない。
京一郎の言葉に千家はおかしそうに笑うと、繋がったままくちづけを落とす。
舌を絡め合ううちに千家のものは再び力を取り戻し、そして今度は緩やかに京一郎を貫き始めた。
「伊織……」
その夜、二人はいつまでも繋がることをやめようとしなかった。



三晩ぶりに千家の腕の中で目が覚めた京一郎は、身じろぎしてそっと千家の寝顔を伺った。
こうして傍にいるようになってから数年が経つが、未だに京一郎はこの男を掴みかねている。
我侭で、自分勝手で、残酷で、それなのに時折酷く優しい。
その優しさを見せられるたび、京一郎の心は波立った。
甘い感情は捨てろと千家は言ったけれど、それを頭では理解してもいるけれど、それを本当に良しと思えない自分もいる。
どれだけ苦しくても、どれだけ辛くても、この感情を手離したくない自分が確かにいた。
それに、言うほど千家が感情を捨てているとも思えない。
寧ろそれは隠され、厳重に封じられているだけであって、今も千家の最も深い場所にしっかりと存在しているように思えてならなかった。
「……」
そっとくちづければ、千家の瞼が開く。
黒く濡れた瞳に京一郎が映った。
「おはようございます、伊織」
「……」
しかし千家は再び目を閉じてしまう。
「起きないんですか?」
京一郎が尋ねると、千家が言った。
「……もう一度だ」
「は?」
「短すぎる。やり直せ」
何をやり直せというのか。
まさか―――。
「……分かりましたよ」
千家の子どものような我侭に呆れた素振りを見せながらも、京一郎はつい微笑んでしまう。
再び重なった唇は、またしても深く、熱いものへと変わっていくのだった。

- end -

2013.07.21


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