熱病


今年の流行性感冒は余程性質の悪いものであったらしく、一昨日から京一郎を苛んでいる高熱は一向に下がる気配を見せようとしなかった。
夜通し苦しむ京一郎の最も傍にいた千家はといえば、意外にも―――と言ってしまうのは少々気の毒かもしれないが、自ら看病を買って出た。
しかしながら常より世話される側の千家にとっては矢張り慣れぬ行為ゆえ、どうすれば好い、どうしてほしい、と度々病人本人に尋ねるものだから堪らない。
何もしなくて好い、風邪がうつるから放っておいてくれと言えば機嫌を損ねるし、それならばと可能な限り千家にも出来る事を探して選んで答えているうちに、京一郎はかえって疲弊しきってしまった。
そんな状態で朝を迎え、呂律の回らなくなってきた口でなんとか千家を説得して早々と仕事に向かわせたものの、症状は悪化の一途を辿るばかり。
千家の為にも、そして勿論己の為にも少しでも早くこの風邪を治したくはあるのだが、病は京一郎のなけなしの気力までも奪い去ってしまうのだった。

―――私はこのまま死んでしまうのではないだろうか。

しんと静まり返った部屋にひとり残され。
朦朧としてくる意識の中、ふとそんな考えが浮かぶ。
京一郎は幼い頃にも矢張りこうして高熱を出して、生死の境を彷徨ったと聞いていた。
そして、それをきっかけに死霊を見る力を得たのだ。
今ベッドに横たわるこの身体は鉛のように重く、指一本動かすことさえ億劫だ。
あれだけ酷かった寒気はいつの間にやら消え失せ、しかし暑いということもない。
時刻も分からず、声も出せず、腹も減らず、ただここに在るだけの肉塊と化している己。
もはや既に魂は肉体を離れ、彼岸と此岸をゆらゆらと行き来しているのではなかろうか。
そんな不安に襲われてなんとか瞼を開けてみるも、周囲はただ闇ばかり。
そもそも己が本当に目を開けているのかどうかも自信が無いという有様だった。
そうして一度抱いた不吉な予感は、やがて更なる惧れへと姿を変えていく。

―――もしや私はもう死んでしまったのではないだろうか。

己が気付いていないだけで、既に手遅れになっているのでは。
死ぬこと自体は怖くない。
しかしあの人を―――千家伊織を置いて逝くことだけが心残りだった。
必ず千家の死を見届けると、生涯を、運命を共にすると誓ったにも関わらず独りで先に逝けば、彼はどれほど怒ることだろう。
嘘吐きめ、裏切り者めと罵られ、心より蔑されるに違いない。
なにより京一郎亡き後、誰が彼の身の回りの世話をするというのか。
至れり尽くせりの怠惰な生活にすっかり慣れてしまった千家の面倒を看るのは並大抵のことではない。
京一郎の代わりとなって務められそうな家僕は、現在の邸には既に居なかった。
当の京一郎とて千家に対する情があればこそあれほど勤しめたのであって、そうでなければ早晩暇を告げていたはずだ。
しかしその京一郎が居なくなれば、他の誰かがそれを担うほかはない。

―――嗚呼、私が風邪などひいてしまった為に哀れな犠牲者を出すことになろうとは。

どうか神よ、お許しください……と祈ったところではたと気付く。
その新たなる僕が千家に思慕の念を抱いていたならば?
それは犠牲者などではなく、並々ならぬ幸運を手にした者となるかもしれないではないか。
そういえば以前、この邸にいた神職十四家の者の中には千家にそういった視線を向ける者も少なくはなかった。
千家に懸想する別の人間が、彼の身体を洗い、彼の髪を梳き、彼の着替えを手伝う。
その事態を想像するだけで京一郎はぞっとして、軽く吐き気を覚えた。

―――そんなのは、嫌だ。

彼に触れるのも、触れられるのも、私だけでありたい。
しかし死んでしまえば、その望みも儚く消えるだけ。
京一郎がそんな願いを抱いていたこと自体、千家は知らぬままになるのだ。

―――生きているうちに、きちんと告げておけば良かった。

彼と二人、手に手を取って黄泉比良坂を下るころには告げようと思っていた言葉。
けれど、こうして先に逝くことになるのならば早く口にしてしまえば良かったのだ。
もっと素直になれば良かった。
それが出来ずとも、せめて最期にもう一度彼に会えたなら。
そうだ、彼に会いたい。
千家伊織に。
私の魂の半身に。

「……」
京一郎はゆっくりと視線を巡らせる。
今際の際の願いぐらい叶えてやろうと神が同情してくれたのか、気付けば暗闇の中にぼんやりと千家の姿が浮かび上がっていた。
いつものように軍服に身を包み、感情の読めない美しい相貌を漆黒の髪に縁取らせ、こちらをじっと見つめている。
「伊織……」
その声が、きちんと音を成していたかは分からない。
しかし京一郎は千家の名を呼んだつもりだった。
それからなんとか彼に触れたくて、指先に力を込める。
最期に、もう一度だけ千家を感じたい。
その一途な想いだけで、京一郎は必死に手を動かそうとした。
「っ……」
やがて京一郎の手を、千家が取った。
震えながら辛うじて伸ばされた指先を、千家がしっかりと握り締めてくれる。
しかし、もう温もりは伝わらない。
それでも千家に触れられたことが嬉しくて、京一郎は微笑んだ―――つもりだった。
「伊織……」
そうだ。
今こそ、伝えそびれていたことを伝えよう。
現世に心残りが出来ぬよう、言ってしまおう。
どうせ最期なのだから、何を口にしても許されるはずだ。
呪詛の苦しみを祓ってあげられなくなってしまうけれど、ごめんなさい。
また貴方を独りで苦しませることになってしまうけれど、ごめんなさい。
でも、貴方の傍にいられて幸せでした。
本当はこれからもずっと貴方の傍にいたかった。
今後はもう少し自分のことは自分でするように、他の人達にあまり迷惑を掛けぬよう、食事もきちんと取って、お酒はほどほどに―――。
残したい言葉は次々と溢れてくる。
けれど、それらを全て声にする力はもう無かった。
ならば最も伝えたかったことだけを伝えることにしよう。
京一郎は最後の力を振り絞った。
「伊織……私は、貴方のことを……」



*



千家は腹を立てていた。
今朝、京一郎に急かされて普段よりも早く出勤したおかげで、帰宅は早目にすることが出来た。
とはいえ全ての仕事が完全に終わったわけではなく、確認すべき書類は持ち帰ってきたのだが、その程度はどうということもない。
それよりも流石にそろそろ快方へと向かい始めているはずだと確信しながら京一郎の眠る自室へと真っ直ぐ足を運んだというのに、そこで目の当たりにした光景が千家の予想とは全く違ったものだったのだ。
千家のベッドで眠る京一郎は相変わらず高熱の為に赤い顔をして、苦しげな呼吸に胸を上下させていた。
あれだけ甲斐甲斐しく看病してやったのにこれはいったいどういうことかと顔を覗き込めば、京一郎の瞼がゆっくりと開いた。
「京一郎」
呼べば京一郎は儚げに微笑み、こちらに手を伸ばしてきた。
所在無さげに漂う指先を握り返してやると、その手はまだ酷く熱かった。
「伊織……」
やがて京一郎が唇を震わせ、なにやらぶつぶつと呟き始めた。
しかしよく聞き取れなかった為、千家は身を屈めて京一郎の口元に耳を寄せた。
「どうした、京一郎。何か欲しいものでも……」
「伊織……」
「ん?」
「伊織……私は、貴方のことを……」
「―――」
その囁きを聞いた千家は握っていた京一郎の手を即座に振り解くと、階下に下りて至急医者を呼ぶようえらい剣幕で家僕を怒鳴りつけた。
医者はすぐさま千家邸に駆けつけ、京一郎を丁寧に診察したあとで一言「風邪ですね」とのたまった。
そうして京一郎の腕に注射を一本打ち、あとは薬を置いて帰ろうとしたところを千家に止められ、 「今にも死にそうな患者にたったそれだけの処置しかしないとは、貴様は藪医者だな」と散々詰られる羽目になったのだった。
汚名を着せられた気の毒な名医は、それから小一時間を掛けて京一郎が本当にただの風邪であること、 注射を打ったからあとは薬さえきちんと飲めばすぐに良くなることを千家に懇々と説明し、ようやく帰ることを許された。
去り際に彼が小声で「そんなに大騒ぎするならもっと早く呼んでくだされば……」と言ったような気もしたが、そこはあえて聞こえていない振りをしてやった。
実際、一刻もせずに京一郎の容体はみるみる落ち着きを見せ、呼吸も規則正しいものに変わっていった。
「……まったく、お前が妙なことを口走るから……」
千家は京一郎が眠るベッドの傍で、持ち帰ってきた書類仕事を捌きながら舌打ち交じりに独り言ちる。
京一郎の唇から零れた思いも寄らぬ囁きに、とうとう彼が正気を失ったと思ったのだ。
思い出話として聞かされた幼き頃と同じく、今にも黄泉へと引きずり込まれようとしているのではないかと。
しかしどうやらあれは高熱にうかされて漏らした、ただの譫言だったらしい。
つくづく人騒がせなことである。
「……」
だが、病人相手にいつまでも腹を立てていても仕方がない。
千家は仕事の手を止めて、京一郎の寝顔を見つめた。
京一郎はさきほどまでとは打って変わって、何処かすっきりしたような表情ですやすやと穏やかな寝息を立てている。
家僕の話によると幾度か部屋を訪れた際も、それほど具合が悪いようには見えなかったらしい。
何か入用の物はないかと声を掛ければ要らぬと答えたそうで、しかし恐らく彼はそれすらも覚えていないだろう。
そのほうがいい。
全てを覚えていたとすれば、今度こそ死んでしまいたくなるに違いない。
「伊織……」
「京一郎?」
不意に名を呼ばれて、ようやく目が覚めたのかと顔を覗き込んでみたがどうやら寝言のようだ。
目は閉じたままだったが、口元はまるで微笑んでいるかのように緩んでいる。
「伊織……私は…」
「……!」
続くと思われる呟きを遮る為、千家は京一郎の唇に指先で触れた。
またあの言葉を繰り返されたなら、きっと歯止めが効かなくなる。
聞かなかったことに出来なくなってしまう。
同じ言葉を返したくなってしまう。
だから千家はそれを拒んだ。
やがて千家の指が離れると、京一郎の唇は再び閉じて寝息だけを立てはじめた。
「……世話の焼ける奴め」
普段は散々己が言われていることを、お返しとばかりに呟いてみる。
京一郎が全快したならば、もう二度と風邪などひく暇もないほどにこきつかってやろう。
千家は京一郎の髪を一撫でしてから、再び書類を捲りはじめた。

- end -

2014.06.10
2016.09.06 修正再up


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